四十一話 「業火の縁 その2」
「ほっほっほ。まだ覚えておったとは感心なことじゃ。もうすっかり忘れておると思っておったよ」
「忘れたことなどございません。一日たりとも」
「そうかい、そうかい。それは嬉しいものじゃな」
愉快そうに笑う羽尾火と、一瞬たりとも表情を変えないオンギョウジの姿は、まるで正反対である。
ただし、表情は変わらずともオンギョウジの胸には、羽尾火に対する特別な感情が燃えている。オンギョウジは羽尾火を忘れたことは一度もないのだ。エルダー・パワーという存在を忘れたことなど一度もない。
なぜならば、彼もまたエルダー・パワーであったからだ。
元エルダー・パワー術士第四席、オンギョウジ。
忘れるはずもない。忘れられるはずもない。かつては一緒に生活していた仲間であり、家族なのだから。
「懐かしいの。ほんに懐かしい。それで、このような老いぼれに何の用じゃ?」
「それはこちらの言葉です。あなたこそ、このような俗世に何の用があるというのですか」
エルダー・パワーの師範が外に出ることはまずない。彼らにとっては秘伝を守ることが最重要であり、世俗にはできうる限り関わらないのが決まりなのだ。
今回のアピュラトリス派遣についても、一部のエルダー・パワーのメンバーから疑念が湧いているのはそのためだ。それでもマスター・パワーが決めたことゆえに従っているだけのこと。アズマも志郎たちも、その【本当の意味】を理解していないまま参加している。
しかし、師範である羽尾火はその意味を知っている。知っているからこそ師範クラスがわざわざ出てきたのだ。
「あのような術封じを施し、富の塔に味方するとはエルダー・パワーらしくありませぬな」
オンギョウジは自分の言葉に皮肉が宿るのを止めることができなかった。
かつて自分が属した組織が敵対していることに憤ったわけではない。彼らが自らの理念に反していることが気に入らなかったのだ。
オンギョウジたちを苦しめた術封じ、ダンタン・ロームは羽尾火の補助によって発動していた。あれはまだ未完成の技術。優れた術者の援護がなければオンギョウジの術を破ることはできない。
羽尾火はこの場所よりアピュラトリス全体を【観察】していた。それは一点に集中するというよりは全体を俯瞰する視点である。だからこそオンギョウジは、地下にいる段階から常に大きな力を感じていたのだ。
そして、それが羽尾火のものであることにも気がついていた。この老婆の視線は、忘れようにも忘れられないのだ。
「気に入らぬようじゃな」
「俗事に関わらぬのならば、そのまま見ておればよろしいのです。それがあなたがたの意思のはずです」
「言う通りの俗事よ。じゃが、席を剥奪されたおぬしに言われるとは、なんとも耳が痛いものよ」
すでにオンギョウジの席は剥奪され、第四席には違う術者が座っている。オンギョウジはすでに部外者なのである。されど部外者になったからこそ、エルダー・パワーの行動の不自然さが見て取れるのだ。
エルダー・パワーは俗事には関与しない。ダマスカスを守りはするが、俗人たちの金融などというものには興味を示さない存在である。それは価値観が大きく異なるからである。
志郎たちがアピュラトリスの在り方に違和感を感じるのは当然である。人間の可能性を追い求める者たちにとって、金融は何の価値もないからだ。そうであるのにエルダー・パワーはアピュラトリスに加担している。
それはなぜか?
羽尾火は持っている杖で床を軽く叩く。すると地面に薄い火が広がり、この世界の形を生み出した。だが、それにとどまらない。
広がった火は徐々に螺旋をもって集約し、その中の一点、ダマスカスの中心部に集まって炎の柱となる。炎は激しく燃え上がり、噴き上がりながら世界に散っていく。火は火を呼び、いつしか世界は炎の渦に巻き込まれていった。
そう、これこそが暗示。
これから起こることを示したものなのだ。
「ボウズ、いつからぬしは火遊びをするようになったのじゃ」
羽尾火の声には、若干の哀れみが込められていた。その声は懐かしく、そしてオンギョウジが乗り越えねばならない恐ろしい声でもあった。
「あなたに顔を焼かれた日から。そう言えば納得していただけるのでしょうか」
オンギョウジは、無意識のうちに火傷の痕を触っていた。それは羽尾火によって作られたものだからだ。
羽尾火には師範としてではないもう一つの顔がある。それはエルダー・パワーの奥義や秘術を外部に持ち出そうとする人間を処分する【処刑人】の役割である。
エルダー・パワーで扱う奥義や秘術は、すべて危険なものである。安易な気持ちで手を出せば、当人はもちろん他者まで犠牲にしてしまう。強い力を使うには強い心が必要。まず最初に心を鍛えるのはそのためである。
エルダー・パワーの里の人間は、誰もが家族のようなつながりを持つ。それだけ見れば和気藹々あいあい》である。されど、そのつながりが強固ゆえに犯した過ちも厳しく罰せられる。
子供がおふざけで犯したものならばともかく、意図的に秘術を持ち出そうとした人間には大きな罰が下される。よほどの情状酌量の余地がなければ、抹消処分となってしまうほどに厳しい。
羽尾火も数多くの人間を焼いてきた。その多くは才能もあり期待をかけた者たちであったが、心が成長しなかった。知性や技術ばかりが発達し、技術を悪用しようとする者も多くいた。
結局、しっかり育った人材はごくごくわずかである。オンギョウジは、その数少ないまっとうな術者の中の一人であった。
そのはずであった。
しかし、彼はいつしか変わっていった。
「拙僧がここに来たのは、前と同じ理由からです」
オンギョウジは、かつて羽尾火と対峙した時と同じ言葉を紡ぐ。
「力は、正しい者が正しく使わねばならないのです」
かつてのオンギョウジは、力を得るごとにそうした考え方をするようになる。この力は悪を打ち倒し、正義を守り、弱者を救うための力ではないのか。現にエルダー・パワーは、力を使ってダマスカスを陰ながら守っているではないか。
それなのにどうしてエルダー・パワーは、その力を人々のために役立てないのか、と。
秘術を狙う存在に対してはしっかりと力を使って防衛していたのだ。オンギョウジも責務として、何度も敵と戦ったことがある。
しかし、オンギョウジはふと自己の国に目を向けた。自分が守ってきた存在とは何なのかを考えた。
そこで見たものは人々の堕落である。
「仏性の開発を忘れ、霊としての責務を忘れた者。享楽に溺れ、物質にまみれた者たち。それこそが悪なのです」
オンギョウジがダマスカスを守れば守るほど、この国は堕落していく。人々は物質のみを崇め、自己中心的な生き方を続けていく。他人から物を奪ってまで蓄積し、財を成すことだけを考えている。
なんて恐ろしい。
オンギョウジは愕然としたのだ。ショックを受けたのだ。
この堕落した社会を変えねばならないと強く思った。
そして、彼の意見に賛同する僧を集めてマスター・パワーに直訴した。この力を使って真の人間の在り方を人々に示さねばならないのだと。人の本質は霊であり、もっと美しいものなのだと訴えねばならない、と。
しかし、エルダー・パワーという存在はオンギョウジを認めなかった。人々が知らぬところで力を使うことを役目とするエルダー・パワーとは、所詮相容れないものであったからだ。
また、あまりにやり方が過激であった。つまるところオンギョウジの意見は、「最悪は力を使ってでも正しいことを成す」ということだったからだ。それは堕落した人々を傷つける可能性があった。
幾度も赤虎と対話し諭されたオンギョウジであったが、彼は意見を曲げることはなかった。逆に自ら計画を立て、改革を実行に移そうとしていた。
それはアピュラトリスの制圧。
堕落した人間の目を覚ますには、この塔を破壊するしかない。そう考えた若きオンギョウジは、無謀にも数十人の手勢で挑もうとしていたのだ。
奇しくも、今と同じ状況である。
しかし、それがついに決定的な決別につながる。
説得に応じないオンギョウジたちに対して羽尾火が送られ、彼に帯同していた僧兵隊は全滅。オンギョウジは顔と身体の半分以上を焼かれて生死の境をさまようことになった。
彼はその日を忘れたことは一日たりともない。その日こそ、彼が生まれ変わった日なのだから。
「ゆえにエルダー・パワーを見限り、【悪魔】に下ったというわけじゃな」
「よくご存知だ。いったい誰からお聞きになったのですかな」
「さて、風の噂でな」
ラーバーンの存在は非常に秘匿性の高い情報である。いくらエルダー・パワーであるといっても簡単に知ることはできない。
羽尾火はとぼけたが、ダンタン・ロームといい背後に何かしらの意図を持つ協力者がいることは明白である。それはおそらくメラキ。敵側の知者たちであろう。
「悪魔は危険じゃ。その力は世界を燃やしてしまう。どれだけの被害が出るかわかっておろうに」
「あなたがたにとっては悪魔。されど拙僧たちにとっては【英雄】です」
富の塔に加担し、世界を今までのまま管理しようとする者たちにとっては、ゼッカー・フランツェンは悪魔である。力によって物事を推し進めるため、多くの被害が出ることも容易に想像できる。
しかし、英雄なのだ。
彼という存在こそ、正義を信じ、公正と平等を信じて戦ってきた者たちにとっては紛れもなく英雄である。旗印であり、唯一の希望となる存在なのだ。
【ラーバーン〈世界を焼く者たち〉】
ゼッカーが作った新しい組織。
世界を変えるための力そのもの。
人々が悪魔と呼ぶであろう英雄のもとに集った者たち、同じ志を持つ者たちがいる。それはエルダー・パワーを捨てたオンギョウジにとって、残りの人生を費やすに足る唯一の存在になったのだ。
英雄を得たオンギョウジに、もはや恐れるものはなかった。
「ボウズ、ぬしは【神法】を知らぬわけではあるまい。悪魔は滅ぶ。必ずじゃ」
だが、羽尾火は忠告する。悪魔は必ず滅びると。それは神法によって引き起こされるであろうと。
世界は法則によって完璧に支配され制御されている。これは星を管理している偉大なる者すらどうにもできないもので、宿命の螺旋すら超える巨大なシステムである。ある意味では宿命の螺旋とは、人を神法に向かわせるための【枷】であるのだ。
原因と結果があることも、星が回ることも、人や動植物が生まれ育つことも、すべては巨大な神法という法則に則って維持されている。その神法に逆らった者はいずれ滅びる。これは絶対なる定めであり、例外なくそうなるのだ。
なぜならば、神法とは【愛】であるから。
この宇宙すべてを支配するのは愛なのである。愛とは叡智であり、力であり、すべての事象を進化へと向かわせる偉大なるベクトルである。
独裁者が必ず滅びるように、剣をもちいた者は剣で滅ぼされるように、それは完全なる因果の流れとなって戻ってくる。そうなればゼッカーという悪魔は必ず死ぬ。ラーバーンも滅びる。これはすでに決まっている未来である。
だが、オンギョウジは静かに頷く。
「存じております。それゆえにこの命を捧げにまいったのですから。我らの誰一人、命を惜しむ者はいません」
オンギョウジたちは生きて帰るつもりなど最初からないのだ。ユニサンにしてもロキにしても、現地に直接乗り込んだ彼らはいわば【生け贄】である。
悪魔と契約するには必ず生け贄が必要なのだ。
その犠牲の対価は【世界に火を放つこと】である。
「所詮、我らは滅びゆく運命にあります。火を放てば火で焼かれるのは当然のこと。しかし、今は火が必要なのです」
「何も変わっておらぬな。むしろこの老いぼれの火が、ぬしを焚きつけてしまったかのようじゃ」
「そうです。あの時の続きなのですよ、これは。我々が人の世の堕落を正すのです。あの日から拙僧の想いはさらに強化されました。それにはお礼を申し上げねばなりません」
「これも業…か」
羽尾火は自身が生み出した炎を見つめていた。その目は過去を静かに映す。
かつては静かに修行に明け暮れた若者。真面目で人が好く、弱き者を守ることに一生懸命であった者。口癖は「どうすれば人の役に立てるのでしょうか」であった。
自身の未熟さを日々戒め、心を砕いて修行に努め、人の未来を守ろうと思っていた若者である。
しかし、すでに時は来た。
一度離れた大きな二つの線は、螺旋となり再び交わるに至ったのだ。
ただし、強烈な激突として。
「言葉は通じぬか」
「それも宿命でありましょう。この場でまみえることも!!」
オンギョウジは印を結び水刃砲を放つ。水の刃は羽尾火に迫り、切り裂こうとする。だが、羽尾火は避けない。避ける必要がない。
水の刃は彼女に届く前に地面から発せられた火に喰われて、一瞬で蒸発したのだから。それどころか火はさらに燃え盛る。
「ぬしは変わっておらぬ。その力もな」
オンギョウジの術の威力は、平均的な術者の三倍の威力に相当する。そのMGすら切り裂く威力の水刃砲がまったく通じない。
それもそのはず。羽尾火の力はオンギョウジを遙かに超えている。なにせ顔を焼かれた時は、必死に逃げまどってようやく九死に一生を得たほどなのだ。
羽尾火は二百年以上、エルダー・パワーで術の修行を続けている、デムサンダーいわく「妖怪ババア」である。一方のオンギョウジは、たかだか三十年。彼がいくら才能豊かな術士であろうとも積み重ねた日々が違う。実力差は明白である。
「やはり別格ですな。その火の力があれば世界ももっと変わるでしょうに」
「なぜそう急く。時代は変わっていく。この塔もいずれは神法によって滅びよう」
羽尾火も、このアピュラトリスがそう長くはないことを悟っていた。このような堕落には必ず滅びが伴うもの。それは神法によって定められた末路である。
それだけ見ればオンギョウジたちと同じ考えである。ただし、ここには大きな見解の相違があった。
その【時間】、長さである。
「あなたのおっしゃる『いずれ』という言葉。それはいつなのでしょう」
赤虎も常々「待て」と言う。だが、それがいつかは言明されないため、若い僧が焦るのも無理はなかったのだ。
「さて。神法の働きを知ることは人間にはかなわぬこと。百年かもしれぬし千年かもしれん。だが、どのみち終わりは来る。待てばよい」
時代を眺めれば、過去の堕落した社会がいずれは滅びる運命にあることがわかる。一時は栄華を極めても永続的に続く悪徳などは存在しない。
それはこのダマスカスも同じ。今は優雅な生活を送っているが、神法を忘れ、物質に染まりすぎた彼らに待っているのは痛みと滅び。それがいつどう訪れるのは問題ではないのだ。終わることが決まっている。それが重要である。
「所詮は俗物たち。放っておくがよい」
羽尾火は、富に酔いしれ自己を見失う者たちを、ばっさりと切り捨てる。
崩壊はすでに始まっている。動物が死んだ瞬間から内部の微生物が腐敗を促すように、それはすべて自然の摂理によって成り立つものである。
人の尊厳が死んだ時、ダマスカスは腐敗を始めたのだ。今はその発酵分解期。その臭いに気がつく者もいれば、すでに鼻が麻痺しており破滅に気がつかない者もいる。たとえ気がついたとしても、もはや結果は変えられない。腐ったものはいつか土に還るのだ。
そして、自然はゆっくりと働くことを望む。この世界の進化は非常にゆっくりとしており、長い年月の視点で眺めれば、破壊も創造も大きなリズムの中で起こる遅々とした変化にすぎない。
人が進化するには、それこそ何千万という月日が必要なのだ。それを急いで成そうとしても反動が出るのは必至である。
「待てばよい。マスター・パワーもそう言っておろう」
「それでは遅いのです。あまりに遅すぎる」
しかし、オンギョウジは異を唱える。オンギョウジはメラキたちから得た情報によって、それでは遅いことを確信している。
「ぬしらが恐れているのは【星の粛清】であろう?」
「やはりご存知でしたか」
「知らぬわけがない。わしらもまた、ぬしらの言うメラキと似て非なる存在であるから」
ゼッカーたちがこうして動くことには大きな理由がある。それは避けられないこの星の現状と、その後に起きるより大きな災厄に関係している。
そして、こう提案しているのだ。
このまま病気を放置しておき、この後に待ち受ける何千年もの壮絶な闘病生活を送るか、緊急手術をしてガンを取り除いて早期回復を図るか。
あなたはどちらを選ぶのか?
どちらを選んでも結果は同じである。
ただし、やり方は大きく違う。
そして、ラーバーンは後者を選んだ。この星を救うために痛みを伴う手術が必要であると。
「拙僧らは日和見主義者とは違う。自ら動き、その腐敗部分を切除するのです。それならばまだ間に合います」
腐敗の七割を切除しても人は生きていける。その後に回復していけば失った部分を再生することもできるのだ。
まずは人類を生き延びさせること。人の進化を守りながら存続させることが重要である。闘病中に死んでしまったら元も子もないのだから。その瞬間の痛みが壮絶であっても短時間で済むのならばましだと考える。




