三十話 「暴走の来訪者 その1」
現在、アピュラトリスの半径五キロは厳戒態勢が敷かれており、一般人の車両の交通規制はもちろん、ほとんどすべての店は休業を余儀なくされていた。
本来ならば国際会議が開催される年は、パレードや祭りが行われるのが普通である。ほとんどの場合、内々で議題の処理が行われるので会議は表向きなものであり、外交官やその家族がダマスカスの首都でお土産を吟味するのがいつもの光景だからだ。
その賑わいに便乗して祭りが開かれるので、首都だけではなく地方からも人が集まる。そんなグライスタル・シティが、今はまるで廃墟のような静けさの中にいた。
聴こえる音といえば車両やMGの駆動音、兵士同士の雑談くらいなものである。多少の緊迫感はあるものの、どちらかといえば「ここまでやらなくてもいいのに」といった空気が流れているのはたしかだ。
そんな中に、周囲の軍人とはまるで格好の違う黒髪の青年がいた。腕の部分が白い赤地のジャンバーに、青いジーンズというカジュアルな格好でアピュラトリスを見つめている。
「大丈夫かな…」
まだ十代にも見えるあどけなさを残した青年は、富の塔を見上げてつぶやく。
彼がこの塔を見たのは今回が生まれて初めてである。見れば見るほど不思議で、今までダマスカスにこのようなものがあったことを知らなかったことが逆に驚きであった。
「大丈夫さ。この塔はすっげー丈夫らしいぜ」
青年の隣にいた、彼よりも若干年を取った若い男がつぶやきに答える。
黒い肌にローアンバーのドレッドヘアー、まだ肌寒いのに黒いランニングシャツ一枚に短パン一丁といった格好の大男である。隣にいる一六七センチの青年が子供に見えるほどに大きい。
「やばくなったらバリアーとか出すらしい。そうなったら戦艦の主砲でもビクともしないってよ」
男は口笛を吹き、陽気な仕草でアピュラトリスを指さす。
この男もまたアピュラトリスを見るのは初めてであり、ガイドブックに書いてあった知識をそのまま披露しているだけである。サカトマーク・フィールドの知識もガイドブックに載っていたものだ。
こうして世間一般にも情報が配布されているということは、この塔がそれだけダマスカスの象徴であることを示していた。
それだけ防備に自信があるのだ。そうした機構を知っている軍部の人間に緊張感がないのも頷ける話である。
ただし、サカトマーク・フィールドを展開するのにも時間はかかるので、その間の時間稼ぎをしなくてはならない。要するに、彼らは自分たちがそのための捨て駒にすぎないことを知っているのだ。
しかし、それこそが最重要任務。アピュラトリスが自分たちの富を生み出している以上、捨て駒であっても彼らは文句は言わないのだ。
「こんなに警備しても意味ないよな。どうせ、ここに攻めて来るやつなんていないってのによ」
こうして朝からここにいるが、まったくもって変わり映えしない光景に大男がぼやく。さすがに飽きてくるというものだ。
強固なフィールドに加え、ダマスカス陸軍約二万人以上が守っているアピュラトリスを、白昼堂々わざわざ狙う人間がいるとは到底思えない。
その人間が正気で本気であればあるほど、ここを狙うことはありえないのだ。だから大男は、隣の小柄な青年が心配する意味がわからない。
しかし、青年が心配しているのは別のことであった。
「ディム、僕が心配なのはアズマさんのことだよ」
青年は隣の大男のディム、本名デムサンダーに自分の懸念を伝える。
「おいおい、冗談だろう? あいつに何の心配をしろってんだよ」
その言葉にデムサンダーは、目を丸くして少し裏返った声を出す。
「でも、何か嫌な予感がするんだよ」
「志郎、あのアズマだぜ? あんな戦闘中毒バトルジャンキー》に何かあるわけもねえよ」
それこそ冗談が過ぎる、といった顔でデムサンダーは言う。
ジン・アズマは、エルダー・パワーの中でも特に戦闘に特化した人間だ。仮に敵と出会っても真っ先に飛び出して戦うほど戦闘狂なのだ。
エルダー・パワーは武を探求する存在ではあるが、その武をわざわざ好んで使うような組織ではない。なにせ存在そのものが【自衛】のために生まれたのだ。
武を闘争のために使うという発想がそもそもない。そのため武を極めるために実戦を求め、敵を殺して回るアズマのような存在は異質である。
その敵という存在すら、一方の立場に立って初めて生まれるものだからだ。剣を愛する。敵を愛するという究極の武の真理とは程遠いものだ。
そうしたアズマに嫌悪感を感じているのは、なにもデムサンダーだけではない。里の中にも危惧する者は多いのだ。
「俺は正直、ほっとしているぜ。あんなやつと一緒だったら息苦しくて仕方ねえ。今頃は【牢獄】の中でじっとしているさ」
「牢獄…か」
デムサンダーが言った牢獄という言葉を聞いて、志郎はたしかにそうだとも思った。
このアピュラトリスは、こうしてしっかりと首都の中心に鎮座していながら完全に独立している。外と中はまるで別世界であり、簡単に出入りすることもできない。
その姿はまさに牢獄。富で作られた檻なのだ。
デムサンダーの表現は、まさに的確であった。
その牢獄を見て、志郎はふと思う。
「どうしてアズマさんは、中の配置になったんだろう」
ジン・アズマという強力な武人を中に配置する理由はわかる。万一内部に敵が侵入した場合、あれほどの適任者はいないだろう。
狭い通路内であっても、単独で多数の敵を粉砕できるだけの力がある強力な個なのだ。彼の実力は、間違いなく志郎たちを凌駕している。
しかも敵は、さまざまな警備システムや数多くの兵士、さらには構造の段階から防御を想定しているアピュラトリス内部の地形に苦しむだろう。そこにアズマがいればまず突破は不可能である。
それはわかる。わかるのだ。しかし、それはまるでアピュラトリスに敵が攻め入ることを前提としているような配置に見える。この鉄壁を自負している富の要塞に。
それがどうしても解せないのだ。
(マスター・パワーは何もおっしゃらなかった。だが、それにもかかわらずこの配置。やっぱりおかしい)
志郎は、派遣されたメンバーに少し違和感を感じていた。
大統領の面子の問題もあったのだろうが、今回はエルダー・パワーから【席持ち】の武人が何人か派遣されている。剣士第五席のアズマを筆頭に、志郎やデムサンダー、アミカやチェイミーなどもそうだ。
普通、エルダー・パワーが派遣される場合は、席持ちが参加するにしても一人か二人。それに加えて、里の中から腕の立つ奉公人が何人か選ばれる程度だ。
しかし、今回は数が多い。これほどの席持ちが出向するなど、少なくとも志郎がエルダー・パワーに入ってから初めてであった。問題は、これだけ兵士がいるのになぜ自分たちが必要か、ということ。明らかに異常事態を想定しているように思えるのだ。
志郎は、その中心にいるアズマが気になって仕方ない。
「どうしてあんなやつが気になるかねぇ」
デムサンダーから見ればアズマは【異常者】である。すべてを捨てて武に殉ずる気持ちは同じ武人として尊敬に値するものの、普段からギラギラしている彼はやはり危険に見える。
「アズマさんが死に急いでいるように見えて…気にならないか?」
「はっ、そいつはいつものことだろうさ」
「それはそうだけど…」
「慣れない都会に来たからって、そんなに緊張することはないさ。べつに普通にしていればいい」
たしかに志郎は、慣れない都会に来たことで少し戸惑っているのかもしれない。それはアミカを見れば一目瞭然。周りの視線が気になって、挙動不審になってしまっている。
しかもエルダー・パワーは、基本的に他の組織と共闘することはない。それが今は陸軍と一緒にいるのだ。そうした現状もあいまって、志郎は少しナイーブになっているのだろう。少なくとも、デムサンダーはそう思っているようだ。
「とにかく俺たちは貧乏くじだ。アミカやチェイミーたちが羨ましいぜ」
志郎とデムサンダーはこうして外周の警備。一方のアミカとチェイミーは、国際会議場でまったりしていればいい。この男女の差がデムサンダーには納得できないらしい。
「アミカさんたちは大統領の護衛だよ。そんな大役、僕たちには無理だ」
志郎は逆に会議場から離れてほっとしていた。
会議場には各国の首脳陣と護衛がいる。志郎も出立前に少しだけ見たが、護衛のレベルは相当なものである。眼光も鋭い。そんな中に放り出されたら、慣れない志郎はますます浮き足立ってしまうだろう。
「襲うやつがいないんだ。大統領に護衛なんて必要ないだろうに。あんなの遊びだぜ」
とデムサンダーが思うのは自然だが、実際は会議場内部に紅虎という凶悪な獣がいることを知らない。すでに大統領を二人仕留めているとは夢にも思わないだろう。
まあ、誰が護衛であっても、あの獣を止められる者はこの世にいないが。
(この胸騒ぎは何だろう。すごく気持ち悪い)
そんなデムサンダーをよそに、志郎は自分自身でもわからない不安に襲われていた。普通に考えれば何の不安も必要ないはずなのに、どうしても消えないのだ。
何か強い【悪意】のようなものがここに集まりつつある。
それは巨大な【意図】とも呼べるかもしれない。
何かの強い意思が何かの強い目的をもって、いかなる犠牲を払ってでも成し遂げようとする【覚悟】にも思える。それが不気味で仕様がないのだ。
どのみち志郎には何もできない。素直にここで待つことしかできないのだ。それもまた焦燥が募る要因でもあるのだが。
しかし、これから起こることは、きっと彼の運命を変える出来事になるだろう。まさか自分が、その意図の渦中に飛び込む羽目になろうとは夢にも思っていないに違いないのだから。
「おい、志郎。見ろよ、なんか来るぞ」
デムサンダーがガムを取り出し、口に放り込みながら前方を指さす。
「え? 敵かい?」
「んー、よくわかんねえな。ありゃ、車かね?」
まだ距離はあるが、一台の黒い車がいくつかの検問を突破してこちらに向かってくるようだ。
ここは一般車両の通行禁止区域である。当然、このような行為に対しては警備隊が迅速に対応するはずだ。志郎の見立て通り、すぐに警備の装甲車が集まってきて車線を塞ぎ、包囲網を作る。
それでも車は止まらず、いくつかの装甲車にぶつかりながら回転し、最後は消火栓にぶつかって盛大にぶっ飛んだ。その衝撃で栓が壊れ、噴水のように水が噴き上がる。周囲はまるで大規模な水芸を披露したかのように、一気に水浸しになった。




