強面BL小説家の苦悩〜恋のきっかけは分かりません〜
突然だが、俺は人相が悪い。
めちゃくちゃ、悪い。
それはもう、悪い。
どんくらい悪いかってーと、すれ違う人と目が合っただけで相手が速攻顔を逸らすくらい悪い。
自分でも自覚はある。
俺は小さい頃から眉間にシワを寄せ、視力が落ちていくにつれ目を細めて見る癖があるから、余計ガンつけてるように見えるらしい。
中学の時に眼鏡を作ってかけてみたが、ガリ勉と思われることが嫌だった俺はノンフレームの銀色テンプルのやつにした。そしたら余計ヤのつく職業の方かと思われることが増えた。
学生時代はこの顔のせいで先輩に絡まれ、「はい?」と返事しただけでその後何故か先輩がパンを買ってきてくれるようになった。
その時は意味がわからなかった。
だが大人になった今なら分かる。
俺は──人相がめっちゃくちゃ、悪いのだと。
まぁそんな訳で人相がとてつもなく悪い俺は、大学を卒業後、なるべく人と関わらない道を選んだ。
その道とはずばり──BL小説家である。
何故BL小説家なのかって?
俺は元々小説家志望ではあった。なにぶんこの顔のせいで友達なんていなかったからな。俺にとっては本が唯一の友達だったのさ。
最初は普通の小説を書いていた。
だが男女の恋愛を描くときに、俺には経験がないから分からないことが多すぎた。
頭を悩ませた俺は、高校の時のいつもパンを買ってくれる先輩となら関わりがあったな、と思い立ち、先輩とのやりとりを思い返してみた。
──回想──
「先輩」
「はいぃ! なんですか? も、もしかして、カレーパンはお気に召しませんでしたか!?」
「いや……そう──」
「やっぱりそうなんですね! い、今すぐ別のパンを買ってきます!」
「いや、ちが、先輩」
俺は走り出そうとした先輩の腕を掴み、引き寄せる。
俺が身長185㎝に対して、先輩は170㎝だから、勢い余って先輩は俺の胸元に顔をぶつけた。
「ふぎゃ! ……てぇ〜」
「大丈夫ですか? 先輩」
心配した俺は先輩の両頬に手を添え、上を向かせて顔を見つめる(怪我の確認の為)。
じっと先輩の顔を見つめて異常がないかを確認していると、徐々に先輩の頬が赤く染まっていくのがわかった。
「ひ、は、橋本さん、だ、大丈夫ですから、は、はな、」
「……痛くないですか?」
「だ、大丈夫、です」
「そうですか、良かった」
安心した俺は、先輩の赤くなった頬を無意識に親指で撫でてから、手を離した。
開放された先輩は、しばらくその場で顔を赤くしながら突っ立っていたが、何事かを呟くと走り去って行った。
ちなみに俺は地獄耳なので、先輩の呟きはしっかり聞こえていた。
「……あんな……反則だろ……」
──回想終了──
そんなやりとりを思い出し、そしてたまたま興味本位で手を出したBL本の展開と比べてみた結果、先輩とのやりとりが結構似ていることに気づいた。
その結果、試しに先輩とのやりとりを織り交ぜたBL小説を書いてコンテストに応募してみたら、優秀賞を頂き見事にBL小説家デビューしてしまった訳だ。
ちなみに先輩は金髪にピアスと格好だけはヤンキーだったが、話をしてみると根は至極真面目なビビリであった。
そんなこんなで晴れてBL小説家になった俺だが、世間一般には顔出しをしていない。
そして俺は仕事上の関わりでしか人と関わらないようにしている。
つまり、傍から見たら引きこもりのニート野郎である。
俺がBL小説家なのだとは流石に家族にも言いずらく、大学卒業と同時に一人暮らしを始めた俺は、家族には中小企業のサラリーマンだと嘘を吐き、なんでもネットで買える時代にこれほど感謝するとは思わなかった。
通販、ネットスーパー万歳である。
そんな俺だが、最近困っていることがある。
それは──
「橋本さん、海行きませんか!」
「何故ですか、秋本さん」
「何故って、そんなの決まってますよ! 橋本さんが男を誑かすのが見たいから!!」
「いや、俺はたぶらかしたことなんて……」
「何言ってるんですか、今までの小説で描かれた胸キュンシーン、大半が実体験なんでしょう!? そんなの、生で見たいに決まってるじゃないですか!」
鼻息荒く俺に提案してきたこの女性は、秋本佳奈子、26歳、独身彼氏なし。
生粋の腐女子であり、俺の担当編集者である。
今までの担当編集者さんは会う人会う人俺の顔面にビビって半泣きになりながら逃げられたが、この人だけは違った。
俺を頭から下までじっくり眺めた後、こう言い放った。
「無意識たらし強面×ノンケビビリヤンキー、萌え……!」
この一言を聞いて、俺は安心した。
やっと執筆に集中できる、と。
たまにこうして俺を外に連れ出そうとするが、それ以外は至って真面目な方なので、特に不満も何もない。
俺は快適な執筆ライフを送っていた。
──はずだった。
突然その日は訪れた。
その日は秋本さんが原稿を取りにくる日で、13時に来る予定だった。
だけど、13時を過ぎても来る気配がない。
なにか電車の遅延とかで遅れてるのだろうか、と思った俺は、最初はそれ程気にしていなかった。
しかし、いつもなら遅れる時はメールをしてくる秋本さんが、一向にメールを寄越さないことが気になった。
俺は心配になり、
『大丈夫ですか? 何かありましたか?』
とメールを入れて、数少ない外出着を着て久々に外に出た。
(大丈夫かな……事故とか……遭ってないよな)
俺はハラハラしながら早足で駅までの道を進む。
道ゆく人々は俺の顔を見ると、ぎょっとした後そっと視線を逸らした。
(久々だな、この感じ。でも今は気にしてる場合じゃない……)
俺は周囲の反応を無視して、ずんずんと歩く。
すると遠くの方から、なにか揉めているかのような喧騒が聞こえてきた。
(なんだ? もしかして……近づいてみるか)
俺はその喧騒の方へと足早に近づく。
すると、見覚えのある姿がある。
(ん? あれは……先輩と、秋本さん?)
そこには、黒髪短髪の先輩と、秋本さんが何事かを激しく口論している姿があった。
(なにを喧嘩しているんだ? とりあえず止めないと……)
俺は早足で近づく。
すると先輩と秋本さんの話が聞こえてきた。
「だから、私は知らないって言ってるでしょ!」
「嘘だ、さっき電話で橋本さんのこと話してたじゃねーか!」
「橋本なんて苗字、いくらでもいるわよ! なんで貴方の探してる橋本さんだって思う訳!?」
「そんなの、顔が極道並に怖いけど実は真面目で優しい、たまにしか見せない笑顔が格好可愛い橋本さんなんて、この世に一人しかいねー!」
「そ、それはそうかもしれないわね……。でも、貴方の探してる橋本さんは、海外にいるんじゃないの? さっき『帰ってきたのか!?』って聞いてきたじゃない」
「そ、それは……。確かに橋本さん、大学卒業と同時にイタリアに行く、って言ってたけど……」
「じゃあやっぱり私の知ってる橋本さんじゃないわ。橋本さんは引きこも……いえ、日本から出たことないもの」
そんな会話を聞き、俺はピタリと足を止めた。
(そ、そうだった……先輩が高校卒業してからもずっと俺につきまとってきてパンを買ってくるから、流石に悪いと思って大学卒業と同時に海外行くっていう嘘吐いたんだった)
俺は地獄耳だからまだ二人からは50mは離れている。
もし先輩に俺が日本にいることがバレたら、芋づる式に俺の職業がバレるかもしれない……逃げるなら今しかない。
俺は踵を返し、足音と気配を消しながら家の方向へと歩き出す。
しかし神様は嘘をついた俺に罰を与えたいらしい。
8歳くらいの男の子が走ってきて、俺の足にぶつかった。
「いたっ。あ、ご、ごめんなさ……」
男の子が謝りながら顔を上げ、俺と目が合った瞬間。
「い……。ふ、ふぇ、ご、ごめんなざぁぁい! うわぁぁん、ママー!!」
「あ、な、泣くな、泣くな」
俺の強面を見た瞬間、男の子は泣き叫んだ。
俺は焦って、なんとか泣き止ませようと声をかけるが、いかんせん小さい子に対する接し方など慣れていない。
「うわぁぁん、うわぁぁん」
「よ、よし、俺は怒ってない、全然怒ってないからな、だから泣くな、な?」
俺は屈んで男の子の頭を撫でる。
そしてズボンのポケットに入れていた、糖分補給用のミルク飴を取り出し、男の子の手にのせた。
「よし、これやるから。甘くて美味しいぞ。だから泣くな、な?」
そう言って、俺は精一杯の笑顔を見せる。
すると男の子はひっくひっくと嗚咽を出しながらも、飴と俺の顔を交互に見て、コクリと頷いた。
「よし、いい子だ。お前は将来度胸のある良い男になる。な。じゃあ、今度は人とぶつからないように前を見て歩こうな。な?」
男の子はまたコクリと頷くと、小さく「ありがとう」と言って歩いて行った。
俺は冷や汗が出ている額を手の甲で拭い、ふぅと息を吐いてまた歩き出した──瞬間。
ドンッ
「!?」
後ろから背中に衝撃が走る。
そしてお腹にもぎゅーっと締められる感覚。
恐る恐る下を見ると、背後からお腹に腕が回っていて、誰かに抱きしめられていることに気づく。
明らかにそれは──先輩の腕だ。
「は、橋本さん……! 橋本さん!」
背中から泣き出しそうな震えた声で、俺のことを呼ぶ先輩。
その声を聞いて、俺は覚悟を決めた。
「……先輩」
「橋本……さんっ……! あ、会いたかった……!」
「先輩……離してください」
「い、いやだ、離さない!」
「先輩……離さないと……」
「は、離さないと……?」
そこで俺はお腹に回った先輩の腕を掴み、ぐんっと地面を見るように前のめりになる。
「わわっ!?」
案の定先輩は俺の背中に抱きつきながら身体を地面から浮かせた。
俺は先輩がお腹に回している腕に力を込めているのを確認し、すばやく背後に手をやり先輩の両足を抱えた。
「よっ……と」
「う、わ!」
俺が少し身体を縦に揺らして背後の先輩の位置を上に上げれば、見事に先輩は俺におんぶされる形になった。
「な、なななな、なにを……!」
「先輩……出会ってしまったからには、もう後戻りはできませんよ」
「なっ、!?」
俺は先輩をおんぶしたまま、スタスタと家の方向へと歩き出す。
秋本さん? そんなの、見なくても分かる。
俺たちのやりとりに鼻を抑えながら、今の光景を目に焼き付けようと凝視しつつ後ろをついてきている。
俺はこれからの展開に胸に重石を抱えたような気分になりながら、家を目指した。
家に到着した俺は、流石におんぶしたまま鍵を開けれないため、先輩を降ろした。
しかし、逃げないようにしっかりと手を繋ぎながら鍵を開ける。
先輩はおんぶ中、「お、降ろしてください」とか「橋本さん! み、みんなに見られてます!」とか色々言っていたが、俺が「先輩……家、行ったら……したいことがあるんです」と言うと、ピタリと言葉が止まった。
なんだか背中の体温が熱くなった気がするが、これが人肌というものなのだろう。
俺は玄関の扉を開け、先輩を先に通す。
「お……おじゃ、おじゃまします……」
「どうぞ」
先輩は身体を小刻みに震えさせながら靴を脱ぎ、丁寧に靴を端に寄せて部屋に上がった。
俺も靴を脱ぎ、後ろにただならぬ気配をひしひしと感じながら部屋に上がる。
俺の部屋は通路の先にリビングへの扉があり、左右に風呂場と寝室がある。
「先輩、奥のリビングに行ってください」
「は、はい」
先輩が奥のリビングへの扉を開けた瞬間、先輩は硬直した。
それもそのはず、壁一面に本棚があり、しかも大半がBLに関連している本なのだから。
「先輩……嘘ついてすみません。俺、本当は海外なんて行ってないんです。実は俺──」
BL小説家なんです、と言おうとした瞬間。
先輩がいきなり俺の方に振り向き、頬を紅潮させながら俺にこう言った。
「橋本さん……やっぱり、橋本さんはゲイなんですね!!」
「B──え? あ、え? いや、ちが」
「そしてやっぱり……お、俺のことを……」
やばい。
確実に勘違いされている。
焦った俺は、とっさの行動に出た。
「秋本さん!」
「ひゃい!?」
ひっそりとリビングの扉の影に隠れていた秋本さんは、突然の呼びかけに変な返事をした。
(背に腹は変えられん……!)
「先輩、紹介します。こちらの女性は、秋本佳奈子さん。俺の婚約者です」
「「……ええええ!?」」
秋本さんと先輩の叫び声が同時に木霊する。
「ちょっと、橋本さん!? そんな嘘──」
俺は秋本さんの肩を抱き寄せ、耳元で囁く。
「腐壁腐美子先生の新作、俺未発表のやつ持ってるんだよな」
「はい! 先輩さん? 私はれっきとした橋本さんの婚約者よ!」
「な……そんな……。じゃあ、橋本さんは、別に俺のことを……」
「ああ……。勘違いさせて、すまない」
俺は海外移住のことや婚約者のことなど、先輩を嘘だらけのことで悲しませていることにとても罪悪感を感じた。
(胸が重いな……。秋本さんとの婚約の話は少ししたら白紙になったと言おう)
「橋本さん……。俺、橋本さんに出会って、すげー良かったです。橋本さんに出会わなかったら、今もきっとチャランポランな生活をしてたと思います。だから、感謝してるんです。そして……俺は……」
俺は気づいた。
先輩が泣きそうに顔を顰めていることに。
「先輩……。先輩はきっと、これから幸せな人生を歩めますよ。なにかあったら俺に言ってください。できる限りのことをさせてもらいますから」
「うっ……く、はい……ありがとうございます」
俺は先輩にティッシュを差し出して、そっぽを向く。男ってものは泣き顔なんてみられたくないもんだ。
その後、先輩にハーブティーを出しておもてなしした後(俺は入れたことがない。秋本さんが勝手に持ち込んでいたものを出した)、先輩はスッキリした顔をして去っていった。
「はー……疲れた……」
「橋本さん、腐壁先生の新作、見せてくださいよ!」
「ああ、あそこの本棚にありますんで……」
「わーい!」
秋本さんは意気揚々と本棚へ向かった。
この時はまだ、あんな展開になるなんて思っていなかった。
──数日後──
俺はいつものようにリビングで原稿を書いていた。すると、にわかに玄関の方が騒がしいことに気づく。
(なんだ……? 秋本さんは今日は来ないはずだ)
不審に思った俺は、玄関へと向かう。
すると、玄関の外からけたたましい怒鳴り声が聞こえてきた。
『だから金返せばすぐ帰るってーの!』
『そんな百万なんて大金、あるわけないでしょ! 大体、うちの息子がお金を借りたって証拠でもあるの!?』
『あるってーの! ほら、これ借用書! しっかりサインされてるじゃねーか!』
『そんなサインなんていくらでも偽造できるわよ!』
どうやら、お隣のおばさまと闇金の人が揉めているようだ。
俺は迷ったが、いつまでも騒がしくされては執筆に支障が出ると思い、止めに入ることにした。
ガチャ
「すみません」
「ああ゛!? なんだてめ……」
闇金の人は、俺の顔を見ると言葉を切らした。
そして見る見る内に顔を青ざめさせると、
「あ、貴方様はどちらのお組で……?」
と聞いてきた。
「いや、俺は組に入ってません」
「じゃ、じゃあ、もう抜けたってことですか……?」
「いや、最初から入ってません」
「え……そ、そうなんですか、それは失礼しました」
その時闇金の彼は思っていた。
(こいつ……2、3人は殺ってやがる……!)
「あの、それで、ちょっとご近所迷惑なので、あまり声を荒げるのはやめてくださいませんか?」
「あ、は、はい。わかりました! では失礼します!」
そう返事をして、彼は小走りで去っていった。
「ふぅ……。大丈夫ですか? お隣さん」
「あ、ああ……。あんた、見かけによらずいい奴だね! 引きこもりかと思ったら彼女がいる癖に男を連れ込んでる怪しい奴だと思ってたよ! ありがとね! 良かったらご飯でも食べていきな!」
「え、いえいえ……。って、え? 今なんて?」
「ん? なんだい? 良かったらご飯でも食べていきな!」
「いや、その前の台詞です。俺、そんな風に思われてるんですか?」
「ああ、近所では極道の息子かなにかで、彼女が頻繁に通う危ない男が住んでるって噂だったんだがね。この前男をおんぶして連れ込んだのを見た人がいてね。ますます怪しい人が住んでるってもっぱらの噂だよ」
「……そうですか」
俺は多大なるショックを受けた。
俺はそんな風に思われていたのか。
学生時代のみんなに避けられた思い出が蘇り、鬱々とした気分になった俺は、お隣さんのお誘いを丁重に断り、家に帰った。
「俺は……何故こんな顔なんだろう……」
そんなことを呟いた時。
ピンポーン
玄関のチャイムが鳴った。
「誰だ……?」
俺は立ち上がり、インターホンのカメラを見る。
「! 先輩?」
そこに映っていたのは、子猫を胸にかかえた先輩の姿だった。
とりあえず先輩と子猫を家に入れた俺は、段ボールにタオルをひいて子猫を入れ、先輩の話を聞くことにした。
「先輩、子猫どうしたんですか?」
「う……すみません、橋本さん。橋の下でミィミィ鳴いてたから、つい連れてきてしまって……。俺実家暮らしで、姉が極度の猫アレルギーだから飼えなくて……咄嗟に先輩のことを思い出して、その、一時的にでも預かってもらえないかと……。飼ってくれる人は俺が探します! 餌とかトイレとかも全部俺が用意します! だから……」
「いや……まぁ、そこら辺のことはお互い協力していきましょう。うちはペット可のアパートですし、俺もこの子助けたいですし。ただ、子猫っていうのは2、3時間おきにミルクをあげないといけませんし、トイレも定期的に股間をティッシュでちょんちょん刺激して出させないといけないんです。先輩も仕事があるでしょうから、平日は俺が面倒みます。その代わり、土日は日中だけでもこの子の面倒みてくれませんか? 俺も締め切りがあるので……」
「も、もちろんです! むしろ毎日仕事終わったら来ていいですか?」
「え、いいですけど……流石に毎日は大変でしょうから、来れる時で……」
「いえ! 毎日来ます! この子の成長を直で見ながら里親探しもしたいし、それに……あ、会いたい、から……」
俺は思った。
先輩は本当に猫好きで優しいんだな、と。
無意識にフッと笑みを浮かべた俺は、先輩に向かって手を差し出す。
「先輩。……子猫、お風呂に入れましょう」
それから先輩は宣言通り、毎日仕事終わりに家へやってきた。
基本的には子猫のお世話と里親募集のチラシ作りやネットでの募集サイト作りなどをしているが、たまに夕飯を作ってくれたりして一緒に食べている。
そんな俺達は以前よりも大分打ち解けたな、と俺は思っている。
先輩もたまに敬語じゃなくため口になるし、俺も滅多にいない本職をさらけ出した相手だからか気を緩めて話ができている。
友達──というのだろうか。
子猫を通じてのやりとりではあるが、俺は最近先輩のことを友達と呼んでいいのではないかと思い始めていた。
きっと先輩もそう思ってくれている……と信じたい。
ただ一人、俺達の関係をただの友達ではないと信じ込んでいる人がいる。
それは言わずもがな……秋本さんである。
子猫を預かってから最初に迎えた締め切り日。
その日俺は妙に筆が捗り、秋本さんが原稿を取りに来る一時間前には小説を書き終えていた。
暇になった俺は子猫と遊んでいたのだが、子猫が眠ってしまったためその寝姿を眺めているうちに自分も寝てしまっていた。
秋本さんにはいざというときのために合鍵を渡してある。
そして、先輩にも。
俺が喧噪が聞こえて目覚めた時、一瞬何が起きているのか分からなかった。
「だからっ、俺は橋本さんにキスなんてしようとしてねぇ!」
「嘘よ、思いっきり顔面近づけてたじゃないの!」
「そ、それは橋本さんが寝てる姿なんてみたことなかったから、ちゃんと息をしてるか確認しててっ」
「あら、そうなの? ……ふーん。まぁいいわ。今回はそういうことにしといてあ・げ・る」
秋本さんはばっちりウィンクを決めて、ルンルンと鼻歌を歌いながらキッチンへと向かっていった。
状況を掴めなかった俺は、先輩に聞いてみることにした。
「先輩」
「うひゃああ! っ、は、橋本さん、起きたんですね!」
「はい。寝てしまっていてすみません。……一体何が起きたんです?」
「は、えと、俺がピンポンしても応答がなかったので、心配になって合鍵で中に入らせてもらったんです。そしたら橋本さんが倒れてて、息をしてるか確認しようと顔を近づけていた時に秋本さんが入ってきて」
「はぁ、なるほど。でも先輩、息をしているのか確認する為には口と鼻のところに耳を近づけるのが正解だと思うんですが……」
先輩ははっとした顔をしたあと、ボボボボッと火がついたかのように顔を真っ赤にした。
「あ、う、す、すみません! お、おれ」
「いえいえ、誰だって緊急事態に遭遇したらテンパってしまうものです。恥ずかしがらなくていいですよ」
「は、はい……」
先輩はよほど恥ずかしかったのだろう、耳まで真っ赤にして瞳をうるうるとさせている。
そんな先輩を少し離れた所からガン見している人が一人。
その女性は、内心サンバを踊っているかのように騒いでいた。
(あの先輩って人、絶対絶対絶対橋本さんのこと好きだわ! あんなに顔を真っ赤にしてうるうるしちゃって……。もう、橋本さんじゃなかったら押し倒してたわよ! いえ、もしかして私がいるから橋本さんは押し倒すのを我慢しているのかしら? 合鍵を渡すくらいだもの、橋本さんも先輩へ好意があるってことよね。もう、私ったら変なタイミングで来ちゃうんだから!)
その女性──言わずもがな秋本さんは、この光景をじっくりと目に焼き付けておこうと決意するのだった。
そしてその数日後、俺は衝撃的な光景を目にすることになる。
いつも通り家で執筆していた俺は、ピンポンが鳴ったので先輩か秋本さんだろうと思いインターホンの通話ボタンを押す。
「はい」
『は、橋本さん。俺です』
「先輩、いらっしゃい。今開けますね」
『お願いします』
俺は先輩の為にオートロックを解除する。
しばらくして玄関のインターホンが鳴ったので、玄関のドアを開けると、そこにいたのは先輩だけではなかった。
何故かひっくひっくと嗚咽をもらす秋本さんが、先輩に肩を支えられながら佇んでいた。
頭がはてなマークでいっぱいになった俺は、とりあえず家の中へと二人を入れた。
リビングのソファに二人を座らせ、対面に座った俺はどうしたのか事情を聞くことにした。
「どうしたんですか? 秋本さん。先輩、事情を教えてください」
「え、えと、俺が偶然此処の近くの公園に寄ったら秋本さんがブランコに座って泣いていて。事情を聞いたら、好きだった相手が遠い異国に行ってしまって泣いていたんだそうです。それで……」
(好きだった相手? 秋本さん、そんな人がいたのか。知らなかったな。ん? 遠い異国?)
「それで先輩が連れてきてくれたんですね」
「えと、ま、まぁそうなんですけど……それだけではなくてですね」
「ん? どうかしたんですか?」
「あー……。お、俺達、付き合うことになりました」
そう言った後、先輩は顔を真っ赤にさせた。
俺は先輩の一言を理解するのにとても長い時間をかけた……が、結局理解できなかったので話を深く聞くことにした。
たしか秋本さんは俺の婚約者という設定ではなかったか?
「先輩、どういうことですか? 秋本さんと俺は──」
「婚約者ではないと、聞きました」
俺は秋本さんが本当のことをすべて話したと悟った。
それはまぁいい。
だがどういう経緯であんなに犬猿の仲みたいな関係だった二人が恋仲に?
「嘘をついていてすみません、先輩。その通り、俺と秋本さんは婚約者でもなんでもなく、ただの小説家と担当編集者です。そして婚約者でもありません。しかし一体全体どうして先輩と秋本さんがお付き合いをすることになったんですか?」
「それは──」
先輩は公園で泣いている秋本さんを見つけて、俺と喧嘩したのではないかと心配になり声をかけたそうだ。
そしたら秋本さんが好きだった人が異国へ行ってしまったから泣いていたとつい言ってしまい、好きだった人=俺(橋本)が異国へ旅立ったのかと焦って色々聞き出したところ、俺とはそんな仲ではないとバレたらしい。
その後は好きだった人のどこが好きだったかとか何故異国へ行くのかとか深く事情を聞いたところ、あまりにも一途に想いながら泣く秋本さんに心を奪われてしまい、とっさに
「俺があんたを一生守ってやる」
と告白してしまった、とのことだった。
その告白を受けて、今まで恋愛偏差値1であった秋本さんは少女漫画ばりの展開に胸をときめかせ、告白を受け入れて嬉しさのあまり泣きながらうちに来た、とのことであった。
「なるほど……。とにかく、お二人ともおめでとうございます。これから幸せになってくださいね。俺も影ながら応援していますから」
「うう……ありがとうございます、橋本さん」
「ありがとうございます」
泣きながらお礼を言う秋本さんと先輩を微笑ましく見ながら、俺はとある事実は墓場まで持って行こう、と固く心に誓った。
──秋本さんの【好きだった人】というのは、腐壁腐美子先生のBL小説の登場人物(攻め)の一人である、ということを。
こうして先輩と秋本さんは付き合うこととなり、子猫は秋本さんが引き取って先輩と一緒に育てることになった。
俺はというと、相変わらず引きこもってBL小説を書いてばかりいる。
でもまぁ、そんな日々でもたまに先輩と秋本さんが来て一緒に夕飯を食べたりもしてるから、なかなか楽しい日々だ。
ただ、一つだけどうにも解決できないことがあって頭を悩ませている。
それはお隣さんが作りすぎたというマフィンを持ってきてくれた時に聞いた話だ。
「あんた、大丈夫なのかい?」
「なにがですか?」
「いや、最近あんたの家に男女が連れだって入っていくだろう? あんたがいい奴なのは知ってるさ、私はね。でも知らない連中が『ヤ○ザの家に好青年と美女が入っていくのをよく見かける。もしかしてあの家の住人は二人をはべらせているヤバイ奴なんじゃないか』ってねぇ。ま、所詮は噂さ。気にすることないさね」
「あー……はははは……ありがとうございます」
俺は、近々引っ越そうかと本気で思い悩んでいるのだった。