夜明け
敷き詰められた石畳みが、青みがかった色に変わった
夜を走る若者の背後で、群青の空が暁の始まりを知らせている
夜闇に染まっていた石畳みを走ると、飛び越えるたびに日が昇る直前の藍色に変わり、後方へとスライドしていった
暗闇に向かって走る靴を追いかけるように、伸びる草の影が足元をうろつく
3ブロック先の土手に向かって前屈の姿勢で駆け抜けた走者は、走るスピードを上げて太陽と勝負した
河川敷の坂が太陽の味方をして、土手を登りきった若者を追い抜くように、太陽の光が暁の空を差した
***
「あー! クソッ! 一時間切れねー! 」
朝日が照らす河川敷を走りながら、サビオは河原に向かって怒鳴り散らした
木の上で早朝の挨拶をしていたスズメ達が、その大声でいっせいにおしゃべりを辞める
最近はじめた河川敷までの日課のランニングは、今日も目標に届かなかった
気温も低く、人影もまばらな夏の早朝は記録を測るのに丁度良かった
サビオは少しずつ走る速度を落とし、早歩きのようなスピードで走りながら吹き出してきた汗をタオルで拭った
走り続けながら、背中に括り上げていたメッセンジャーバックのショルダーを緩めて元の位置に戻し、今朝一番の配達物を取り出す
「どっから行くかな」
新聞配達と一緒に動きたくないというのんべえが多いこの地区で、駆け出しの配達員に押し付けられる仕事などこんなものだ
とくに酒がうまいとも思わないサビオは、夜の街に繰り出せなくても不満はない
多く仕事を回してもらうには選り好みはしていられない
非常識なのか、緊急事態なのか、とにかく早くと差し出された配達物は、企業から個人まで色々だ
「ん? 」
宛先を確認していたサビオが、宛名のない封筒に気が付いた
運び屋ギルドで受け取った時にザッと見ただけだったが、確かに全て宛名が書いてあったはずだ
裏をみて、表を見て、もう一回裏を見てみるが何も書かれていない
封が二重にされている事もあるので、カバンの中を漁ってみたが、あるのはおやつのかぼちゃの種だけだ
「あっ! 」
急に吹いた突風で、サビオの手から封筒が旅立つ
メッセンジャーは、これといった特技のないサビオでも雇ってもらえる数少ない仕事だ
紛失なんて絶対に出来ない
ヤバイヤバイと青くなりながら、川に向かって飛んでいった手紙を追いかけた
川に落ちそうになった手紙に、池ポチャは勘弁! と願ったのが通じたのか、河原に生い茂る雑草にヒラリと落ちた
群生している白い花の咲いたあたりに落ちたのが見えて、サビオはホッと胸を撫でた
ぬかるみに汚れていく足下を忌々しげに思いながらも、腰まである草をかき分け近づく
「なんか、臭いな」
不意につん、と不快な臭いが鼻についた
生魚を腐らせたような強烈な臭いだ
「生ゴミでも捨ててあるのか? 」
温泉の硫黄とどっちがマシだろうか
進むたびに強くなる異臭に、心のどこかで警戒音が鳴り始める
草の合間にチラチラ見えていた白い花が、花ではなく、何かの塊であるのに気付いたとたん、進む足取りが重くなった
ギリギリ届きそうな距離まで近づいて、なるべく直視しないように手紙だけに焦点を当てて腕を伸ばし、封筒を取りあげる
岸辺に乗り上げた白い塊は、太陽の光が差し込むとともに赤黒い何かを包む白い布であるのが分かった
ボコリ、と人であっただろう塊から何かが破裂したようなこもった音が立ち、悪臭がさらに強くなる
「通報したら、仕事が遅れるよなあ……」
サビオは取り返した封筒を鞄の中へしまい、緩めたショルダーをまた吊り上げて、来た道をまた引き返していった
***1日目***
ふと、タチアナがテーブルから顔を上げると、向かいに女性が座っていた
テーブルに片肘をつき、椅子を横向きに座る女性は遠くを眺めていて、その目はぼうっと虚に見えた
栗色の髪に白のワンピースを着たその女性を見ていると、思考が急にゆっくりになって、タチアナもぼうっと女性を眺めた
ぼうっと視点が合わないと、女性は色を失ったように白くぼやけて見えていく
誰だろう? とタチアナは思ったが、宙に浮いた思考はもやがかったように考えがままならず、何度も同じ問いを頭の中で繰り返した
「水をいただけませんか」
遠くを眺めたまま、ピクリとも動かずに女性が言った
タチアナの視線がテーブルの上にあるガラスの水差しに移る
氷と共に水差しの半分ほど入っていた冷たい水が、ガラスの表面に浮いた水滴と一緒に減っていった
女性は動いていない
水差しも動いていない
けれどタチアナには女性がそれを持って飲み干したイメージが頭に浮かんだ
女性のホッとしたような顔が心に滲みて、水だけでいいの? とタチアナは思いやった
「お香をいただけませんか。7日ほど。水とお香を毎朝供えて欲しいのです」
いいよ、と動かない口で返事をすると女性は振り向き、目を伏せて小さく礼をしたように見えた
一瞬見えた女性の瞳は、塗りつぶされたように真っ黒だ
瞳孔が開いてるんだ、と理解したとたん視界は白く塗られていき、タチアナの意識は遠のいていった
「……、……、……タチアナ! 」
耳元で名前を呼ばれ、はっとタチアナは意識を取り戻した
遠くなっていた周囲の音が、一斉にタチアナの耳に戻ってくる
周囲を見回してから、川沿いのカフェに入ったんだったっけ、と思い出した
見晴らしの良い2階のバルコニーがあるこの店は最近のお気に入りで、店の前で客寄せの旅芸人が歌う陽気な歌を毎日聞きに来ている
パラソルの付いたテーブルには真上から太陽の光が注ぎ、歪みのない六角の影を落としていた
「どうしたの? ボーッとして。具合悪いの? 」
新人冒険者のタチアナがバディを組んでいる相棒が、今日は暑いから気をつけてねと言って、首筋に汗を浮かせながら向かいの空いた席に座った
真上から降り注ぐ太陽は、余すとこなく照らしてやろうとでも言うように、強い日差しで見下ろしている
他の客たちもパラソルの下で冷たいメニューを開いていたが、タチアナはヒヤリとした空気を肌に感じていた
相棒がウェイターを呼んで、追加のコップと水差しを頼んだ
テーブルの上の水差しは空になっている
「ねえ、その席ずっと空いてた? 」
空いてただろうな、と思いながらもタチアナは聞いてみた
「私が来たときは空いてたけど……誰かと一緒だった? 」
座った尻をまた浮かしかけた相棒に、そのままでいいよと座らせる
邪魔しちゃった? と言ってメニュー表を開いた相棒はランチメニューを飛ばしてデザートメニューを開く
タチアナも便乗してメニュー表を覗き込んだ
「ううん、今は一人。……あのね、用事が出来ちゃったから今週のお仕事出来なくなった」
「ええ〜! キラービーのおいしいお仕事だよ〜! 行こうよ〜」
相棒は信じられないと言った顔をしてテーブルをガタガタと揺らした
タチアナだって行きたいとは思っている
夏場に出る殺人蜂の討伐依頼は、女性冒険者の間で奪い合いになっていて、達成報酬よりも、蜂の巣からとれるハチミツに熊のように群がっている
「ゴメンね。日帰り出来るなら行けるけど、日をまたぐならムリかも」
「そんなあ〜」
テーブルに溶けるようにうなだれる相棒に申し訳なく思いながらも、肌に感じるヒヤリとした空気に、タチアナは7日はこの街を動かない事に決めた