92.甘い罠
目の前が見えない状況というのは、恐怖を感じることが多い。
夜の道を歩く時、薄暗い街灯の更に向こう側はまさしく一寸先は闇と言わんばかりに暗闇が広がっており、家の中でも電気がついてない部屋は妙に恐怖心を煽ってくる。
人は本質的に暗闇を恐れ忌み嫌うものである、と仲の良かった後輩がよく語っていたが、その通りだと俺も思う。
中学、高校になるにつれて暗闇に対する恐怖心は薄れてくるが、小学生のの頃はマジで怖いところが苦手だった。
なんなら、寝る時でさえ灯りをつけて寝ていた気がするくらいだ。
そんな俺が今、その暗闇の状況下で安心感を得ているとはーーー
「んっ……」
俺が少し身じろぎをすると、俺を“抱きしめている”相手方はくすぐったいのか、耳元に艶っぽい声を出す。
状況は単純明快、キーラに抱きしめられる形で俺たちは同衾していた。
何故、こんなことになっているのかと言えば、それはキーラが言った条件というのがこれだからだ。
正確には、修行時間中に、必ず添い寝時間を作るというもの。
午前は今まで通りカイリちゃんから氣の修行を行ってもらう予定だが、なんだかんだで忙しいカイリちゃんは、午後にはこの屋敷を出てしまう。
今までだったら、俺はその時間を氣の自習に充てている形になっていたが、これからはキーラの言う奥義とやらを習得する時間に充てようという形になった。
ただ、午後は時間が長い。夕食までするとしても体力的にちょっとキツイものがあるので、休憩時間を取る必要があるだろう。
その休憩も兼ねて、添い寝が提案された形になる。
なお、添い寝と言っても横並びになって寝るような形ではなく、キーラの胸元に俺の頭が抱え込まれるような形になっている。
そのため、年不相応に実った胸が俺の顔中に当たっているわけで……。
正直言って、最初は緊張しすぎて休憩にならないんじゃないかと思った。
だが、しばらくこの体勢になっていると彼女の胸元から甘いミルクのような香りが漂ってくることに気づいた。
ミ◯キーはママの味、ではないけど、その香りを嗅ぐとなんだか母親に包まれているような安心感を得られるのである。
そして、極め付けはキーラによるなでなでだ。
俺に少しでもリラックスしてもらおうという考えなのか、小さな掌で優しく頭を撫でつけてくる。
前世、今世とほとんど母親という存在に接触することがなかった俺としては、これが抜群にヒットした。
相手が自分よりも年下であるということも忘れて、俺はしばらく彼女のなでなでに酔いしれていった。
◇
「今頃、あの殿方は修行の一環だとか言って、少女の胸元に甘えているのかしら」
その状況を思い浮かべて、思わずニヤニヤとした笑みを浮かべてしまう。
「それにしても、あんな付け焼き刃の力で心を隠し通せていると本当に思ったのかしら?だとしたら、相当にお頭の出来が良くないと見えますわね」
わたくしの能力は、相手の心を覗き見、歪め、把握するもの。故に、彼の能力についても彼が知っている限りは全て把握していた。……その中に、精神の鍵によって心を施錠するというものがあることも。
あのまま、施錠し続けていれば、わたくしとしても他に対策を取る必要が出てくる。
腐ってもあの能力の格は高い。わたくしの眼では太刀打ちできないくらいには強い力を感じる。
しかしながら、あれを操っている者の技量がいかんせん低い。
施錠すれば、その間考えていることは分からなくなるが、それ以前の思惑については理解できる。
わたくしに敵意を抱いていたこと、カイリという娘を助けたいと思っていたこと、彼が抱えるトラウマのフラッシュバックについても……。
既に見通したことについてはわたくしが忘れるはずもない。
それに施錠した間はわたくしの能力に対して、反発するものを感じ、心も読めなくなる。
何かを企んでいますよ、というのが丸わかりなのである。
故に、わたくしは策を練った。
わたくしは、あの殿方の元々の種族上あの力を手に入れるのが手っ取り早いとすぐに分かった。
そのため、キーラという人間族の小娘に目をつけた。
キーラとわたくしの関係は気の置けない友人、相談を幾度となく繰り返し解決してきた頼りになる人、という感じに設定した。
『キーラ様。最近、カイリお嬢様の訓練でマティス様との時間があまり取れていないのではないでしょうか?』
『……はい。私としても、お兄様と距離を詰めたいとは思いますけど……最近、忙しそうでちょっと声がかけづらいといいますか……迷惑にならないか心配です』
『マティス様はキーラ様のことを大事に思っております。キーラ様が話しかけたとしても迷惑だなんて思いませんよ』
『……そうでしょうか?でも、あまり話すきっかけもないですし、部屋も同じになれないのでそもそも接点が……』
『でしたら、私が機会を作りましょうか?』
『……え?』
愛しい殿方と触れ合うチャンス、恋する乙女としては是非とも見逃せないとキーラの黒い眼差しは俄然力を感じました。
わたくしは彼女を落ち着かせるよう促しつつ、話を続けます。
『マティス様は今、大会に向けて実力の向上を図っておられる次第。ですが、獣人族ではない彼に、氣の訓練だけを行うというのは少しばかり非効率ではないでしょうか?』
『……』
『そこで、キーラ様の出番です。キーラ様はアキト様から人間族の奥義を教わり、実行することが可能とのこと。その力を伝授するという形でマティス様と接するのは如何でしょうか?』
『……ッ!』
まさに大義名分を得たりと言わんばかりに顔を輝かせてみせる人間族の小娘。
思い立ったが吉日、と言わんばかりにその場を後にする彼女に対して、わたくしは待ったをかける。このままでは、ただの恋のサポート。
ここからもう一歩踏み込んで、策としなければーーー
わたくしは吊り上がりそうになる口角を必死に抑えて言った。
『それだけでは距離を縮めるのには不十分。そこで修行中、休憩と評して気になる殿方と添い寝など如何でしょう?』
『えっ?でも、それは……』
それは確かに羨ましいシチュエーションですが、怪しまれるのでは?と思わず怪訝そうな表情が出るキーラ。
そこにわたくしが心を覗き見た結果得た、彼のフェチズムを囁く。
『彼は幼少の頃に母親を亡くし、甘えることも満足に出来なかった模様。そのため、彼には大きく育った身体と幼い精神という歪な状態になっているのです。故に、彼に母性の象徴を押しつけつつ、頭でも撫でてあげればきっと満足すること間違いなしですよ』
『……』
正確には今世の母親は今でも生きているようですが、ネグレクトを平然と行うようなクソ親であるようで、満足に甘えることが出来なかったのは間違いない。
しかも、前世では生まれてすぐに母親を失っている。
だからこそ、彼は女性の乳房に異様な執着を見せているのだ。
……まぁ、本人にもあまり自覚はなさそうですが。
わたくしの言葉に対して、キーラは思案顔になる。
わたくしは最後の一押しにとある香水をみせる。
『……これは?』
『これは女性の乳房を強制的に想起させる香水です。何故か私達女性が嗅いでも無臭なのですが、男性が嗅ぐとそう感じるらしいですよ。こちらを胸元に少々かけ、彼の頭を胸で抱く形で同衾してください。しばらくは彼も落ち着かないと思いますが、頭を撫でながら嗅がせ続ければ落ち着いてくると思いますよ』
『こんな香水があるなんて……』
初耳だ、と言わんばかりに驚いてみせるキーラ。
わたくしはそんな彼女に対して、特別よと意味を込めて微笑んでみせる。
これで彼女はわたくしに対する恩義もあり、この香水を使わざるを得ない。
……彼女が聞いたこともないのも無理はない。何せこの香水はただの水なのだから。
わたくしの力を使い、そういう印象を与えているだけのただの水。
ただし、彼に対しては会う度にこの匂いを嗅がせ、印象づかせている。
訓練された犬のように、きちんとこの香水に反応してくれるだろう。
『私のために、そこまでしていただき本当にありがとうございます。大事に、使わせていただきますね』
『はい、頑張ってください』
そう言って、わたくしと彼女は見かけ上は円満に別れた。
その後、二日後に彼がキーラの部屋に入ったのを目撃した。
最初、侍女長とか言う魔族の女を頼ろうとしていたから、慌ててそいつにも話を通したが……。どうやら話は上手くいったようです。
ここまで来れば、後は簡単。キーラが修行する度に殿方を甘やかせ、精神を溶かす。修行が半ば上手くいったとしても、彼女にどうしようもなく依存していることでしょう。
わたくしはただそんな彼の依存先であるキーラを操るだけ。彼は尻尾を振って、彼女の言うことに従うでしょう。
「ふふっ、存分に甘い罠に溺れてくださいまし……マティス様」
わたくしがそうやって高笑いする様を、じっと見つめている白い影にわたくしは気づかなかった。




