五話 「アナイスメル その1」
初めて異変に気がついたのは、ヘインシー・エクスペンサーという男だった。
会議の休憩時間にたまたま空を見上げていた時、ふと【ノイズ】が走った気がしたのだ。最初は気のせいかと思ったが、どうにも嫌な予感がした。
それは彼が、今日に限って外出していたせいだったからなのかもしれない。今日が、いつもの指定席である【アピュラトリスの最上階】ではなかったから慎重になっていたせいもあるだろう。
ヘインシーの精神は深く【例のもの】と繋がっているので、感覚と視力を使って変化の確認ができるのだ。状態はクリアだった。しかし、妙な違和感を覚えた。
たとえば自分が普段使っているペン。毎朝触っているので違和感なく使えるだろう。毎日同じように使い、毎日同じように置く。
たしかに今日も同じ場所に置いてあった。同じ場所、同じ書き心地。仮に少し違和感を抱いても、たいていは自分の調子が悪いことを疑うに違いない。今日は調子が悪いのだ、と。
しかしながら、このヘインシーという男は非常に几帳面のわりに変な癖があった。毎日置く場所は同じでも、わずかに動かしてみたり、ちょっと消しゴムのカスを残してみたりする。
特に意味はない行動だ。自身も変な癖だと思っている。思春期の少年の部屋ならばいざ知らず、そもそも【絶対に誰も来ない場所】でそのようなことをする意味がないのだ。
ただ、今日に限ってはそれが功を奏したといえる。こんなことは一生に一度どころか、何百年に一回あるかないかの実にどうでもよいものだが、まさかこんなことで露見するとは、さすがのルイセ・コノも予期はしていなかっただろう。
ヘインシーは今日が外出日だということもあって、例のもの、『アナイスメルの九十六階層目』にちょっとした印をつけていた。
それは本当にちょっとした印で、千個並んだ【大】の文字の中に一文字だけ【犬】が交じっている程度の些細なものだ。
なぜそうしたのかわからない。いつものように、きっと何の意味もなくやってみたのだろう。
だが、それが―――無い
今はすべてが完全に【大】で表現されている。何度も確認したが間違いではないようだった
「うーん、百三…いや、百五だろうか。なるほど…これはまたなんとも…」
ヘインシーはしばらく宙に向かってぶつぶつと何かをつぶやきつつ、自身にあてがわれた高級官僚用の部屋に戻った。
それからもしばし思案したのち、おもむろに内線を使って一人の男を呼び出す。
男はすぐにやってきた。完璧に整えられた茶色のスーツを着込んだ白髪の男である。
齢六十を超えるも、いまだに肉体は引き締まっており、眼光も鋭い。すぐにやってきたあたり行動力もある人物といえる。
「お忙しいところ申し訳ありません」
ヘインシーは男を出迎え、中に入るよう促す。
「かまわんよ。どうせここでは私のやることも限られているからね」
促されるまま男はソファーに座ると、タバコを取り出した。
「いいかね?」
ヘインシーが頷くと、タバコに火をつけて一服。
家では妻に禁煙を宣言している手前、なかなかこうしたチャンスはない。職場でも秘書が妻に告げ口するので油断もできないのだ。
きっと妻に買収されているに違いない。きっとそうだ。あいつは今度左遷だな、などと考えつつ至福の時を過ごす。
「ふぅ、生き返るな」
「【会議】のほうはどうですか?」
男の気が緩んだのを見て、ヘインシーも向かいのソファーに座る。
「順調だよ。いつもこのようであれば楽なのだがね」
ここはグライスタル・シティの中心部、アピュラトリスから車で三十分程の場所にある国際会議場である。隣にはローランパークと呼ばれる国会議事堂があり、この一帯はダマスカスの中枢といえる。
現在、この国際会議場では【国際連盟会議】が行われており、いつも以上に政府関係者が多く集まっていた。呼ばれた男、バクナイア・ゼントーベルも何があってもいいように待機していたところ、ヘインシーに呼び出されたというわけだ。
このホテルは会議場のあるフロアにも繋がっており、外に出ることなく往来が可能となっている。呼び出してから十分で来たことを考えると相当近い。
「『偶像』ながらルシアの天帝陛下もおられるし、シェイクのベガーナン連合国大統領も出席なさっている。それにだ、あのグレート・ガーデンの超帝陛下もおられるのだ。何かあったら私の首だけでは済まないよ」
苦労を聞いてもらいたかったのだろう。バクナイアは会議の様子を少し興奮しながら語った。
近年の情勢からルシア天帝とシェイクの大統領が出席することは久しぶりだ。それに加え、記念すべき第一回連盟会議以来の出席となるグレート・ガーデンの『超帝』も出席するとなれば警備はさらに厳重となる。
そのほかにもロイゼン神聖王国からは、王子のほかにカーリス教の【法王】も来ている。これだけのVIPが揃うのは非常に稀なことだ。
カーリスは世界最大の宗教であり、ロイゼンの第一神殿は信者にとっての聖地である。カーリスが崇めるのは【女神】や【聖女】であるが、法王は神の代理人でもあるので何かあれば当然大問題だ。
「だからこそ君に呼ばれた時は、心臓が止まりそうになったよ」
何かあれば戦争に発展しかねない状況が整っているのだ。
特に開催地のダマスカスにとっては彼らを守る責任があるので、気が気ではない。まさに蟻一匹通さない厳重な警備態勢で臨んでいる。
「今も心臓が痛いくらいだよ。心臓麻痺で死んだら妻はどうするだろうか。年金暮らしを楽しむかな。それとも再婚するだろうか」
バクナイアが結婚したのは今から四十年ほど前、まだ彼が陸軍に入隊したての頃だ。妻は同期の士官であった。ちなみにエリートコースであるバクナイアたちは、少尉からのスタートである。
それ以後妻一筋で過ごし、大切な会議も妻の機嫌が悪い際は欠席するなどしていたため、愛妻家として知られている。そのため今年の四十年目の結婚記念日に「いい夫婦で賞」をもらっていたのをヘインシーは思い出す。
「愛しておられるのですね」
「まあ…腐れ縁だとは思うさ。それに君は知らないだろうが、私の妻は非常に豪胆な性格でね。いつも私は恐怖政治の犠牲になっているよ」
会議を欠席したのも妻が怖いからだ。一度怒ると手が付けられないのは昔から変わらない。
なにせ彼女は【武人】であり、バクナイアよりも強いのだ。暴れたら本気で抵抗してもボコボコにされている。
それでもこうして一緒にいるのだからやはり愛しているのだろう、と密かに微笑んでいたバクナイアであった。
「お体にはお気をつけください。心臓は大丈夫ですか?」
「ははは、それは冗談だよ『技術次官』殿。これでもまだまだ現役のつもりだ。簡単には死なないさ」
身体もまだまだ元気だ。国のためにあと二十年は働きたいと思っているくらいである。
しかし、ヘインシーが語った言葉で彼の二十年分の寿命は縮まることになった。
「いい奥さんですね。長官がタバコを吸ったら教えてくれと言われていますし、健康を気遣ってのことなのでしょう」
思わずタバコが口から滑り落ちた。
バクナイアは異様な鼓動を見せる心臓を必死になだめる。まさか、いやまさか。そんなことがあるものか。気がつけば本当に心臓が痛くなり、頬を汗が伝っていた。
「まさかとは思うが…妻と会ったのかね?」
「いえ、お会いはしておりませんが、連絡がありまして…」
ヘインシーのもとに小包みが届いた。もちろん内部は危険物でないことは検査済みである。
開くと夫が喫煙していたら教えてほしいという内容の手紙が同封されていた。それを見てヘインシーは、夫の健康を気遣う立派な淑女なのだと感心していたのだ。
「……」
しばし唖然としたあと、バクナイアは思ったことを素直に言葉にした。
「冗談だろう?」
「いいえ」
ヘインシーは嘘を言わない。だから本当なのだろう。
視線が宙をさまよい、首を傾げる。そしてどうしても腑に落ちないことがある。
「では、なぜ私が喫煙する前に止めなかったのだね?」
「止めるようには言われていなかったもので。まずかったですか?」
このあたりがヘインシーの問題点である。彼に悪気はまったくない。そうしたことに干渉しようとはしないのだ。ただ起こったことに対してのみリアクションをする。「ああ、吸ったな。あとで連絡しとくか」と思っただけにすぎない。
技術屋ならではの性格なのか、単にどこか少し抜けているのか。あるいは才能ある人物というのは少しおかしいのが相場なのだろうか。
「ヘインシー君、まさか私を売るような真似はしないだろうね。この私をまさか売るなどと!」
半ば脅迫じみた口調でヘインシーに詰め寄る。まさかこんなところにスパイがいるとは思わなかった。完全に油断だ。
しかしまだ食い止める手段はある。
「いいかね、私がその気になれば何だってできるのだよ」
ここで地位の濫用である。
彼にとっては妻のほうが何倍も恐ろしいのだ。どんな手段を使っても隠蔽しなくてはならない。
「いやだー! 頼む! 黙っててくれ!! 君は妻の恐ろしさを知らんのだ!」
そして、ついには頭を下げた。
机に思い切り額を叩きつけて誠意を示す。もうプライドはない。
「あっ、いえ…その、長官」
「頼む! この通りだ!」
何度も頭を叩きつける。これでもかと叩きつける。
その必死な態度に、さすがのヘインシーも引く。最初は健康を気遣ってのことだと思っていたが、どうやら違うらしい。
ヘインシーもそこまでされれば、密告などするつもりはない。
しかし、ここで残念なお知らせがある。
「長官、非常に申し上げにくいのですが…」
「私がこんなに頭を下げているのに、君は見捨てるのかね! ひとでなし!」
「いえその、実は…」
ヘインシーは本当に申し訳なさそうに机を指差し、一つの物体の存在を示す。
【ソレ】はちょうど、バクナイアが頭を叩きつけていた場所にあった。
「これは…何だね?」
バクナイアがそれを取る。今になって気がついたが、最初からそこに置いてあったもののようだ。
五センチ四方の四角いプラスチックに平べったい丸いボタンがついている、なかなか押しやすそうなデザインの物体だ。
「実はそれが奥さんからの送り物でして…」
これこそバクナイアの妻が各人に渡してある『教えて君』という密告専用のスイッチであり、ボタンを押すとバクナイアの自宅の妻が座る椅子が二メートルほど飛ぶという謎の仕掛けがあった。
当然、妻が座っていれば一緒に飛ぶ。なぜそのような仕組みなのかヘインシーが疑問に思ったが、特に気にしないでいた。
ちなみに真相はこうだ。
「嘘をつかれた怒りを忘れないように」。
恐ろしい発言である。
その恐ろしさを知るバクナイアが必死に頭を下げていた時、自らその死刑執行のボタンを押していたのだ。額で。何度も。
起こったことは仕方がない。なにせ押したのが当人なのだからヘインシーに罪はないだろう。
バクナイアはしばし放心していたが、もう諦めたようだ。多少ボコボコにされるくらいのこと。一度鼻を折られたことがあるが…あるが、そのことは忘れることにしよう。
ただし、もう一つ残念なお知らせがある。
この時バクナイアの妻は、天気が良かったのでたまたま庭に椅子を運び、優雅にお茶を飲んでいたのだ。
自宅にある美しいダマスカス庭園の【池】を眺めながら。
その後の結末はもう語るまでもないだろう。
怒り。それは恐ろしい感情であることをバクナイアは近いうちに知るはずだ。嫌というほど、わが身をもって。