Re:第八話【空っぽの少女、選ばれし者の嘆き】
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あれから私は洞窟を出た。誰もいない暗闇を後にし、ただ、足を前へと運ぶ。
アスフィは一人、どこかへ消えた。
(……もう、いい)
彼の姿が遠のくのを見ても、私は振り返らなかった。だが、それはアスフィに対してではない。
私が本当に背を向けたのは――アリスだった。
今の私は、かつて姉と慕ってくれた彼女に見せるべき姿ではない。
私はルクス……? それともカエデ……?
「……私は…………」
かつて当たり前のように存在していた"私"という存在が、今はどこにもない。
どうやら、あの緑髪の神が私の"二つの人格"を制御していたというのは本当らしい。
頭がまとまらない。思考がちぐはぐで、何を考えるべきなのかすら分からない。
誰を助けるべきだったのかも……
いや、それどころか――
(私は、何をするべきだったのか……)
遠のいていく記憶。彷徨う視線。
手に握りしめたのは、あの謎の男が残していった漆黒の杖。
「……そういえば、私はこれまで杖を持たずに戦っていましたね」
魔法使いにとって杖は不可欠。魔力の制御、威力の上昇……あらゆる恩恵をもたらす道具。
だが、私には必要なかった。魔力のコントロールなど、感覚で分かったから。
ふと、手元に目を落とす。
「……この現象……どこかで……」
蛇が這うような、禍々しい模様が皮膚に刻み込まれていた。
「これは……何?」
分からない。分かるはずなのに、分からない。
脳に霧がかかったように、記憶が曖昧で、もどかしい。
彼女はゆっくりと、杖を振った。
――瞬間、夜空が裂けた。
轟音と共に、天から雷が落ちる。稲妻の輝きが彼女の影を浮かび上がらせ、地を焦がす。
「雷……これは…………」
彼女の目が見開かれる。
「ああ、そうですか……そういうことですか」
"選ばれた"。
その言葉が、脳内に響く。
「私は……選ばれたのですね」
ふっ、と口元が歪む。
「は……はは……ははははははは……」
それは歓喜にも、絶望にも見える笑みだった。
夜空を見上げるその表情は、不敵でありながらも、どこか悲しげで……どこか、虚ろだった。
――ポツ……ポツ……
雨が降る。
「……次は私ということですね」
雨粒が肌を打つ。冷たい感触。
だが、それよりも心を凍らせるのは"役割"という言葉。
「"役割"は……私を選んだ……」
役割……
その響きが、記憶の奥深くを抉るように、彼女の思考を揺さぶる。
("役割"……私は……)
分からない。けれど、ひとつだけ確かなことがある。
どれだけ記憶が曖昧になっても――
どれだけ自分が何者か分からなくなっても――
愛する人の名だけは、決して忘れていなかった。
「我を……助けて……下さい……」
黒と白が混じり合う影。存在の輪郭が揺らぎ、形を変えていく。
そして彼女はただ一言、そう呟き――
姿を消した。
……
…………
………………
ある城にて。
冷たい夜風が城の窓を叩く。
燭台の炎がゆらめき、静かな城内にわずかな影を落としていた。
「で、これからどうするのだ?」
重い沈黙を破るのは、変わらぬ口調の少女――エルザ。
「……決まってんだろ」
アスフィの声には迷いがない。
「両方助ける」
彼の中にある決意は揺るがない。たとえどれほどの困難が待ち受けようとも、助けたい者がいる。それだけが、今の彼を突き動かす原動力だった。
「私も賛成。……ねぇアスフィ、『剣聖』ってレイラにピッタリだと思わない?」
レイラが少しはにかみながら口を開く。その声音には、どこか彼に認めてもらいたいという期待が滲んでいた。
「……そうだな。でも、レイラには”レイラ”がお似合いだ。無理に”私”とか使うな。なんかモヤモヤすんだろ」
(レイラはレイラだ。それが一番いい)
彼は少し眉をひそめながらそう言った。
「……だってアスフィ、”私っ子”が好きなのかなって……アスフィの周りって皆そうだもん……」
(……確かに、そうかもしれない)
彼女の言葉に、一瞬返す言葉を失った。
だが、それでも――
「……はぁ。俺は今の取繕ったレイラより、以前のようなレイラのほうが好きだ」
レイラはレイラのままでいい。変わる必要なんてどこにもない。
「おいおい、私が居るのだぞ! イチャイチャするな! するなら私ともしろ!」
エルザが割って入り、冗談めかした声を上げる。
「うるせぇ。お前は変わってなさすぎなんだよ」
呆れながらも、その変わらないエルザに、どこか安心する自分がいた。
だが、次の瞬間、アスフィの目つきが変わる。
「……いいか二人とも。これから真面目な話をする」
アスフィは真剣な表情で口を開いた。
だが――
「うむ? 私は最初から真面目だったが?」
エルザがどこか得意げに胸を張る。
(……はぁ)
心の中で大きく息を吐いた。
(分かってた……分かってたよ、こいつがこういうやつだってことは……でも、もうちょっと空気読めよ……)
真剣な話の前に、この軽すぎる返し。
冗談ではないと伝えたかったのに、エルザは相変わらずだった。
(……まぁ、変わらないってのも、ある意味安心するけどな)
わずかに視線を落としながら、アスフィは気を取り直して続ける。
「…………アイリス……いや、アリスは先に行かせた。アイツは特に特徴のない『荷物持ち』として転生した。それなのにアイツを先に行かせた理由だが……何故か分かるか?」
「……何故だ?」
エルザが腕を組みながら尋ねる。その鋭い眼差しは、ただの好奇心ではなく、真意を確かめようとするものだった。
「何でなの? アスフィ」
レイラも疑問を抱いたまま、彼を見つめる。
「…………お前らな……」
アスフィは一度深く息を吐き、言葉を選ぶように口を開いた。
「今のアリスには神の力はないが、"知識"がある。それにルクスを探すのならアイツが適任だろう。何が何でも"お姉様"を助けたいはずだからな」
それは確信だった。どんな世界に転生しようと、アリスの根本は変わらない。
ルクス――彼女にとって"お姉様"を助けるためなら、どんな道でも進む筈だ。
「うむ……なるほど。しかし、この世界は一体何なのだ?」
エルザの言葉には、言いようのない違和感が滲む。
「頭の中に自分が知らない知識がある。それも以前の記憶の上から塗りつぶすかのような……それにこの世界にはパパが居る。以前はお別れすら出来なかったのだ……だから私はこの世界が……」
("この世界"……か)
レイラの言葉に、アスフィは思考を巡らせた。
「お前の言いたいことは分かる。だが、この世界は間違いだ。もちろん、以前の世界もな」
アスフィの言葉は冷静だったが、その奥には揺るぎない意志が込められていた。
「俺が救う対象は世界だ。この世界まるごと救って元に戻すのが俺の役割だ」
言葉に力がこもる。
「そして、そのためには仲間が必要だ。マキナはもちろんルクスもな」
仲間――それはただ戦うだけの存在ではない。共に未来を創る者たち。
今ここにいない仲間も、必ず迎えに行く。
「だからまずは、世界の前に二人を救い出す。必ずこの世界のどこかに居るはずだ」
アスフィは力強く拳を握る。
「『剣聖レイラ』、『魔王エルザ』、そして俺――」
三人の名が並ぶ。勇者、魔王、剣聖。
本来なら決して交わるはずのない存在が、今ここに集っている。
それでも、彼は誓う。
「待ってろよ、二人とも」
遠く、まだ見ぬ仲間へ。
勇者と魔王と剣聖という、歪な勇者一行が――今、動き出す。