77.人魚姫の悲恋
「とりあえずは、獣人国との国境にある砦を目指すことにしましょう」
そう言ったのは、俺たちが従者の館を出てから一時間程経った頃だっただろうか。
俺と侍女長は、館を出た後、しばらくは周囲の状況観察も兼ねて、ぐるぐると館周辺を見回っていたのだが、どこもかしこもあの銀色の魔法陣で一杯だった。
それどころか、銀色の魔法陣、いや勇者の聖域結界は麓の方にある城下町の方にもびっしりと設置されていて、目が痛くなるほどに光り輝いていた。
この光景を目撃した侍女長は、魔王城や城下町の方へと向かうのは危険だと判断し、現在その獣人国との国境にあると言われる砦を目指して歩いているというわけである。
「しかし、まぁこれほどの魔法陣をよくもこんな広範囲に展開できるものですね」
「……勇者の魔力は我々凡夫とは比べ物にならないほど凄まじいということなのでしょう。加えて、女神からの寵愛も承っているようですし……」
そう言って、眼下の街を見下ろす侍女長の様子はアンニュイと言った感じ。
自分の住んでいる街がめちゃくちゃにされているのだ。
多少、気分が落ち込んだり、怒ったりしてもおかしくはないが……なんだか妙な違和感を感じるだよなぁ。
あまりにも元気がなさすぎるというか、いつもの覇気がないというか……。
何とも言えないこれじゃない感を覚えつつも、追求してもはぐらかされるだけだろうと、話題を変えることにする。
「それにしても、姫様起きないですね〜。なんだかんだで俺が聖域結界のダメージを若干とは言え、肩代わりしているんですよね?それで起きないってどんだけの威力なんでしょうか?」
「……聖域結界の威力は並の兵士では立ってられないほどのものでした。特に鍛えてもいない一般人である姫様が、眷属によって半減されたとは言え、聖域結界に耐えきれないのも仕方がない、とは思いますが……おそらくは姫様の受け継いだ魔族の特性上の問題と言えるでしょう」
「特性?」
「……姫様のお母様は、それは綺麗な人魚だったと言われています」
「人魚!?」
人魚って、あの上半身が人間で下半身は魚のようになっていて、何故か歌がすごく上手いと言われているあの人魚!?
「……おそらく、貴方のご想像通りでしょう。私も詳しくは知らないのですが、姫様のお母様は魔族領の海で暮らしていたと聞いています」
「はぁ……」
それにしては娘のシーフェは全然、人魚っぽくないなぁ。
エラとか水掻きは勿論のこと、鱗だって見当たらないし、陸上で普通に生活しているし……強いて似通った特徴を挙げるとするならば、水属性の適性がかなり高いことと、今こうしておんぶしているときに伝わってくる彼女の体温が水のように冷たいことか。
途中まではお姫様抱っこスタイルでシーフェを運んでいた俺だったが、腕は疲れるし走りづらいしで、侍女長からの許可ももらってこのおんぶスタイルに移行した。
この方が疲れないし、いざとなったら多少だが走ることもできる。
何よりシーフェの決して小さくない柔らかい果実を正々堂々と背中で味わうことができるのだ!
願ったり叶ったりのポジションである。
更には、偶に耳元で発せられる「うぅん……」という息遣いやらうめき声やらが耳朶を舐り、背筋がゾクゾクとするような感触もあったりなかったり……。
唯一の難点は、シーフェの感触を感じ入る度に侍女長から睨みつけられることぐらいか。
……否、むしろそれすらもご褒美かもしれない。
一部の上級者は、美少女のジト目を好物とする者もいるという。
俺も今まさに、その上級者へとクラスチェンジするときなのだ!
「……話を続けていいですか?」
「はい……すいません」
「…………貴方が感じ入っている姫様の声には、多少なりとも魔力が備わっています。込められた魔力量が微々たるものなので、皆無意識にその魔力に反発し、ほとんど効果を発揮していませんが……姫様の声音に好感を覚える程度には効果を発揮しているはずです」
なるほど……確かに、シーフェの声はいつ聴いても綺麗だなぁと聞き惚れていたりしたのだが……そういうことだったのか。
今だって、耳元で聞こえる息遣いに心地よさを覚えているわけだし、なんだかんだでシーフェも魔族の子なんだなぁ。
「……姫様が人魚の血筋を引いていることは理解できたかと思いますが……では、何故姫様が陸上で立って生活ができるのか、が気になりますよね?マティス」
「そう、ですね……というか、それって本人の預かり知らぬところで聞いちゃって大丈夫な話なんですか?」
「……有名な話ですよ、人魚姫の悲恋なんて」
そう言う侍女長の横顔は、いつもと変わらない澄まし顔だった。
◆
「人に恋した人魚姫の話、ですか……」
侍女長から聞いた内容は、日本でもよく聞くような有名な人魚姫って言った感じだった。
「……なにぶん、昔の話ですから魔族の子どもたちに伝える教訓のようなものかもしれませんけどね。人間などという下卑た種族に近づけば、とんでもない目に遭うぞ、と言うね」
皮肉たっぷりの笑みを浮かべてみせる侍女長の何気ない一言に、俺は違和感を覚えた。
「……ん?昔の話ってどういうことですか?これって姫様のお母様の話なんですよね?だったら、昔と言っても精々五十年くらいですか?」
「……どこまで本当かは知りませんが、人間の男と交わった人魚姫の子どもは胎児としてではなく卵生のもの……卵の状態で生まれてきたらしいですよ。その後、何十年何百年と暖め続けているうちに孵化したのだとか……」
「へぇ……」
それは随分と気の長い子どもだな。
というか、魔族の寿命って長いとは教わったけど、そんな何百年単位で生きるものなんだ。
俺はシーフェが卵生だったことよりも、そっちの方にショックを覚えたわ。
「……なので、姫様のお母様はかなり昔の時代の人になりますね。姫様が陸上で生活できる理由ですが、ここまで聞けば分かるでしょう?姫様が半人半魔だからです。特に、人間の血を色濃く受け継いだのでしょう」
「……そうですか」
なんか侍女長の人間という言葉に圧を感じてちょっと怖いんですけど……。
「……そう言えば、姫様が未だに目を覚さない理由の話でしたね。人魚という種族は魔族の中でも魔力抵抗値が低い種族だからです」
「魔力抵抗値……」
状態異常を起こせるモンスターとかってゲームとかだと、抵抗力が高いイメージだが……。
いや、むしろ逆か?抵抗力がないから、攻撃されないように相手を状態異常にさせるのか?
「……ただでさえ抵抗力の低い人魚という種族に、人間という弱小種族の血が混じってしまえば、この結果も仕方がないと言えます。それよりも、重要なことはこれからのことです。今の姫様は気絶して完全に無防備な状態です。だからこそ、護衛である貴方が姫様をお守りしなければいけません。たとえ、どんな敵が現れようとーーー」
一息にそう言ってみせる侍女長の様子は、普段と比べてどこかおかしい。
まぁ、状況が状況だしとも思わなくはないが、それにしても鬼気迫る感じが尋常ではない。
それだけ、勇者というのは恐るべき存在なのだろうか。
「なんだか言い方が侍女長らしくないと言いますか、何と言いますか……それにその言い方だと俺一人で姫様を守りきれと言っているように聞こえるんですが、侍女長も一緒ですよね?」
当然、一緒ですよ。
そう言った意味の返答を期待して、俺が質問を投げかけると何故か侍女長の顔色が悪くなったまま沈黙した。
「侍女長?」
「……」
「……侍女長?」
「……私はーーー」
何かを言いかけたその時、
「ーーー久しぶりですね、お兄様」
俺たちの行く手を阻むように、見覚えのある二人の少女が立ち塞がっていた。