二話 「黒衣の侵入者 その1」
ダマスカス共和国の首都、『グライスタル・シティ〈永遠の繁栄〉』は世界でもっとも優れた都市である。
交通、治安、経済、娯楽、ここに存在しないものは世界のどこにもない。
金があれば何でも買え、社会保障も世界一。普通の民であれば一日八時間働き、社会のルールを侵すことがなければ基本的には豊かな生活が保障される。
そうした一般人以外にも、当然ながら富裕層も数多く存在していた。富豪と呼ばれる者たちにとってこの街に住むことはステータスであり、郊外には数多くの別荘地が存在している。
街中には彼らが富を落とすための施設がひしめき、二十四時間明かりが消えることはない。かの有名な【ネズミの国】も、ここグライスタル・シティにある。
その永遠の繁栄が約束された都市の中央に、周囲のビル群を圧倒する巨大な建造物があった。
ビルが小さいのではない。ビルにしても六十階以上はある高層ビルばかりだ。それ単体でも他の国では滅多にお目にかかれない代物である。
ゆえに、【ソレ】が大きすぎるのだ。
地上一八二十メートル、地下五三十メートル、全三百二十階層からなる円柱型の建造物には窓が存在しない。昼であろうと夜であろうと、嵐であろうと雪の日であろうと沈黙を守り続けている。
入り口は地上六階にある正面玄関の一つだけ。一階外周よりエレベーターを使い六階に上り、二十にも及ぶチェックを受けねばならない。
骨格、指紋、声紋、血液検査など、入るだけでも三時間以上はかかるのだ。その煩雑さからか、一度入った人間は最低でも一週間は出てこないのが通常である。
地下には格納庫も存在し、いざというときのために軍隊並みの戦力も有している。いや、そもそもダマスカスの軍隊そのものがここにあるといっても過言ではない。
それがダマスカス中央銀行。
―――通称【アピュラトリス〈入国不可能な富の塔〉】である。
ダマスカス中央銀行では、通常の中央銀行が行っている業務は一切存在しない。通貨の管理も国債もここでは意味を成さない。そんなものはどうでもよいのだ。
たった一つ。一つだけ。
それがあれば十分。
ダマスカスという国は、たったそれだけで成り立っている。
アピュラトリスの制御は、地下三十階の『中央制御室』がすべて管理している。
地下一階から二十九階はダマスカス軍の兵が詰めており、入り口同様に厳しいチェックを潜り抜けなければ三十階には到達できない。
さらに地下にはエレベーターは存在しない。アピュラトリスの外周に沿うように長い螺旋階段が存在しており、毎週二度のジム通いの職員でもなければ、普段運動とは程遠い研究者肌の人間には重労働となるだろう。
それでも区別はされず、制御室担当の優男でも歩かねばならない。往復に一週間かかる場合もあるので、それが面倒で一年以上もここに住んでいる人間もいるのだが、衣食住には困らないだけの施設があるため、そのまま住む者もいるほどだ。
ユウト・カナサキもその一人である。
彼はダマスカス国際大学を出てすぐに公職に就き、七年間の経済科学研究所での勤務を経て、ようやくアピュラトリスに入ることができた。
ダマスカス国際大学は世界中からエリート中のエリートを集めて教育しているため、そこに入るだけでも並大抵のことではなかったが、幸いにも彼には才能があった。その彼でもアピュラトリスに務めるまでには多くの努力と苦労を重ねたのだ。
ここはそれだけ重要な施設であり、絶対の信頼がなければ入ることも許されない場所だ。世界中の金融関係者が憧れる場所であり、両親や友達からも尊敬と嫉妬の眼差しで見られたものである。
ただ、ユウト・カナサキは、ここでの生活に充実感を感じてはいなかった。
なぜならば、彼の業務内容は非常に簡単で面白みがなかったからだ。
ただモニターを観察するだけ。
さらに言えば、【よくわからない物体】を見つめ続けるだけの仕事だったからだ。
中央制御室には三つのブロックがあり、最初に入る八百メートル四方の大きな空間が第一制御室。
ここではアピュラトリスの外壁に搭載されている防護装置の制御や、各階層の警備システム、人の流れなどをチェックできる。ほとんどはオートだが、万一のために百人ほどの人間が詰めている。
その奥にある厳重な扉を開くと、次に第二制御室がある。
ここはデータ管理室になっており、世界中の金融や富の流れが一目でわかるシステムが構築されている。現在は西部金融市場が凍結されているため、金や物資の流れは東側に偏っているが、バブルが弾けつつある東側でも急速な降下が見られる。
ここに務めている職員は楽しいに違いない。各国家の中央銀行とのホットラインでのやり取りは刺激になるし、それこそユウト・カナサキが求めていた仕事でもあった。
そして、さらに厳重なロックをいくつも通り、最後に到達するのがこの第三制御室である。
そこは他の部屋と比べると小さく、五十メートル四方の部屋に置かれているのは観測用のモニターと、例の【よくわからない物体】である。
脇には小部屋もあり、詰めている人間の生活ルームとなっているが、ここではあらゆる電波・通信が遮断されているためテレビは映らない。たまに上の人間が差し入れてくれる雑誌が置いてある程度である。
日々観測用モニターを見て、異常がないかを確認するだけの作業。
彼は、この生活に相当疲れていた。最後に外に出たのはいつだろう。赴任当初は何度か外に出たこともあったが、出るだけでも代理要員との入れ替えの手続きで最低三日はかかるうえ、外に出てからも厳重な監視生活が待っている。
地上階層勤務の人間に対してはそこまで厳重ではないが、地下階層勤務の人間は下手をすれば死ぬまで監視がつくこともある。それだけ重要な施設なのだ。
そうしたあまりの手間隙にくたびれてしまい、今ではほとんど引き篭もり生活である。もちろんずっとは続かない。三年ごとの交代制が敷かれている。
ここでは人も部品なのだ。消耗した部品は入れ替えねばならない。ただし、人間は時間が経てば回復するので使い勝手の良い【電池】のようなものと考えられていた。
現在、電池はすでになくなりつつある。
そのため本日、その【替わりの電池】が来ることになっていた。
ユウト・カナサキは、それを待ち遠しく思いながらも、いまだに自分の中にある【疑問】の解決が果たせないことにヤキモキもしている。
この退屈な三年間を意味あるものにしたかった。機密なので誰にも仕事内容は口外できないが、それは責任感ゆえの誇りであるべきだ。あまりに滑稽すぎて語るのも恥ずかしいという理由なのは、正直哀しい。
三年の間、よくわからない物を見つめていただけの仕事。なかなか貴重ではあるが、できれば自分以外の人間に任せたかったのが本音だ。
そして、肝心の疑問はこれに尽きる。
「この物体は何なのだろう」
非常に簡潔な疑問だ。
どんな文学の天才も、これ以上簡単に述べることはできないだろう。
部屋の中央にあるのは、六つの密集した台座と、それらに収められている【五つ】の石版のようなもの。六つの台座に五つの石版。一つ足りない。
石版はジクソーパズルのように凸凹の不規則な形をしている。並びから推測するに、元は一つの大きな石版だったようだ。まあ、こんなことは小学生でもわかること。わざわざダマスカス国際大学を出た人間が考えることではないだろう。
しかし、これこそがすべてなのだ。
ここにあるのもの、それがダマスカスのすべてだという。
それがユウト・カナサキにはいまだに納得できない。
おそらくこれを見た誰もが納得できないだろう。観測用モニターには幾重にも重なった波形のようなものが映っており、時折紋様が浮かび上がることもある。
紋様は紋様。文字通りのものなので、それが何を意味しているのかもわからない。学生時代、考古学の講義で見たピラミッドの石版の紋様に似ていなくもないが、専門外なので謎のままだ。
赴任当初は新手の嫌がらせかと思った。窓際に追いやられるサラリーマンの気分を味わい、実質的な左遷なのではないかと疑ったこともある。
されど、毎日の報告が義務付けられており、その相手も自分とは比較できないほどの高い肩書きであるため、「今日も何もありませんでした」と言うのが非常にストレスであった。
それを聞いて神妙に頷く相手側のリアクションが何かのテストかと思って、さらに胃が痛かった。それもあってか、この答えで良いのだと気づくまで一年以上を要したのは懐かしい思い出だ。
それも今日で終わる。
寂しいが、アピュラトリスに務めていた価値はあった。彼はこれからダマスカス共和国の大財閥の一つ、エモリス財団が運営する研究所へと出向となる。そこでの地位は今よりも遥かに上なのだ。
エモリス財団は、このアピュラトリスの建造にも関わっており、最新鋭技術の開発にも積極的だ。材質の研究でもいいし、専門の経済科学でも好きなことを好きなだけやれる。
そこでの研究で結果を出せば世に認められる存在となれるだろう。そう思うと石版の監視くらいは安いものであった。
その時、背後の自動扉が開く音が聴こえた。
ようやく【替えの電池】が来たのだ。
「ああ、待っていたよ。交代の時間なんだろう?」
ユウト・カナサキは、フルマラソンを走りきったあとのような充足感と解放感を感じていた。ただ目を閉じてゆったりとした気分を満喫したかったので、顔はモニターに向けたままだ。
「ああ、交代の時間だ」
背後から響いたのは、男の声だった。
少し低く、野太い。
「それはよかった。本当に嬉しいよ」
「そんなに歓迎されるとは意外だな」
「そうだね。あなたには気の毒かもしれないが、ここもそんなに悪くはない。これからのあなたの人生にもきっと幸せが訪れるに違いない」
退屈な仕事以上のメリットはある。とはいっても、最初は文句を言ったり自分を哀れんだりするかもしれない。
でも、たかだか三年だ。三年で億万長者になれる保証があるのならば、誰でも一時的な貧困に耐えられるに違いない。
「僕はこれからエモリス財団に行くんだ。名前は知っているだろう?」
自慢ではない。相手を励まそうと思い立ったにすぎない。
自分の未来を知れば、男も希望を持って生きていけるだろうと思ったからだ。
「知らないな。無学なもんでね」
が、男から出たのはその言葉。
少しがっくりしながらも、ユウト・カナサキは静かに感情を取り戻す。
「そう…無理もないかな。あそこは特別な場所だからね」
エモリス財団は自分たちのような研究者にとっては非常に魅力的だが、一般の人間には馴染みがない名前だろう。
その恩恵にあずかっていても、誰が作ったか、誰が開発したかはエンドユーザーには問題ではない。使えるかどうか、それが重要なのだ。まさにそれはアピュラトリスそのものである。その実態を知らずとも、利益があれば民衆は満足なのだ。
男は知らないと言った。ならば自分とは畑が違うのだろう。
その理由も特に気にならない。ここの仕事は忍耐力があれば誰だってできるものなのだ。エリートだって、無学な浮浪者だって。
「それより、交代してくれるんだろう?」
「もちろんさ。歓迎するよ」
ユウト・カナサキは椅子を背後に回転させて、ゆっくりと目を開ける。
そこにいたのは、一人の体格の良い壮年の男性だった。
ボサボサの濃紺の髪をバンダナで適当に束ね、全身真っ黒な服に身を包んだ男。
一瞬、ユウトは目を見張った。
研究者というよりはプロレスラーのような体格。二の腕は服の上からでもわかるほど太く、ユウトの太腿くらいある。かといって太っているわけではない。がっしりと岩のように鍛えられた肉体をしていた。
「すごい身体ですね」
「鍛えているからな」
自分も鍛えればそうなるのかと考えてみたが、おそらくユウトが鍛えても同じにはならない。生まれ持った肉体が違うように見える。
それに『黒服』も気になる。スーツに近いがもっと民族的な趣向が見受けられる。たとえるならば宗教の儀式に用いられる法衣のような。
研究肌の人間というものは変人が多い。ピエロのような格好をする人間も見たことがある。この男も何かしらの嗜好か信条を持った人間なのだろう。
「それが【例のもの】か?」
黒服の男が訊ねる。
彼の視線から石版を意味していることはすぐにわかった。
「まあね。聞いているとは思うけど、何の面白みもないものだよ」
「ふぅん、なるほど。たしかにな」
男はモニターと例の物体を交互に見つめる。目は真剣だったが、それに対しての知的探究心は見られなかった。はっきり言えば、あまり興味がなさそうである。
ユウトは、それも仕方ないと思った。こんな仕事に興味があるほうがおかしいのだ。この男もきっと違う仕事がしたかったのだろう。そう思うと同情の念が湧く。
しばらく見つめていた黒服の男は、ユウトに視線を戻し、両手を差し伸べた。
握手かと思ったが、両手は一度彼の頭上に捧げられる。
「【母】よ。あなたが分け与えた物が等しくすべての者に与えられますように、ご慈悲を」
男はそう言って、今度はこちらに向かって手を伸ばした。
「じゃあ、交代してもらおうか。俺たちとお前たちの【立場】をな」
次の瞬間、ユウト・カナサキの意識は飛んだ。