三十八話 「それは夢見る少女のごとき炎 その2」
「では、フォードラ様の願望をお伺いいたしましょう」
満を持してキリルはエリスに問う。
あなたは何を欲するのですか。
どんな望みでも叶えましょう。
あなたが望むものを与えましょう。
キリルは今まで、五人にこの質問をした。そして、この答えを聞く時が一番楽しいことも知っていた。
たとえば現電池のユウト・カナサキの望みは、分相応の小さなものであった。今まで努力したぶんに見合うだけの出世して、それなりに金を持ち、それなりの余生を過ごしたいと求めた。
ある者は異性に困らない偽りの楽園を望み、ある者は単純かつ莫大な金銭を求め、ある者は慎ましい生活の保障だけを求めた。願いの大小に限らず、当人たちにとっては大切な願いなのだ。
ただ、ここで【器の大きさ】が知れる。
願望とは、さまざまな欲求が集まって生まれたものである。肉体的な欲求が強まればより物的要素の意味合いの強い願望になり、精神的満足を求めれば願いも精神的になる。たとえば、前者は財産や快楽を求め、後者は思想の実現を欲する。
その人間が何を求めるのかを知れば、おのずと何を考えているのかが知れ、いやがうえにも本質を垣間見ることになる。だからキリルは好きなのだろう。
では、エリスは?
エリスが望むものは何だろうか。
「わたくしの願いを申し上げる前に、一つ昔話をしたいと思います。といっても、さして前のことではありませんが」
しばらく思案したのち、エリスは語りだした。
「再起が上手くいかず傷心していたかつてのわたくしは、地方の山で一人の木こりに会いました」
木こりは富を得るために木を切り続けた。木は毎日値が変わり、大きな木を切っても金にならなくなってきた。そのうえもう大きな木は残っておらず、嘆きながらまだ成長途中の小さな木も切り続けた。
次第にその山は禿げてしまい、エリスが見た時には、もう何もないような状況であったのだ。あまりに不思議な様子だったので、思わずエリスは声をかけた。
そして、沈んだ顔で彼は言った。
「金にならないが、切らねば生きていくこともできない。どうして自分はこんなにも貧乏なのだろう」
エリスは愕然とした。
男を軽蔑したからではない。
むしろ逆だった。
その姿は自分でもあり、また自分が辿ろうとする未来でもあり、誰もが簡単に入り込んでしまう迷路であると悟ったのだ。もう一人の自分を見て、自分という存在を初めて違う角度から【視認】したのだ。
その瞬間、何かに火が付いた。
今まで自分の中に鬱積していた不安や恐怖を燃やすほどの熱が点火されたのだ。それは瞬く間に燃え広がっていった。
燃料はすでにあった。そう、すべてが上手くいかずに傷ついていた日々、それこそが壮絶な燃料としてエリスの中に根付いていたのだ。その数は膨大、溢れかえるほどの量!!!
燃える、燃える、燃える!!!
燃えろ、燃えろ、燃えてしまえ!!!!
自分を否定した者。自分を変えようとしなかった者。愚かにも自分が何かすら忘れてしまった者。何のために生きるかもわからなくなった者。それらを食い物にしている者。
すべて燃えてしまえ!!!
この感情を知った瞬間、彼女は【変える者】となったのだ!!!
「もし言葉にすることで実現するのならば、わたくしはダマスカスに【尊厳】を取り戻したく思っております」
エリスの目的はフォードラ家の再興である。ただ、それは目的にも手段にもなる。なぜならば彼女には、より大きな目的があるのだ。フォードラ家はその足がかりにすぎない。
では、それを足がかりにして得たいものとは何か。
それは尊厳! 誇り高き意思!
エリスは父親の死後、ダマスカス社会の汚点というものをまざまざと見せつけられてきた。家の制度はまだよいにしても、富に執着する者たちによる悪質な社会構造を目の当たりにしてきた。
己の利権しか考えない者たち、非道で卑劣な者たちが権力構造の上部に鎮座し、自分たちに都合良く物事を進めようとしている。それはあまりにもおかしな状況であった。
しかも、多くの人々は、そのおかしな状況を見事に受け入れている。自分では受け入れていると思い込んでいる。思い込もうとして諦めている。
「人は炎を失った時に堕落するのです。わが身に宿した炎を消し去った時、人は死ぬのです」
彼女が一番許せないものが、【堕落】である。
炎を失うということは、堕落することである。
女性を世継ぎの道具のように扱う風土も我慢できないし、富に溺れ、日々享楽に耽る者たちへの嫌悪感も募っている。度が過ぎるのだ。この国はあまりにも汚れてしまった。
その時にエリスにとっての【敵】が決まったのだ。
それはダマスカス自身である。
ダマスカスの富という幻想に囚われてしまった人々を解放することであるのだ。
「物が溢れたことで愚かにも価値観まで見失ってしまいましたわ。愚か、いや、哀れですわね。このアピュラトリスそのものこそ【愚者の塔】であることを知らないのですから」
それはかつての自分への言葉だったのかもしれない。だからこそ最大の皮肉を込めて言うのだ。
誰もがここを富の塔と呼ぶ。
富を求めて最後に行き着く場所だと思っている。
それはエリスも同じこと。富を求めてのこと。
だがしかし、今の彼女の目的は違った。
富をもって富を制する。毒をもって毒を制するごとく。
「だからはっきりと述べましょう。わたくしの願いは、このダマスカスすべて。この国そのものを変えること」
エリスは、はっきりとキリルの目を見つめ、自己の意思をぶれることなく叩きつける。その言葉は宙を貫き、張り詰めていながらも柔らかで慈悲深く、強固でありながら鮮烈である。
「つまり、富の塔を破壊することです」
それがエリスの答えである。
この答えを周囲の者たちが理解するまで、いったい何秒かかったことだろうか。あまりのエリスの願いに誰もが言葉が出ないでいた。
「エリス…」
かろうじて志郎が彼女の名前を呼ぶ。本当はそんなことすらしたくなかった。エリスに触れたら爆発してしまいそうで。彼女がライターを持った手で、すでに導火線を握っているかのようで。
「あら、志郎。どうしたの? あなたほどの人が、もしかして怖いのですか?」
一方のエリスは志郎の動揺を見透かし、からかうような視線と言葉を向ける。だが、志郎には対応する余裕がないようで、やはり言葉が出ない。
「でもエリス、それで…いいの?」
「いいもなにも私が決めたのですよ。それが正しいのです」
エリスには、自分の答えと決断に一分の迷いもなかった。これは前々から考えていたことであり、塔に実際に触れた時に決意したことなのだ。迷うはずもない。
「俺はてっきり、富の塔をよこせ、とか言うんだと思ったけどな」
唯一、あまり興味がなかったデムサンダーだけが軽口を叩く。だが、その声は少しばかり弾んでおり、エリスの言葉が彼の興味を引いたことを示していた。
「こんな塔をもらってどうするのですか。住むには不健康そうですし、覗き見なんて趣味じゃありませんわ」
「でも、お前さんは富を欲していた。金が欲しかったんだろう?」
「ええ、そうよ。でも、彼女も言っていたでしょう。富とはエネルギーであると。それならば、富が富を破壊してもおかしくはないわ」
富とは力である。富を得て何をするかは、キリルが言っていたように各人の問題にすぎない。よって、エリスが富を得て何をするかは彼女の自由である。
ただし、それは道理ではあるが、事が事だけにこう言わざるを得ない。
「それが…フォードラ様の願望なのですか?」
「願望とは気に入らない言い方ですわね。決定事項、と言っていただけますこと。それとも、さすがのあなたも驚いたのかしら?」
「…ええ、正直なところ驚きました」
まるで完成された機械のように淀みなく語っていたキリルに、少しばかり乱れが垣間見えた。彼女もエリスの言葉には驚いたようだった。その証拠に、興奮してか頬に赤みが差しているように見える。
「私は答えを申し上げましたわ。これで契約成立かしら」
「それが可能だと思われますか。さきほど見せたのは塔の力の片鱗にすぎません。このアピュラトリスは、あなたが思っているより巨大な存在なのですよ」
今まで問い直したことなど一度もないキリルが、エリスに再度問う。問わねばならない。その真意を、そのやり方を。
しかし、エリスはキリルの目をまっすぐ見据えて言うのだ。
「それが夢見る少女の儚い夢であっても、わたくしはそうすると決めたのです」
それはまるで夢見る少女のごとき炎。
されど、けっして消えることのない決意の炎である。
見よ。炎を見よ。あの猛々しく燃えている火を見よ。
たった一人の少女に宿る力を見よ。
この炎があってこそ人なり。この炎なくして人あらざるべし。ダマスカスが失った炎が、稀少にも、儚くも、今ここにあるのだ。これを潰すことは世界を潰すこと。人の可能性を潰すことなのだ。
「富の塔をすべて明け渡す、それでよろしいでしょうか?」
「物だけもらっても価値はありません。当然、人もです」
「おい、どれだけ欲張りだよ、お前は!」
富の塔だけでは飽き足らず、そのスタッフまでよこせとは、さすがのデムサンダーも呆れる強欲である。
「いいですか、黒くて太くて大きいもの。これは強欲ではありません。もらえるものは全部もらう。それが私の流儀です」
「それを強欲というのでは…」
志郎も思わずつっこむが、エリスの厳しい視線を受けて途中で引っ込める。
「安心なさい。富の塔をいきなり解体なんていたしませんわ。ただ、この富は私が正しく使わせていただきます」
エリスは簡単に言うが、これは全世界の富を手にするに等しいことである。全世界の富ということは、あらゆる金融市場を彼女が牛耳ることを意味する。
彼女の意思が介入すれば、あらゆる取引を停止させることができることも意味するので、まさに【神の見えざる手】を手にすることになるのだ。
「やばい、こいつはやばいぜ。おい、キリルさんよ、これは断ったほうがいいんじゃねえのか? ほら、無理だと言ってやれよ」
「ディム、僕たちが口を挟む問題じゃないよ」
「志郎、よく考えろ。こんなやつに富を渡したらどうなると思うよ。とんでもないことになるぞ」
女性蔑視発言をした人間のお家取り潰しなどは可愛いほうだろう。それどころか、今よりも酷い不平等社会が顕現するに違いないのだ。今ここで止めておいたほうがよいだろう。
「どう考えても無理だろう。なあ、そう思うだろう?」
「いや、僕は…」
志郎は言葉を濁す。どんどん事が大きくなるので、もう関わらないほうがよいと思ってきたのだ。下手に口を出して事態を悪化させたくない、というのが本音であるが。
「ダイトウジ様はどう思われますか?」
「え? 僕ですか?」
しかし、キリルは志郎、本名、志郎・ダイトウジにも問う。その目は冗談で話を振ったというわけではなく、至って真剣なものであった。
「いえ、その、僕は…」
「あなた様のご意見を伺いたいのです。どうか本気でお答えください。あなたは彼女の言葉をどう受け止めましたか?」
キリルの視線が志郎を射抜く。今までは事務的であったが、今のキリルからは殺気に似た迫力すら感じる。
(やっぱり目が怖い…)
断っておくが、細い目の女性を蔑視しているわけではない。単純にキリルの眼光が鋭いので志郎がビビッたにすぎない。




