三十七話 「それは夢見る少女のごとき炎 その1」
「電池…」
エリスはその言葉を何度かつぶやくが、どういった意味なのか理解できないでいる。この巨大なアピュラトリスが一人の人間を欲することなどありえるのか、という疑問が湧く。
「電池とは、どういう意味でしょう?」
エリスは電池の意味をキリルに尋ねる。
「そのままの意味です。アピュラトリスを動かすための、いや、神の思考をこの次元に顕現するためのシステムの中核となるものです」
「それが私であると?」
「その通りです。ただし、電池はいずれ消耗していき、最後は使い物にならなくなります。それゆえの名称なのです」
キリルは包み隠すことなく、はっきりと事実をエリスに伝える。電池とは使い捨ての消耗品であると。されどもっとも重要なパーツであると。
「では、今も電池…、すでに人間が使われていると?」
「はい。現在の電池はまだ残量が残っておりますが、劣化が酷くなっており、早めに交換が必要と判断されました。これには私どもも困っているのです」
人間を電池として使用する。ここまではよい。しかし、人間である以上、それぞれの質はバラバラなのである。自然発生的なものなので、工場で生産するように均一なものを生み出すのは不可能である。
となれば、場合によっては質の悪い電池を使わねばならないことがある。現在の電池であるユウトは、正直あまり良質な電池ではなかった。彼自身は善人とも呼べる男で知的能力もあるが、アピュラトリスが求めている素質はまた違う。
求めるのは、いかにアナイスメルと共鳴できるか。
ただそれだけである。
どんなに生まれが良くても、どんな有名大学を出るだけの知能があれど、アナイスメルと共鳴できないのならば、真の意味でダマスカスに必要な人材ではないのだ。
「電池の才能を持つ人間は十万人に一人といわれていますが、実際はもっと少ないのです。良質のものとなれば、百万人から一千万人に一人、といったところでしょう」
それでも電池には違いないので、アピュラトリスはどんな電池でも使うことにしているが、質が悪いとアナイスメルの思考領域をこちら側に顕現する割合が減っていく。簡単にいえば、演算能力が落ちるのだ。
何事も性能が高いほど良いものである。アピュラトリス側も常に良質の電池を探しているが、【ダマスカス人限定】という条件が邪魔をして、なかなか贅沢を言っている余裕はないのが現状である。
「しかし、フォードラ様。あなたは違います。あのような劣悪品とは違って、あなた様は実に良質な電池であることがわかっています。これがその証拠です」
キリルは、さきほどエリスが手を乗せたタブレットを見せる。そこには相変わらず手形が存在し、測定した彼女の波長データが波のようにうねっていた。それは単に横の波だけではなく、何十にも及ぶ波が存在し、一つの美しい球体を生み出している。
「ここにアナイスメルの擬似波長データがあります。その波長といかに共鳴するかを見ることで質がわかるのです。フォードラ様の場合は、すでに検査済みでしたが、確認のために行わせていただきました」
キリルがエリスたちに見せた映像のように、一時的にアピュラトリスの能力を使えたのは、この擬似データがあったからである。そうでなければ一介の人間がアクセスすることはできない。
ただ、これでも機能のほんの砂粒一つ。それを少しばかり垣間見たにすぎない。エリスが実際に電池として使用されれば、こうした末端における能力行使にも大きな進歩が見られるだろう。
「私も知らない間に調べられていたのね」
エリスは、実際にアピュラトリスの機能を見て、自分の生活もすべて知られていたことを悟る。
彼女が病院で武人適性の血液検査をした時も、すべての情報はアピュラトリスに送られていたのだ。いや、そもそも送るという動作も必要ない。アナイスメルが稼働していれば、すべての事象のデータは自動的に集まるのだから。
エリスを見つけたのはアナイスメル。
ここが重要である。アナイスメル自身が、エリスを適任者として選んだのである。キリルたちは、その結果に従って行動しているにすぎない。
「アナイスメルの思考に間違いはありません。そして、実際にそうでした」
事実なのだから、アナイスメルという存在を認めるしかないだろう。おそらくキリルの言葉はすべて正しいのだろう。
「なんだか、機械に操られている気分だな」
デムサンダーは、不思議な輝きを放つタブレットに表示された球体を見ながらぼやく。
「そうだね。あまり気持ちよいものじゃないよ。人間を電池呼ばわりすることもね」
志郎もアピュラトリスの力は認めるしかなかったが、人を電池呼ばわりすることに強い抵抗感を覚えた。それは人として当然の感情なのだろう。
「お嫌いですか?」
「好きか嫌いかっていえば、そりゃ嫌いなんじゃねーの? 誰だってよ」
「なるほど。それもまた不思議なことですね」
キリルは、志郎たちの発言こそが意外だという表情をする。
「人も部品と同じです。歯車を回すための部品。ですが、それは価値ある部品ではないでしょうか」
自己が部品であることを受け入れることによって、より便利な社会が形成される。
それはなぜか?
多くの社会システムはそれなりの欠点があるにしても、往々にして完璧なのだ。その理論においては。しかしながら、それが完全に履行できないのは人間側に問題があるからだ。個人の感情や欲望が歪みを生み、いつしかシステムの流れを阻害してしまう。
たった一つの脳血管が詰まっただけで人は大きな損害を受ける。特にアピュラトリスは強大な力でありシステムである。ならば、そこで働く人間は部品であらねばならない。個人の意思よりも全体の統一を目指さねばならない。
「誰かがワガママを言う。欲望によって間違った行いをする。だからこそ、さきほどおっしゃられたような不具合が起きる。それはシステムの不備ではなく、部品の欠陥なのです」
構成する部品が自分勝手に動けば、当然機械は正常には働かない。この場合、システムは社会であり、部品は各人の人間である。社会を構成する一つ一つの要素が不用意に動くから、全体として欠陥となるのだ。
しかし、アピュラトリスにおいては異なる。
ここには、アナイスメルという【神】がいる。
すべてはアナイスメルの統治下にあり、誰もがそれを信じて疑わない。誰も勝手な行動はしないし、するような人間はそもそも入れないし、劣化が見られたら交換あるいは廃棄される。
それによってシステムは健全化し、常に正常かつ清浄な状態を保つことができる。そういう大きな一体感の中にあっては、個人の主観が重要視されることはない。すべては客観性によって構成されているからだ。
だから、人間を電池と呼ぶことは当然であり、違和感がないことなのだ。少なくとも、ここで働く者にとっては。
「逆に、なぜシステムの一部であることを嫌がるのでしょう? アピュラトリスによって、人間の欲求はしっかりと満たされているではありませんか」
人間が求めることなど、たかが知れている。肉体が求める衣食住の要素を満たし、ある程度の娯楽があれば、なかなか不満は言わないものだ。
アピュラトリスが金融を支えているからこそ、これらの物も、その中にある自由な取引も許される。人間は働き、欲しいものを手にし、満足する。楽しんでいる。それならば何の問題はない。
「我々は人間の社会に干渉するつもりはありません。それは皆様がたが、自らの意思で構築すればよろしいこと。ですが、そのためにはアピュラトリスのシステムは、できる限り完璧であらねばなりません」
そう言ったキリルの表情を見て、ようやくにして志郎は違和感の正体に気がつく。
(だから他人事なんだ)
キリルの言葉は正論である。間違っていないし、むしろ正しいのだろう。しかし、どことなく無機質で、こことは違う世界の住人のような言葉である。
それも当然。彼女たちは文字通り、違う世界に住んでいるのだ。
アピュラトリスは、〈入国不可能な富の塔〉という意味である。ここだけで一つの国であり世界なのである。アピュラトリスはすでに完成されており、いっさいの不確定要素が入る隙間さえない。すべてが神の思考の完全なる統治下にある。
そんな完璧なシステムの中にあれば、もはや他の要素は不要。【俗世】がどうなろうと関係ないのである。これは無責任ではなく、システムが完全なのだから「あとは何が起こっても、それはあなたがたの未熟さが引き起こすことです」という意味である。
志郎は改めて、【人種の違い】というものを痛感した。
「アピュラトリスに勤める人たちは、誰もがそういう考えなのですか?」
「完全なシステムに欠陥部品は必要ありません。あれば交換が必要ということになりましょう」
「そうですか…」
「志郎、気にするなよ。ここはそういう場所なんだろうぜ」
デムサンダーも志郎と同じ思いであったが、ここはアピュラトリス。畑違いの場所である。富を求める人間においては聖地であっても、そうではない志郎たちにとっては外側の世界なのだ。
アピュラトリスは、見方によっては光にもなり闇にもなる。それも人それぞれの視点なのだ。
「エリス様はどうお考えですか。あなたは電池として役目を全うすることができますか?」
キリルは今度はエリスに尋ねる。キリルにとって志郎たちの意見など、どうでもよいこと。重要なのはエリスがどう思うかである。
「具体的には何をすればよろしいのかしら。人柱にでもなればよいの?」
「ただ座っていればよいのです。それが何年間になるかはわかりませんが…」
「ふふっ、ずいぶんと簡単なものなのね」
エリスはあまりに簡単な仕事に、思わず笑みをこぼす。もっと仰々しいものかと思っていれば、ただ座っていればよいなどと。これがコントならばつまらないネタだが、本当のことなのだから世の中は面白い。
「当然、見返りはあると思ってよろしいのかしら」
「あなたが望むものならば何でも手に入るでしょう」
「何でも、ですか。たとえば私が、ダマスカス陸軍の指揮権を欲したら、叶えてくださるのかしら?」
エリスの目的はフォードラ家の再興。フォードラ家は軍人の家系であるから、つまりは軍の掌握が最終目標である。ただし、この最終目標は現実的に雲を掴むようなもの。あくまで目標であって目的ではない。
しかし、キリルは何でもと言った。だから、はっきりと言ってみたのだ。それは少女のちょっとした気まぐれ。されど、相手を測るには最適な言葉である。
そして、その回答やいかに?
「あなた様が望むならば」
即答である。
キリルは迷うこともしなかった。断言である。
「おい、それは言いすぎだろう」
それにはさすがにデムサンダーも異議を唱える。ちょうどさきほど、メイクピークの苦悩を見てきたばかりだからだ。
軍には大きな制約があるので何でも自由にできるわけではない。とりわけダマスカスには文民統制のシステムがあるので、そもそも一個人がどうこうできるものではないのだ。軍は誰のものか、と問われれば、それは国民のものなのである。
デムサンダーにしては、その意見は真っ当なもの。常識的なこと。
されど、あくまで一般人の常識である。
「まだ正しくアピュラトリスをご理解いただけていないようですね。人間が生み出したものに限定すれば、叶わない望みはないのです」
「じゃあ、ルシア天帝になるってのも可能なのかよ」
デムサンダーは、ここでルシア帝国の国家元首である天帝を引き合いに出す。
世界最大国家のトップ。ルシア天帝になるということは、全世界の五分の一を手に入れたに等しいことである。それでも可能なのかと、若干の皮肉をもって言う。
だが、デムサンダーは甘く見ている。
まだまだ本質を理解していない。
「おそらく可能かと」
「馬鹿な! あいつらは世襲制だぞ。それは不可能だ。あんただって、血の国のヤバさは知っているだろうが!」
ルシア帝国は、絶対血統主義である。血が持つ意味は、ダマスカス人が考えるものよりも遥かに大きく、意味深いのだ。
だが、そんなことはキリルも知っている。
「いいえ、現状ならば可能です。なぜならば、彼らもまたアピュラトリスのためにダマスカスに赴いたからです」
国際連盟そのものが、アピュラトリスを中心として存在している。誰もがこの富の塔を見に来たのである。この塔さえあれば、世界はいくらでもやり直せると知っているからだ。
それゆえにルシア帝国といえど、アピュラトリスの要求をむげにはできない。それどころか積極的に叶えようとするだろう。
「嘘だろう…」
「事実です。されど、天帝になることが幸せとは限りません。なることは可能です。が、なったあとどうなるかは、ご自身の問題です」
キリルは、そこに俗人への皮肉を込めていた。誰もが有名になりたいと願う。多大な財を欲しいと願う。だが、えてして分不相応。仮に天帝になったとしても、実力がなければ一瞬で潰されて終わりだろ。
されど、天帝にすることはできるのだ。それはまるで、アピュラトリスの思想そのものといえた。
「ふふふ、あはははははは! 愉快。実に愉快ですわね!! ディム、あなたの負けですわ! あー、楽しい!! あはははは!!」
呆然としているデムサンダーは、エリスの笑い声で我に返った。見ると、エリスは非常に楽しそうに笑っている。何度も何度も、お腹をかかえて笑っている。
その様子は異様。
何かの糸が切れたかのように、突然笑い出したのだ。
人間、なかなか本気で笑う機会がないものである。大半は、愛想笑い、作り笑い、くすっとした笑い、苦笑い、微笑。そんなものであろう。だが、今のエリスの笑いは演技でもなく、心の底から笑っていた。
「エリス…大丈夫?」
心配そうに志郎がエリスを覗き込む。
「ええ、大丈夫よ、志郎。私はまったくもって正常だわ。ただ嬉しいの。ここが期待通りの場所であったことがね」
エリスは嬉しかった。同時に今までの経験から、何かを期待するということを半ば諦めてしまっていた自分がいたことに気がついた。それが可笑しくて可笑しくてたまらなかったのだ。
なんてことはない。望めば手に入るではないか。
富が望まぬ者に手に入らないのは道理である。
求めなければ何も手に入らないのだから。




