七話 「アナイスメル その3」
「わかりません」
一瞬、ヘインシーの言葉の意味がわからず何度か瞬きをしたのち、バクナイアはもう一度問う。
「どういう意味かね」
「言葉通りの意味です。わからないのです。そう、わからない。アナイスメルはどこにあるのでしょうか。謎なのです」
彼は嘘をつく男ではない。わからないことはわからないと言える勇気ある人間だ。だが、今はそれが少しばかり恐ろしい。
ヘインシーは、やや思案するように視線を床に移しながら続ける。
そこには誤まって押さないようにと隔離された「教えて君」があった。うっかり踏みそうなのでもっと危ないとは思ったが。
「アナイスメルの階層一つ一つは、約三億八千万の【波形配列】によって成り立っています。それをあのデバイスを通じて我々が理解できる波形として読み取っているわけです」
波形の種類は、現在わかっているだけでも百二十八種存在している。それが複雑に絡み合って何かを構成しているのだ。一つ解析するだけでも気が遠くなる時間が必要となる。
それはまるで知らない文明を解析する行為に等しい。
何も知らない状態で「これは文字だろうか、それとも記号だろうか?」と自問しながら進むのだから遅いのは当然なのだ。
「それが百倍か。たしかに大変だな」
ふと言った言葉だったが、ヘインシーはそこを訂正せざるをえなかった。
「長官、百倍ではありません。【百乗】です」
「百乗? …百回【掛ける】という意味かね?」
普段から計算には疎く、「乗」という言葉に馴染みがないバクナイアはその意味が最初はわからなかった。
数学の授業で習ったかもしれないが、百乗などという言葉は今までの人生で一度も役立たなかったからだ。
だが、その百乗が問題であった。
「はい。その百乗です。次の階層では、その三億八千万のパターンが二乗されます。そして次の階層では、さらに同じように二乗されるのです。それが難航している理由です」
ヘインシーは、とりあえず階層と呼んでいるが、それは単純な次の階段という意味ではない、とも補足する。
波形は常に動いており、一定ではない。それらが幾重にも集まって生まれた一つの階層は、もはや一つの別の波長の世界であるともいえるという。
二乗という言葉も実態とは少し異なる。波形は無限に広がっているので、おそらく概念上は限界がない。
つまり無限だ。無限に広がる階層がアナイスメルには存在しているという。
ただ、ある段階に達すると一つにとどまる性質を持っているようで、その集合体を階層と呼んでいるにすぎない。その集合体の外側、あるいは内側にはさらに違う巨大な波形の集合体が存在する。
それがおそらく百回繰り返されている「であろう」という推測に基づき、百層という言葉を使っているのだ。
バクナイアはこの段階で思考を破棄した。
そもそも十の十乗ですら暗記しないことにはすぐには浮かばないのだ。もう計算も思考もする意味はないだろう。こういう話が嫌いだから自分は今の役職になったのだから。
「そんなもの、よく解析できているな」
「この段階で、すでに人類が持つ装置での解析は不可能です。よって我々は別の装置を使って研究を続けています」
ヘインシーは自身の頭を指差す。
この世界で最も優れた道具は何か。
その答えは【人】である。
「アナイスメルが発している【波動】は、人のそれに近いのです」
「脳の処理機能を使うという意味かね?」
「いえ、脳でも間に合いません。脳はあくまで出力媒体の一つにすぎないからです。アナイスメルの情報はそれを遙かに超えています」
人間の脳は優秀である。古来よりさまざまな研究者がその驚異に気がつき実験を繰り返してきた。かつてのデータでは、アナイスメルの研究に脳が使われていた記録も発見した。
が、結局は失敗に終わっている。
では、何を使っているのか。
「それは、我々の【意識】です」
脳はあくまで意識を表現するための下位端末であり、その上位には常に意識が存在する。
意識から思考、思考から声帯への結果が言葉であるように、反射が人の脳での思考を超えるように、その根幹には『潜在意識』がある。
「より正確に述べるならば、我々の【高次の自我】が理解したものを意識を通じて出力し、それを脳が処理しています。それが人です」
ヘインシーの説明は理解できない点が多い。技術次官なのでもっと現実的な説明を期待していたバクナイアは困惑を隠せない。
「よく理解できないが、とりあえず人を使うということかね?」
「そうです。アナイスメルは【人を欲している】のです」
これこそが、人を使うことを前提としたシステムという意味である。アナイスメルが発した波動は人を通じて理解されるのだ。
あの石版状のデバイスは、発せられた波形を人が感得できるレベルにまで変換する機能があり、【特殊な人間】によって翻訳される。
「その波動を感得できる人間は、十万人に一人いるかどうかです。我々の仕事の大半は、その人物の捜索及び勧誘にあてられています」
人物はアナイスメルそのものがリストアップしてくれる。あとは直接接触するか、間接的にこちらに向かうように仕向けるかである。
その人物の仕事は非常に簡単だ。デバイスの前にいればいいだけ。あとは自動的に適合者の意識が翻訳機能を果たしてくれるのだ。
そうすれば百層に渡って作り出した独自のシステムが稼動し、莫大なデータをアナイスメルから引き出し運用することができる。
ダマスカスの中核であるアナイスメルは、たった一人の人間の意識によって運用されている。これが世界の富の実態であった。
「ただし、一定期間を過ぎると感覚が鈍くなり、翻訳の機能を果たせなくなります。定期的に【交換】が必要です」
そして、現在翻訳に使っている人間も、今日入れ替える予定だと伝えた。まだ余裕があるが、万一に備えて早めに交換をしたほうがいいという判断である。
それがたまたま国際連盟会議と重なったのは偶然だった。この会議自体が緊急のもので意図したものではなかったからだ。
本来ならば日程を変えるべきかもしれないのだが、国際連盟会議の目的がアピュラトリスの正常動作の確認である以上、こうした大切な作業を延期するわけにはいかない。
部品は人間なのだ。事故で死ぬ可能性もある。できれば早めに確保しておきたいのが本音であった。
「…人柱か」
思わず出た言葉はバクナイアらしいものだった。
自国の繁栄がそうしたシステムで成り立っていたことにショックを受けると同時に、その人物が哀れに思えたからだ。
が、それは人間味溢れる彼だからの価値観と倫理観であり、ヘインシーはまた違う考えを持っていた。
「再充電不可能な使い捨ての【電池】だと思ってください。あくまで道具を動かすための電池です。ですが、彼らへの褒賞は一般人から見れば破格なものでしょう」
宝くじよりも遥かに確率の高い成功が約束される。浮浪者がたかが三年で億万長者になれるのだ。一生買っても当たらないギャンブルとは違う。
もっとも、宝くじの当選すらもアナイスメルが当たる人物を操作しているのだから、すべての富は意図して生み出されたものであるといえるが。
「富で得たものは富で返すか。我々ダマスカス人らしいやり方だ」
バクナイアの自虐にはヘインシーも笑って返すしかなかった。
「しかしまあ、よくそんなものが制御できるものだ」
バクナイアは非常に素朴な感想を述べる。今まで聞いている限りでは、人が扱えるレベルをすでに超えているように思えるからだ。
「ですので、その表層に百層にも渡るシステムを構築したのです。あくまで【たかだか金融程度】のものを扱うためにです」
オリジナルの表層に造られたシステムは、既存の技術が使われている。非常に高度ではあるが、今までの人類が築いてきた技術で補っているのだ。
それらすべてはアナイスメルの思考パターンの翻訳という位置づけである。与えた情報に対してアナイスメルが蓄積した情報を元に反射あるいは反応を返す。それは人間のものと同じだ。
ただし、その速度と規模と正確性は比較にならない。最新の機器の性能を遙かに超えている。おそらく永遠に追いつくことはないだろうとも考えられていた。
(ということは、そもそも使い方が違うのだ)
ヘインシーは、アナイスメルは本来そうした使い方をするものではないと考えていた。
あれはもっと大きな、人の意識に対して作用する何かの装置ではないかとも。
最近では、人が【神】と対話するために造った【妄想の産物】なのではないかとも考えるようになっていた。
技術次官という立場であるならば、できるかぎり抽象的な表現は避けるべきだと怒られるかもしれないが、実際にアナイスメルの管理をしている身であれば、いかなる可能性も捨てるべきではない。
そもそも生命という存在の本質すら、地上の人間には漠然としたものとしか映っていない。物的な観点からは捉えることが不可能なのだ。
そして、一つの言葉に行き着く。
(【ウロボロスの環】、それが鍵かもしれない)
研究をしているとさまざまな分野の資料と出会う。その中には神秘学的な考えも多くあり、ウロボロスという名前も多く出てくる。
ウロボロスとは、自分の尾を咥えて円形になった蛇のことで、死と再生の象徴として古くから宗教的にも扱われているシンボルだ。形而上のものではあるが、アナイスメルの実態も目に見えないという意味では同じようなものである。
仮にアナイスメル、あるいはバン・ブックというものがウロボロスを紐解く鍵になるのならば、学術的にも科学的にも非常に興味深いものである。
なぜならば、それは人類が偉大なる者に追随することを意味するのだから。
されど、それは現在の富とはまったく関係のない分野である。ダマスカスとしてはリスクを背負うよりも絶対的な金融システムであってくれたほうが都合が良いだろう。
(偉大なる者は霊的な技術を応用できると聞いたことがある。では、アナイスメルもその装置の一つだとすれば、造ったのは彼らだろうか。いや、だがあれはもっと人間的な…)
ヘインシーが深い思考の中に没入していると、咳払いが聴こえた。
「ところで、せっかくのご教授はありがたいが、さすがの私もそこまで暇ではないのだが…」
バクナイアの言葉にヘインシーは正気を取り戻す。
思考に没頭してしまうと周りが見えないのは悪い癖だ。このままではバクナイアに対して失礼だし、『肝心の用事』を頼めないと困る。
「そろそろ用件を伺いたいのだが。できれば簡潔にね」
「ああ、申し訳ありません。簡潔に述べますと…」
何度か床と天井を見つめならが思案した結果、ようやくその言葉を発するに至った。
「アナイスメルが【ハッキングを受けている】可能性が高いです」
非常に簡潔に述べた。
やればできる。ヘインシーは満足げだ。
さらに、もしそうならばアピュラトリスの制御室もすでに制圧されている可能性がある、とも付け加えた。
満面の笑みで。
しばしの沈黙後、バクナイアは激しい脱力感に襲われながら全身全霊を込めてその言葉を紡いだ。
「そういうことは最初に言ってほしかったよ」
そして、思わず立った勢いで「教えて君」を踏んだ。