十二話 「遅すぎた一手 その1」
「ああ、くれぐれも内密にな。よろしく頼む」
バクナイアが通信を切り、窓の外に山のようにそびえるアピュラトリスを見てから、ヘインシーに振り向く。
「これでいいかね」
「申し訳ありません。最初から申し上げるべきでした」
ヘインシーの説明で数分はロスしたともいえる。
が、最初のバクナイアの盛り上がりでもすでに五分以上は費やしたので、そこには触れなかった。
「ただ、私の早とちりという可能性もありますが…」
あくまで勘。されど確信に近い予感。一度気になれば確かめずにはいられない。
そんなヘインシーにバクナイアは理解を示す。
「かまわないよ。勘違いであれば笑い話で済む。まあ、私が大統領に土下座すれば済む話さ。ははは」
もちろんあれは二度と押さないがね、と言って、今度は天井に張り付けて隔離された「教えて君」を指さす。
そんなに怖いのならば処分すればよいとも思うのだが、妻にバレたらもっと怖いので隔離するのが一番のようだ。
かといって自分の視界に入っていないと誰かに押されないかと不安らしい。非常に条件が厳しい。
ちなみにバクナイアが立ち上がった際に踏んだ教えて君であるが、その頃の妻はといえば、鯉とともにたっぷりと池の水を堪能したあと、こめかみに青筋を浮かべながら再び椅子に座って怒り狂っていた。
しかし、何度も発動した教えて君を見て誤作動かもしれないと気を鎮めた。
そして夫との四十年にも渡る愛を思い出し、彼に対する思いやりを抱きつつあったとき、それが発動した。
再び椅子が発射される。ロケットのように椅子が切り離され、加速をつけて飛んでいく妻。
彼女が水面を見たとき、そこには鬼のような形相の自分の顔があった。それはいつしか近いうちにバクナイアが見ることになる表情であるのだが、今は知る由もない。
話は戻る。
アピュラトリスは、金融市場が凍結に追い込まれている現状において最後の砦である。
警備も今までとは比較にならないほど厳重で、何があっても死守する気概を感じる。エルダー・パワーを呼んだことも危機感の表れである。
だからこそ、どんな危惧であれ見過ごすわけにはいかない。それが技術次官のヘインシーのものとなれば最大限尊重すべきなのだ。
「それに君は確信があるから、上司であるヨシトではなく私を呼んだのであろう」
技術次官のヘインシーにとって、直属の上司は金融科学技術長官のヨシト・ポラスである。
本来ならば彼に連絡すべき案件だ。しかし、上司のポラスは国際連盟会議に出席しており、各国の代表事務官にアピュラトリスの安全性を説明するという重要な役割を担っている。
もし彼が呼びされれば各国の首脳が騒ぐのは間違いない。それで勘違いだったでは済まなくなる。
そして最大の理由は、彼が来ても【役に立たない】ことだろう。
ポラスは優秀な男であるが生粋の技術屋ではないし、すでに事態が推測通りに進んでいるとなれば、まったく役に立たない。今必要なのは実行力であり、武力なのだ。
だからヘインシーは【国防長官】であるバクナイアを呼んだ。まあ、多少ながら暇そうだったという理由もあるのだが。
「バードナーには極秘でと言ってあるが、まず無理だろうな」
極秘の命令を与えたのは、陸軍のレド・バードナー中将である。
バクナイアが陸軍出身の政治家ということもあって陸軍とのつながりは深い。バードナーも頼れる男である。
彼は今回の連盟会議にあわせて結成された首都防衛部隊の総司令官だ。アピュラトリスの外部の警備を含め、各国関係者の安全を守るためにこの一帯の指揮を執っている。
現在は国防も強化されており、ダマスカス海軍も総出で周辺海域を監視し、陸軍も首都だけでなく国内すべての都市に厳重な警備を敷いていた。
しかし、こうした大規模な作戦行動は普段慣れていないダマスカス軍にとっては負担であり、指揮系統の混乱や軍内部での派閥争いを助長させる結果にも少なからず繋がっている。
バードナーは陸軍の中でも数少ない優れた将の一人であるが、そんな彼だからこそ身内に敵も多いのが現状である。極秘とはいっても、必ず誰かの目があるのは仕方がない事実だった。
しかも各国の密偵や諜報員がひしめきあっているこのグライスタル・シティにおいて、極秘などありえない。
ルシアの監査局、シェイクの秘密情報省のエージェント、その他数多くの情報部隊がダマスカスに集まっている。
今のところ国際連盟会議は順調であるが、あくまで表面上。水面下では常に主導権争いをしているのだ。
すれ違う子供ですら「もしや密偵では?」などと警戒するくらいだ。事実、諜報部はこうした手口を使う。警戒させないようにあえて訓練していない子供を使うこともあるのだ。こうなるともはや誰も信じられなくなる。
お菓子一つの対価が国家の機密。そんなこともごく稀にだがある。その意味ではお菓子一つが何百億円の価値を持つ。当人が納得していればそれで取引は完了なのだ。
特にバクナイアなどの国家の中枢にいる人物は、注意してもしすぎることはない。
「君も妻のスパイだったくらいだからな。我々がここにいることすら他国の諜報部には筒抜けだろうさ」
まだ根に持っているらしい。しかし、教えて君を押したのはバクナイア当人なので、自分に責任はないと思ったヘインシーであった。
唯一このグライスタル・シティで完全なる機密が存在するとなれば、それこそがアピュラトリスである。それもまた皮肉なことだが。
あとは結果を待つだけとなった状況を見て、ヘインシーは話を切り出す。
長々とアナイスメルの話をしたのは、けっして自己の知識を披露したかったのではない。そこが重要だったからだ。
「実のところ、アナイスメルの【ハッキングは不可能】なのです」
そう、この前提があったからこそ、そこまで急がなかった。
アナイスメル自体はダマスカス建国以前から存在していたのだ。もしハッキングが可能であれば、すでに誰かがやっているはずだ。
しかし、不可能である。
「内通者の可能性は? 機密だって多いのだろう?」
人を使う以上、情報は漏れるものだ。制御室で仕事をしているスタッフも人間である。監視はしていても常時目の前にいるわけではない。機密をうっかり漏らしたり、あるいは売る可能性もなくはない。
「内部にそのような人物がいたら、私は喜んで技術次官の立場を明け渡しますよ」
ヘインシーにとって肩書きは、自己に自由な探究心を与える以外の何物でもない。彼の興味はただ一つ。人類の知性の向上だからだ。
そして、人類の叡智を結集してもこの状態なのだから、誰がどんな知識を用いてもハッキングは無理なのだ。
そもそも波動であるアナイスメルの思考領域にアクセスするだけでも相当な準備が必要だ。
内通者がいるとしても、少なくとも自分抜きで何かをすることはできないはずである。
「しかし、君はハッキングされていると言った。比喩かね」
バクナイアはヘインシーの簡潔な言葉を思い出す。可能性があるとは言ったが、言葉には確信の響きがあった。
ヘインシーも自身の言葉を肯定する。
「私はアナイスメルと常時繋がった状態にあります。何者かがアクセスしているのは間違いありません」
ヘインシーは【塔の管理者】とも呼ばれていた。
その名は伊達ではなく、感覚によって、あるいは【直観】によって、アナイスメルの状態を確認できる特殊な能力がある。
それは遠くから巨大な山脈を見つめる程度のもので、本質に干渉できるものではないが、漠然とした状況はわかるのだ。
ハッキングを仕掛けているであろう【その意識】は、かなりの階層にまで進んでいると思われた。
「見立てでは、すでに百五階層にまで進んでいるはずです」
百五。
この数字が示す意味は大きい。世界中の叡智を集めてもまったく歯が立たなかった領域にまで到達しようとしているのだ。
これにはヘインシーも興奮を隠せない。
「素晴らしい。実に素晴らしいことですよ、これは!! もしこのまま放置しておけば、あるいは百十階層くらいにまで到達できるかもしれません! できればこのまま見てみた―――」
両手を握り締めて熱弁しているヘインシーに、バクナイアの冷たい視線が突き刺さる。その視線を感じ、己の欲望を自重する。
不可能なはずのハッキングが行われている。それはもう間違いがない事実なのだ。
ただ…、とヘインシーは続ける。
「アナイスメルの【拒否反応】がないのです。それが不可解です」
アナイスメルには【意思】がある。
それは漠然とした無意識的なものではなく、一人の人間が持つものと同じでありながらさらに繊細で、さらに広く深いものだ。
波動一つ一つの波長にもそうした意思はあるが、まとまった一つの階層全体のエネルギーの振動が明確な思念を発している。
言い換えれば、人の意識もエネルギーの振動の結果にすぎない。波動や波長の振動数によって熱になったり光になったりするだけであり、それもまたその波長が感応する階層によって表現が異なる。
とすれば、人間側から見ればアナイスメルは謎の振動を発するだけの存在だが、実際は人類全体の知識を遙かに凌駕するだけの思考を常時行っているのだ。
そこには【感情】もある。
もちろん、人よりも高度で深い味わいを持つものである。
そう、アナイスメルそのものが、人から見れば【神の思考】に等しい存在でもあるのだ。
そうした意思に触れるには【資格】が必要となる。もし侵入する条件を満たしても、アナイスメルに拒否されればすぐに抗体が生まれて排除される。
誰とて嫌いな相手には自分の中に入ってきてほしくないのだ。研究が進まないもう一つの要因は、拒否反応で精神を破壊された者があまりに多かったからだ。
意識がアナイスメル内に隔離されてしまい、肉体はただの器になる。その繋がりが切れれば、肉は数日のうちに腐敗を始める。
人間の主たる存在は意識だからだ。意識は生命であり、生命とはエネルギーの振動のもっとも強いうねりである。それがなくなれば肉体は生きてはいけない。エンジンを抜かれた車と同じになる。錆びて、朽ちるのが運命だ。
ただ、ヘインシーからすれば、そうした状態は【アナイスメルに魅了された】状態といえる。
アナイスメルの思考領域は人間を肉の呪縛から解放する。意識は自由になり、意思は即座に形になる世界において、人は最高の快楽を味わうのだ。
しかし、これはあくまで疑似領域にすぎない。夢を見ているのと同じなのだ。
そこはあくまで【幻想世界】であって、偉大なる者が住むという本当の【愛の巣】ではない。
たとえれば、人間が麻薬やアルコールによって一時的にストレスを発散させるのに似ている。
短期間ならば戻れる可能性はあるが、中毒になってしまえば自ら戻ることを放棄する。つまるところ、アナイスメルとはそういう場所なのだ。
無限の階層に無限の意識が滞在できる領域がある。そこでは肉体の制限に囚われずに自己の欲求を満たすことができる。意識に制限はないからだ。
だが、それは人間の地上的生活を否定する行為である。
妄想が楽しくて現実生活を疎かにし、やせ細っていく人間に近い。到底正しい生活とはいえないものだ。
このようにアナイスメルに侵入を試みた者は、すべて廃人と化す定めにあった。それがハッキング不可能という意味である。
その中でヘインシーは、アナイスメルの拒否反応が起きない数少ない人材であった。




