三十一話 「暴走の来訪者 その2」
「あー、止まったな」
デムサンダーはガムを味わいながら、その光景を楽しそうに観察していた。
待機に飽き飽きしていた彼にとって、こうしたアクシデントは大歓迎なのである。ちなみにガムは期間限定の青リンゴ味だ。
「ちょっと、何見ているんだよ。止めないと!」
「いや、止まったじゃんか。それに兵隊さんがいるんだ。仕事を奪っちゃ悪いだろう」
「でも、敵だったら…?」
「それに対応するのが兵隊の役目だろうさ。どうせ変なやつだよ。いるんだよな。こういう時期になるとさ、目立ちたいやつが」
どこの国にも、こうした目立ちたがり屋というのがいる。騒ぎを起こして自分に注目を集めたいという理由で、わざわざこんなことをするのだ。
だが、今回はよりにもよってこのような状況である。普段とは比べものにならないほど警戒レベルが高い。しかもアピュラトリスである。全世界の命運を握る存在なのだ。
もしこれ以上進んでいれば、志郎たちの後方に控えているダマスカス軍の戦車、あるいはMGが容赦なく射撃を加えていただろう。それを免れただけでも感謝しなければならない。
この事態に周囲から兵士がわらわらと集まってきて、すぐに車は包囲された。兵士たちも暇を持て余していたので、誰もが少し興奮しているようだった。「ついに事件か! 出番だ!」そんな顔である。
「さて、どんなやつが出てくるかな。俺としてはモヒカンだと思うが、賭けるか?」
「遠慮しておく。僕は賭事は嫌いなんだ」
なぜかモヒカンを予想するデムサンダー。おそらくモヒカンの確率のほうが遥かに低いので勝てそうだったがやめておく。
「真面目すぎると疲れるぜ。気楽にいこうや。俺たちにとっちゃ他人事だしな」
「ディム、ここだってダマスカスなんだよ」
「そのダークサイドだろう?」
この街に溢れているのは富。あらゆる物に満ち、金があれば誰でも豪華な生活ができる場所。
しかし、その富はどこから来たのだろう。仮に富が有限のものであるとすれば、当然誰かが持てば誰かが持たざる者になる。ここはそれを公認している場所なのだ。
アズマに限らず、エルダー・パワーにとっては武が命。武は金では買えない。心を鍛えるのは日々の鍛錬とある種の屈辱の中でこそなのだ。その意味で彼らが好んで近寄る場所ではない。
それでもマスター・パワーは要請を受けた。
志郎やデムサンダーに限らずアズマに至っても、その意図をまだ完全に理解できていないのだ。もしエルダー・パワーが堕落していないのならば、要請を受けるだけの相応の理由があるはずだ。
このアピュラトリスを守る、何か大きな理由が。
(敵か? それとも一般人か?)
志郎は車を注視していた。もし敵ならば自分の悪い予感は当たったことになるのだ。嫌でも注目してしまう。
そうして大勢の視線が集まる中、ようやく車から運転手が引きずり出される。
「んん?」
その杏色の髪が見えたとき、デムサンダーは素っ頓狂な声を上げる。同じく志郎も目を丸くした。
その車から出てきたのは、なんとも西側の貴族が好みそうなフリル付きのドレスを着た若い少女だったからだ。軍人とビル群という背景の中で、その姿は完全に浮いている。
「離しなさい! 無礼な!!」
少女は組伏せようとする軍人の手をはたき、悠然と車の外に出てきた。そのあまりの堂々とした姿と強い言葉に、兵士も思わず手を引っ込める。
兵士たちの銃口が向けられる中、次にスーツを着た老紳士も降り立ち、先に降りた少女を気遣う。
「お嬢様、ご無事ですか…」
「ふん、ちょっと滑っただけですわ。何の問題もありませんことよ」
運転していたのは少女であった。最初は老紳士が運転していたのだが、突然彼女が強引にハンドルをぶんどったのだ。
しかし、運転の経験などなかったので、アクセルを押したら止まらなくなり(興奮してアクセルを踏みっぱなしになる。素人には稀にある)、検問を吹き飛ばしてあまつさえ装甲車にもぶつかったというわけだ。
この少女、確実に無免許運転である。間違いない。
それはそれで問題なのだが、何よりその態度があまりにも「自分は悪くない」というものだったので、周囲の軍人は気分を害するどころか唖然としている。
そこにいた誰もが、この少女は誰なのだと思ったに違いない。そんな空気を無視して少女は周囲の軍人を見回し、渋い顔をしながら叫ぶ。
「このエリス・フォードラをエスコートするのは誰ですか! 名乗り出なさい!」
エリスは、軍人たちのあまりの無粋な雰囲気に憤慨していた。一方の兵士たちは、少女が何に憤慨しているかもわからず呆然としている。取り押さえていいのか迷っているようであった。
この場合、取り押さえるのが通常の対応である。しかし、エリスが放つ不思議なオーラと迫力がそれをとどめているのだ。
「おいおい、なんだあれ。来る場所間違えたんじゃねーか?」
モヒカンが出てくると思っていたデムサンダーも困惑している。完全に場違い。舞踏会場と間違えたと思うのも仕方ない。
「敵…じゃないよね」
「あれがそう見えるか?」
こうしている間も、志郎とデムサンダーの二人は周囲の気配を探っていた。少女が囮かもしれない。ビルの上、路地裏、上下前後左右の全包囲数百メートルに意識を集中させる。
結界術【波動円】。周囲の気配と意識とを同調させて異変を探る技である。範囲が広く、より大きな動きを感じ取る際によく使われる。
結界術には封じる術と守る術に加えて、探知が目的の術も存在する。オンギョウジたちが使う高度な結界術は例外として、こうした初歩の結界術はそれなりの訓練を積めば、持つ因子にかかわらず誰でも使える便利なものだ。
といっても、これだけ範囲を広げられる者はそうそういない。武人に認定されるギリギリの資質の人間が十年修行して、ようやく二十メートルなのだ。生涯修行しても百メートルに届かない人間が多数いる。
志郎もデムサンダーも、エルダー・パワーの一員として最低限の術は教え込まれており、何よりも彼らはすでに武人の中でも達人の域なのだ。
もともと資質のある人間を集めて作られたのがエルダー・パワーという組織であるのだから、彼らにしてみればごくごく当たり前のことであった。
ただ、技には各人の得手不得手があるので、波動円が使えないといけない、というわけではない。単に資質の問題である。
「特に問題ないね。あくまで僕たちが探れる範囲で、だけど」
周囲には特に不審な動きをする者はおらず、敵意も感じられない。エリスという少女、それと老紳士は敵ではないと判断する。兵士の中にも害意を持った人間はいないようだ。まずはひと安心である。
「これ以上は忍者に任せようぜ。このあたりにも、わんさかいるだろうしな」
こうした探知は主に忍者や密偵の仕事である。専門ではない志郎たちががんばっても、これ以上のことはわからないだろう。
また、周囲には各国から派遣されている密偵や忍者が紛れ込んでいる。いや、紛れ込むという言葉は適切ではないだろう。
そこらに無数にいるのだ。
アピュラトリスの周辺には、それこそ数千という密偵が潜んでいる。彼らは連盟会議に出席している国家の手の者たちで、「アピュラトリスを守る側」の存在である。もし敵意を持つ者がいれば、彼らが真っ先にマークするはずだ。
当然、こうして堂々と陸軍と一緒にいる志郎もデムサンダーもマークされているので、すでに各国のデーターベースを照会して身元を探っているに違いない。とはいえ、エルダー・パワーの情報は秘匿性が高いので、名前まで割り出すのは難しいだろうが。
「気がついた?」
「ああ」
志郎の短い言葉にデムサンダーが頷く。車がつっこんできたあたりから、急に周囲の密偵たちの視線が増えたのだ。
しかも強い。異変があったので当然であるが、ここまで過剰反応することには違和感があった。密偵の中にはかなりの猛者も混じっているようで、その強い気配に自然と二人の気もざわついてくる。
「おいおい、戦闘モードじゃないだろうな?」
デムサンダーが身構えるほど、それらの視線は強くなる一方である。
密偵は場合によっては戦闘員にもなる存在である。今のところ味方である彼らだが、今後何があるかわからない以上、油断することはできない。
状況が変われば、味方だった者が敵になる可能性もある。国際連盟とは、そうした微妙な連携関係の中に存在しているのだ。しかもエルダー・パワーは極秘組織である。こちらを敵と誤認する者がいてもおかしくはない。
「やる気か、やつら?」
「まさか、そんなことはしないだろうけど」
「たかだか車一つで殺気立ちやがって、なんて余裕のないやつらだよ。そんなに富の塔が大事かね」
こんなに露骨な視線を向けられるのは、あまり気分のよいものではない。デムサンダーの気が立つのも頷ける。
ただ、志郎が感じたのは、もっと繊細な意識である。たとえるならば、雛鳥が巣から落ちそうな瞬間を息を呑んで見守るような。恐れるような。手助けしたいができないような。そんな感情である。
(これはいったいなんだろう?)
その感情に志郎は戸惑う。デムサンダーの言う通り、たかが車一つでここまで反応するのは異常に思えるからだ。
「ちょっと、そこのあなた」
「え?」
二人が周囲の視線に警戒している間に、エリスが志郎に向かって歩いてきていた。その少女を一般人として認識していたので志郎の反応は遅れ、すでに十メートル近い距離にまで接近されている。
(うわー、修行不足だな)
志郎は思わず自己嫌悪に陥る。この程度のことで動揺して注意散漫になるなど、師範に知られたら居残り特訓は間違いない。まだまだ修行不足であることを痛感する。
そんなことはまったくおかまいなしに、エリスは胸を張って堂々と志郎の元に向かってくる。
「あなた、私をエスコートしなさい」
「ぼ、僕が…?」
「そうよ。あなたが一番まともそうだし」
どう考えても一番まともそうではないエリスが言う。
「おいおい、お嬢さん。もう帰ったほうがいいんじゃねえの? これ以上は、さすがに怒られるぜ」
デムサンダーが、自身の半分程度の身長しかないエリスを見下ろす。それだけで相当な威圧感なのだが、エリスはまったく気にしないで物申す。
「なんですの、この黒くて太くて大きいものは」
これを聞いて変なことを考えた人は病院に行ったほうがいいだろう。ぜひ反省してほしい。
「おまっ、その言い方…」
「彼はデムサンダー、友達なんだ!」
呆気に取られるデムサンダーとの間に慌てて志郎がフォローに入る。
エリスはそんな凸凹コンビの二人を交互に何度か見て、素直な感想を述べる。
「ふーん、趣味が悪いのね。特に服と顔が」
その視線は主にデムサンダーに向けられており、やや哀れむようなニュアンスが含まれていた。
「おい! 本人の前で言うなよ! お前だって服は趣味が悪いだろう! 顔は…まあ、普通だけど」
さすがにうら若き少女の顔をどうこう言えず、デムサンダーは言葉を濁す。
エリスの顔は、可愛いというよりは美人であろうか。シャープな輪郭は女優のようであり、目の鋭さもあいまって、彼女の性格の強さと凛々しさを強調しているようだ。
今は少し化粧をしているが、むしろしないほうが良いと思えるほど肌の艶がよく、全体から生命力に溢れている健康的な少女に見える。
「じゃあ、行きましょうか」
エリスは志郎の手を取り、さっそく歩き出す。
「ど、どこへ?」
志郎は素朴な疑問を発する。この少女が誰で何をしに来たのかいまだにわからないからだ。わかっているのは、この少女は「まとも」ではなさそうだ、ということだけ。
そのまともではないエリスは志郎の顔を見つめ、瞳に強い炎を宿しながら目的地を告げる。
「決まっているわ。アピュラトリスよ」




