2日目
「お願いします」
ドサリと重い音を立てて本が置かれ、受付カウンターから顔を上げた司書の女が、目の前に積まれた本の山を見上げた
左手の山は返却の山
右手の山はこれから借りる山のようだ
カウンターの向こう側で待っている女の首には銅の冒険者プレートがかかっていて、黒いローブと腰に吊るした華奢な杖で、魔法使いだとひと目でわかる
おばあちゃんみたいなハーブの香りととんがり帽子は、魔法使いというより魔女と言った方がしっくりくる雰囲気だった
返却された本の手続きをしながら、司書の女は心に少しの喜びを感じていた
魔法学院が彼の国で設立されてから、図書館で魔法を学ぶものが居なくなり、積まれた本の山に魔導書があるのが司書の女には嬉しかった
読まれなくなり、埃をかぶった魔導書を見つけるたびに、これに魔族が乗り移って魔本になったとしても致し方ないだろうと女は思っていた
返却された本たちは、時と共にくたびれた装いをしていたはずなのに、なんだか張りが戻ったようにピシリとした佇まいで女の手に戻ってきた
「今日はハーブの勉強ですか?」
貸し出しの手続きをしながら、本のタイトルを指先で順に追っていくと、趣味のガーデニングから薬草の専門書まで、植物の本が目立った
「この街の植物園に行ったんですけど、私の故郷には無い植物がいっぱいあって。帰ったら私の庭でも育ててみたいなって」
「なるほどね、でも、魔法も植物も学びたいなんて、魔法使いというよりまるで魔女みたいね」
"私の庭"という言葉に、司書の女は子供の頃を思い出した
この街の植物園には昔、年老いた魔女が住んでいて、幼い頃の司書の女は"魔女"というのがとても気になり、よく覗きに行っていたことがあった
「私も魔女になれる? 」という幼心の質問に、魔女のお婆さんはにこりと微笑み、頭を撫でてくれたのを覚えている
やがて魔女は老衰で亡くなり、私はとても悲しんだ
後を継ごうと決心し魔導書を読み漁ったが、魔法の適正値の低さで行き詰まり、結局、通い詰めたせいで顔がきくようになった図書館に就職したというのが、私の憧れの結末だった
「私のおばあちゃんが、魔女だったの」
貸し出し欄にサインしたタチアナという名の冒険者は、帽子のつばをいじくり回してから照れくさそうに呟いた
「あら、じゃあもしかしてあなたも魔女なの? 」
「まだ、見習いかな。受け継ぎはしたけど、よく分かんない事が多くて」
魔法学院で体系的に学んだ者を魔法使い、継承によってただ一人に受け継がれるのを魔女という
鋭意勉強中ですと意気込んだ見習い魔女に、司書の女は少しの羨望を感じながら、頑張ってねと声をかけた
***
夏の暑さが嘘のように、図書館の空気は冷えていた
手のひらが汗で湿る事がないので、いつもより気を使わず楽に本を扱える
館長が冷房の温度を下げてくれたのだろうか
気持ちよく仕事が出来るのなら作業ははかどり、好きな仕事ならば時間を忘れてしまうのも無理もない話だった
視界の端で、暗闇が動いた気がして、司書の女は目を向けた
壁面が落ち合う部屋の角には、本棚の影も重なって薄暗い
時刻は昼をだいぶ過ぎていて、窓から差し込む日の光の面積が前見た時よりも増えていた
午前中の見習い魔女の訪れ以降、図書館に訪れる者は今日は無く、ここだけ世界から切り取られたように時間が静かに過ぎていた
窓から差し込む光の傾斜が、暗闇を動かして目の錯覚を起こしたのだろうかと司書の女は考えた
本を守れと暗闇が言ったのだろうか
(西側の窓にカーテンを引かないと)
座っていた脚立のてっぺんから見回すと、西側の本棚があと少しで太陽に焼かれかけていた
司書の女の背にヒヤリとした汗が流れ、慌てて読んでいた本にざっと目を通し、異常がないかをチェックしてから本棚に戻した
勤続10年目の司書は高い脚立も慣れたもので、滑るようにフロアへ降り立つ
窓へ向かって一歩踏み出したところで、つん、とスカートの裾が何かに引っ掛かった
「あら」
ささくれかしら、と思って脚立とスカートの間を手で払ったが手を遮るものは何もない
あら? と疑問が頭に浮かんだ瞬間、今度は脚立と反対側の裾がつん、と小さく引っ張られた
目の前には脚立、横には本棚
後ろには何も……
バッと振り返り、裾を手で覆った
再び裾を摘まれた感触がしたのだが、部屋には女以外人影はなく、窓からの風が小さくそよいでいるだけだった
視線が満遍なく部屋を巡って、手の先は確認するようにスカートの裾を引っ張り回した
「……気のせい……」
なぜか部屋の隅の暗がりから目が離せず、言い聞かせるように呟きがこぼれた
自分の鼓動がほんの少し大きく聞こえる
じっと暗がりを見つめながら、西側の窓に向かってそろりと足を踏み出した
(気のせい……気のせい……)
体が落ち着かせようと呼吸が速くなり、何かから逃げようとするように歩幅が大きくなる
暗がりから目を離して早足で窓に向かうと、またスカートの裾がつんと引っ張られた
女はもう振り向けなかった
ただひたすら窓辺に向かった
つんつんつん……
何かを知らせるように何度も裾が引っ張られ、控えめな感触はだんだんと強くはっきりと女の足に伝わっていった
「いやあ! 」
ビィーーー! っと太ももから足首までを、冷たい何かが走りぬけ、女は日の光にすがるように窓枠に倒れ込んだ
窓辺に差し込む光がバリアのように包みこんで、女は足を押さえて呆然と座り込んだ
はあ、はあ、と呼吸が上がり、ドッドッドッと心臓の音が胸を打った
額に浮いた冷や汗が、窓をくぐる風に引いていくのが分かった
あたたかい太陽の光がなだめるように女の肩を温めて、落ち着いていく思考が足元に見える現実のあまりのばかばかしさに停止しかけた
履いたストッキングが伝線している
文章として頭に浮かんだ瞬間、脱力感で立ち上がれなくなった
「ばかじゃないの、ばかじゃないの」
思わず声に出る
伝線の感触が裾を引っ張られたような錯覚を起こしたのだろう
ばかじゃないの、と女は三度呟いて窓枠に寄り掛かった
安堵と脱力感で動けなかった
座り込んだ場所から見える部屋の中はいつも通りの昼下がり
暗がりはただの部屋の隅
立ち並ぶ本棚が、落ち着きなさいと静かに佇んでいた
「ふふ」
良い酒の肴が出来たようね、と女は思った
背後の窓からは程よい風が吹いてきて、引いていく汗が気持ち良くて女は一瞬目をつむり、その風を感じた
再び目を開いた時、女は凍りついた
部屋を見渡した視線が降りて
本棚の、下
地面と棚の間にだけ見える、あれはなんだろう
蒼白い足のようなものが見える
女は動けなかった
思考も動けなかった
足のようなものも動かなかった
じっと視線が動かせなかった
見ていたらきっと、あれが何なのか分かるはずだ
足以外の答えが出るはず
まばたきは出来た
まばたきしても消えなかった
手足が寒かった
呼吸が止まったように動けなかった
ヒュッと窓から吹く風に意識が向いた瞬間、バンッと強い音が耳を打った
「いやっ! 」
音に驚いて思わず目をつぶった
ごうっと風の音が続いて、強い風に髪が乱れる
ゴトっと何かが落ちる音がして、女はもう一度ビクついた
耳の中で心臓の音が破裂しそうなくらいに脈打って、風の音が止んでも縮こまったまま、しばらく動けなかった
耐えられるくらいに動悸が落ち着いた頃、女は恐る恐る目を開けた
棚の下を確認すると白い足は消えていて、代わりに本が数冊落ちている
安堵したとたん、自分の体に気づいたようにじわりと体温が戻っていって、こわばった手足が緩んでいった
窓から差し込む日の光は痛いくらいに女の首を照らしていて、今日はこんなに暑かっただろうかと女は思った
さっきまでは過ごしやすい昼下がりだと感じていたのに
はああと、肺の空気を全て押し出すような、震えまじりの深いため息が女の口からこぼれ出た
何かの出来事が終わったのだと、本能で理解した安堵感だった