四十二話 「業火の縁 その3」
「だから罰を与えるというのか? 傲慢だとは思わぬか。人の分を超えておるよ」
罰を与えるのは神法の役目。人が人に罰を与えれば自らに返ってくる。それが神の法なのだ。カルマの処理に労力を使い、人の進化もまた遅れることになる。
むろん、彼はそれも知っている。
「所詮、神法は人を通じて働くもの。これは人々が求めたのではありません。【星自ら】が求めたのです。それゆえの悪魔という存在でしょう」
人々が堕落を求めた時、星という生命は浄化を決めた。
最初は地殻変動。天変地異。異常気象。星の悲鳴であり、人によって汚染された部分の修復と再調整を目的としている。これらは物的な変動であるが、実際はより精神的、霊的な分野に及んでいる。人の憎悪、嫉妬、恐怖、幾多の戦争と略奪、差別によって生み出された禍根と遺恨が世界に大きなダメージを与えているのだ。
そして、もっともダメージを受けたのは【ウロボロス】。
これが致命的であった。
「人の魂の再生が止まれば人類は滅びますぞ。この地上は、もはや霊の暮らす場所ではなくなります」
再生とは進化である。幾多の人生を星で生きることで霊は進化していくが、その星自体の進化にも責任を負う。その最高責任者こそが女神たちである。
女神の子らである今の人類は、この星の進化に対しての責任を負っている。星を汚せば掃除をしなければならない。奪ったのならば与えねばならない。これは義務である。
本来は水の優しさをもって行われるべきものが、人の無知ゆえに火によって成されることが決まった。
星は業火による痛みを欲したのだ。
やむにやまれぬ痛みから【外科手術】を要請した。
そして、悪魔を呼んだのだ。
その声の強さや、時代を突き抜けるほど。
悪魔の誕生こそ星の求めたことである。
「いわば光の女神マリス様誕生より連なる、一連の大事業の終止符。その締めくくりです!!」
光は闇を淘汰する力。炎は暗闇を打ち消す巨大な力。だからこそ光は今まで闇に包まれていた。自ら燃え立たせるために。
そして、今こそ闇を打ち払う時なのだとオンギョウジは感じるのだ!
「闇は急がぬ。人の進化を見守る穏やかな力じゃ。急速な進歩は必ず反動を生むものよ」
「それでも安穏とした日々を怠惰に過ごすよりはましでありましょう。人には刺激が必要なのです」
進化から外れた者が辿る道は、怠惰と退屈という耐えきれない痛み。それは火で焼かれるよりも痛いのだ。人がそう思わなくても、まさに地獄である。
もし火が人々を焚きつけなければ、そうした未来が待っている。自分が病気であると知らず、安穏と日々を暮らす人間が幸せだろうか? 真実を知らぬほうが楽だろうか?
それはそれで楽であろう。ただし、最後はもっと苦しむことになるのだ。それを知った以上、黙って見ていることはオンギョウジにはできない。
「火は強い力じゃ。痛みが強すぎる。それでは治る前に死んでしまうぞ」
「何千年と封じられるよりは自由を求める。それが人の心、霊の本質でありましょう」
「愚かなことを…」
オンギョウジの答えに羽尾火は首を横に振るしかない。もうすでに両者の意見が重なることはないのだと悟る。
「この対立も、すでに女神によって定められたことか」
羽尾火はそう確信した。
この宿命の螺旋は両者の激突を欲している。巨大なうねりの中にある作用と反作用による爆発と再照合を欲している。この結果を受けて世界が再び微調整をするかどうかを決めるのだろう。
「ならば、仲間を連れてこなかったことは失敗じゃ。なぜ一人で来た」
オンギョウジはあえて一人でやってきた。結界師が一人でも欠ければ作戦に支障が出ることと、何よりももう一つの理由。
「あなたお一人倒せないようでは、世界を相手にはできませぬからな」
顔の焼けただれた痕が自身を奮い立たせる。自身の使命を果たすための最大の障害の存在を喜んでいるのだ!!
「傲慢よ。身の程を知るとよい」
羽尾火の背後から膨大な火が生まれ、やがて一つの形を生み出していく。それは炎で出来た十メートルはあろうかという三つ首の竜神であった。
(巨大よ。さすが羽尾火殿!)
オンギョウジは、膨大な魔力の波動に思わず気圧される。火秘術かひじゅつ》、【竜形炎化】。魔王技の火を操る術をエルダー・パワー独自で改良した術である。
いわば式神の一種で、自身が発した炎に形態を与えて自在に操るものだ。魔王技の炎の術は威力が高い反面消耗も大きいので、こうして式神を作っておくと効率化と同時に安定した術の運用が可能となる。
大きさは与えた魔力によって変わるが、生み出した大きさと形成時間によって相手の基本能力を知ることができる。一瞬にして巨大な炎の理を生み出した羽尾火に文句のつけようもない。構築の速度、規模、美しさ、どれも師範に相応しい存在。感嘆するしかない。
「あの時は加減したが、今度はそうもいかぬぞ」
竜は三つの口から巨大な炎を放つ。それは螺旋となってオンギョウジに迫る!
「ぬんっ!!」
オンギョウジは飛び跳ねながら防御の術を生み出す。床から草が伸び、自身の周囲を折り囲むように魔力の障壁を生み出す。
真言術【魔障草ましょうそう》】である。単純な単一のシールドではなく、幾重にも草状の魔力を編み込むことで強度を飛躍的に上昇させることができる術である。
一本一本に使う精神力は、実に微々たるものであり消耗も少ない。この術に必要なものは、自在に組み合わせる瞬時の想像力と細かい作業を正確に素早く行う集中力である。
編まれた十層の壁が炎を受け止める。一瞬では貫通しないほど強固であった。
「ボウズは細かいことは昔から上手であったな」
羽尾火もその緻密な理の練度に目を見張る。高度かつ日々の鍛錬がなくてはできないものだからだ。
しかし、それだけにすぎない。二秒後、炎はあっさりと魔障草を貫通し完全に燃やし尽くしていく。二枚、五枚、八枚、あっという間に炎が迫ってくる。
(十層編み出して三秒もたぬか)
これだけ苦労して編んだものが、たったの二秒で燃え尽きる。されど二秒はもつのだ。羽尾火相手の二秒は実に貴重な時間である。
オンギョウジは再び跳躍しながら魔障草を生み出す。羽尾火は竜の炎で攻撃。壁が防いでいる隙にオンギョウジは真言を唱える。
「オン・マイタレイヤ・ソワカ!」
オンギョウジの両腕から二匹の水でこしらえた【大蛇】が生まれる。大蛇は床を高速で移動し、炎竜を追い越し術者である羽尾火に迫る。
「ほっほっほ、あざといのぉ」
強力な炎竜に直接戦いを挑んでも勝ち目はない。勝機は常に一つ。直接羽尾火を倒すしかない。彼女は老婆。術者としては超一流だが身体的には末期なのだ。そこが狙い目である。
大蛇は羽尾火を捉え、その水の牙を突き立てる。普通の人間が噛まれれば胴体が砕け散るほどの威力である。羽尾火もそうなるはずであった。
しかし、水の牙は彼女の身体に触れるや否や、まるで呑まれるかのように羽尾火の身体の中に消えていった。
(あれを喰ったか)
魔王技【流連水蛇りゅうれんすいじゃ》】。水の理を用いた中レベルの攻撃術である。生まれた蛇の大きさは術者の能力に左右され、オンギョウジが放った水蛇は長さ五メートルはあろうかという大蛇。威力も申し分ない。
だが、羽尾火はそれを【喰った】。術の理を分解して、自らの要素に取り入れたのだ。はっきり言えば放った術を【吸収】された。
「ほっほっ、なかなかおつなものじゃったぞ。腕を上げたの」
その光景は昔よく見たものであった。術を学ぶ者たち全員が羽尾火に攻撃を仕掛けても、彼女はすべて喰ってしまうのだ。オンギョウジの中に懐かしさが募る。
(さすが羽尾火殿。まともな術では勝ち目がない)
喰われるということは術の練度に差がありすぎるのだ。オンギョウジも、もしかすれば差が縮まったかもしれないという淡い期待で放ったのだが、まさに淡いものであった。
「さて、少し威力を上げるぞ」
炎の竜がさらに膨れ上がる。火力を上げたのだ。あれでもまだ力を温存している。
「これはどうかの」
竜が首を後ろに大きく振りかぶり、勢いよく放ったのは巨大な火焔の玉。小さな太陽が向かってくるような恐るべき熱量である。
(まずい!)
オンギョウジは瞬間的にこれが避けられないものであり、かすりでもすれば自身が一瞬で黒い影になることを悟った。
即座に防御の構え。そして魔王技、破邪顕生を構築して火焔玉の解除を図る。しかし、それは簡単な仕事ではなかった。編み込まれた膨大な量の術式の解析と解放を同時にやらねばならない。
「ぬぅううう!」
必死に力を振り絞り、衝突間際で消すことに成功する。しかし、あまりの【難問】に思わず唸るほどだ。本当にギリギリであった。
「ほっほ、今のをよく消したの。では、次は二つでいくか」
まるで生徒に問題を出す教師のように、さらに難易度を上げた二つの火焔玉を同時に放つ。
オンギョウジはもう避けることを諦め、破邪顕生の展開に全力を尽くした。身体を動かしながらでは到底間に合わない質と量なのだ。
「オン・マイタレイヤ・ソワカ!」
もはや何度目になろうかという真言を使って二つを消した時には、オンギョウジは苦悶の表情を浮かべていた。
「はぁ…はぁ!!」
地下での戦いでもかなり無理をしてしまい、今はハイレベルな術の戦いである。あまりに消耗が激しすぎる。すでにオンギョウジの集中力とオーラは限界に達しようとしていた。
一方の羽尾火は真言すら使っていない。
羽尾火は常々こう諭していたものだ。
「真言を何でもできる道具として考えるなど愚の骨頂。使わずにいられる霊力を日々の鍛錬で養うのじゃ」
真言は限界を超えるために意図的にリミッターを外す行為。しかし、当然ながら負荷が重くのしかかることになる。武人がオーバーロードを使えば筋肉の断裂や骨折が起きると同じく、真言で術を使いすぎれば激しい精神的ダメージを負う。神経を損傷すれば植物人間にもなりえるのだ。
それが力の代償。分を超えた者が支払う対価。
そして、愚かさである。
「人が人を超えることはできぬ。ぬしもわしも超人ではない。分を知るのじゃ」
「それで…黙って見ていろというのですか」
「苦しいかもしれぬが、すべては良きに計らわれる。世界の意思とは【愛】なのじゃ」
すべての苦しみが愛につながっている。痛みを引き起こしたものが人の愚かさであれ、最後は必ず愛によって昇華される。それがエルダー・パワーの道理である。
「その愛を殺したのは誰であったか!! 人ではありませぬか! オン・マイタレイヤ・ソワカ!」
オンギョウジの周囲に四つの仏像が生まれ、それぞれが詠唱を始める。
真言秘術【四観韻行】。念霊を生み出して同時詠唱する複韻の上位版とも呼べる術である。生み出す観音は、事前に行動パターンを与えることで、戦闘時に自動的に動くという優れた術の一つだ。
「やはり言葉は通じぬようじゃな」
「その程度の覚悟で来ているわけではまいりませぬ!」
「ならば、ここで焼くのみよ」
再び羽尾火の火焔玉。今度は三つ。
まず第一観音が合掌。オンギョウジが生み出した魔障草をさらに包み込む防護壁が生まれ、炎を食い止める。第二観音が開眼。周囲の理の解析を始め、分解していく。
「今度は拙僧が喰わせていただく!」
観音が生み出したのは、羽尾火がそうしたように術を奪い取る場。羽尾火の火焔玉を観音が受け止め、分解吸収する。
そして今度は第三観音が広手。解析された理を状況に合わせて急速に組み直していく。第四観音が発音。新たに編まれた理が一つにまとまっていく。これに今吸収した力をそのまま使って、最高難易度の術が完成した。
「餓鬼道輪廻!」
オンギョウジを中心として円形状に黒い光が広がり、その中から真っ黒な無数の【人影】が生まれていく。数百にも及ぶ人影は一斉に炎の竜神に飛びかかった。
「オォォオオオオ!!」
人影は炎に焼かれながら断末魔の悲鳴を上げる。それでも消える間際にその身に炎を吸収して散っていく。そのさまはあまりに壮絶である。
火に焼かれ苦悶を浮かべる人影たち。それらは本物の人間ではないが、業を背負った者たちが生んだ思念の集まりであった。
地獄的境涯に引きつけられた霊人が発する痛みと苦しみ、地上への未練の思念が周囲の幽的物質を媒体に動いているのだ。これもエルダー・パワーにおける禁術の一つである。
自ら焼かれながらも必死に竜を食い破っていくその姿は、炎に焼かれたかつてのオンギョウジに重なる。それを見て羽尾火は哀れむ。
「自らの痛みを他者に与えるつもりかい。人は痛みを受けても変わらぬもの。痛みで錯乱し、むしろ害悪が増えることになろうな」
目の前の光景こそがその証。人が自らの行いで罰を受けたとしても、あまりの痛みで正常な判断ができなくなる。
そして次第に思考力を失っていく。それこそが地獄の恐ろしいところ。ラーバーンは世界に一時的な混乱と地獄を生み出そうとしているのだ。
「それでも激痛は人を動かしましょう。痛みこそ最大の教訓でありますゆえに」
「それを人が与えるというのが傲慢なのじゃよ」
羽尾火は炎の竜神を自爆させ、餓鬼どもを一気に薙ぎ払う。オンギョウジはその隙を見逃さない。
術を使わずに一気に間合いを詰めて錫杖で羽尾火を突く。錫杖の先端には隠し刀。オンギョウジは術士ではあるが身体能力は高く、接近戦も可能である。
「ほっほ、ボウズは血気盛んじゃな」
羽尾火はまたも避けない。腰周りから生まれた三本の【火の尻尾】が代わりに杖を迎撃。
一気に巨大な尻尾と化した炎は錫杖を弾き、オンギョウジをいともたやすく殴り飛ばした。しかもただ殴っただけではなく、攻撃した相手を燃やすという凶悪な攻撃である。
「さすが…ですな」
オンギョウジは炎に包まれながら羽尾火を見る。彼の体表にはうっすらと水の膜が張られ火傷を防いでいた。すでにこの攻撃も読んでいたのだ。
相手は自身の師である。お互いの手の内もある程度は知っているのだ。羽尾火の尻尾も、かつて一度だけ見たことがあったものである。
「ボウズや、これらすべては【力】じゃ。力とは何のためにあろうか。相手を傷つけるものではないのじゃぞ」
羽尾火はかつてと同じことを言う。これは何度も何度も弟子に対して伝えてきたことである。ただ、そのたびに無力を痛感する言葉でもあるのだ。
「拙僧も理解しております。力の真髄は創造の理。それらが神慮であることも」
力はけっして乱用するために与えられたのではない。すべての力には意味があり意図がある。
世界を創造する力、それこそが最大の意義である。
しかし、力にはもう一つの側面がある。それが【破壊】だ。
「破壊なくして創造はありませぬ。今まで人類が構築したものはあまりに古く、なおも強固でございます。これを打ち破るには大きな火が必要なのです」
「自らあの餓鬼と同じになるつもりかえ?」
「それで進化が進むのならば」
オンギョウジの瞳は炎に揺れていた。自身を焼く炎、その業を焼く炎の中で決死の覚悟で燃えていた。それはもはや殉教者のものである。
「ぬしは純粋よ。あまりに純じゃ。おそらく、ぬしの主しゅ》もそうなのであろう」
真っ直ぐなほどに純粋。ここにいる一人の坊主だけでなく、集まったすべての存在が純粋なのだ。ただ真っ直ぐに人の未来を案じ、信じ、それでも火を放つ役割を担う側に身を投じるのだ。
なぜか。
「主は誠に人を愛しているからでございます」
愛を知らぬ者に世界は焼けない。
愛を知るから悪魔になれる。
だからこそ強いのだ。
「ならばもう終わりにしようではないか。わし自らの手でな」
羽尾火の尻尾が一つ、また一つと増えていく。そうして増えて十尾となった羽尾火は、初めて印を作った。
「ボウズにも見せたことはなかったの。これが火秘術の奥義じゃ」
炎の十尾が肥大化し、羽尾火を包み込むように巨大な形を生み出していく。それはさきほど見た炎の竜神に近いものであるが、羽尾火を核としているため出力はまったく比較にならないほど強大である。
それは、炎狐。
見るも美しい赤に染まった炎の狐である。その名を十美乃神炎狐とびのかみのえんこ》という。
かつてダマスカスを守った四神獣の一神とされているが、実際は術士が使った火秘術であった。それを見た一般の人々が勘違いして言い伝えになったという火術の奥義である。
この術の発動こそ、羽尾火が本気になった瞬間である。
(ここが勝負の分かれ目。拙僧のすべてを出して挑むのみ!)
オンギョウジ、人生最大の戦いである。




