■ カラスノコ
気が付くと私は白い天井を眺めていた。自分の部屋で長い夢でも見ていたような気がして、しかしすぐに首を振る。包帯が巻かれた右腕と反対側の腕に刺さった点滴がここは病院だと告げていた。
ゆっくりと首をより明るい方に動かすと、低いビルの間に県庁の建物が見えた。こちら側に山はなく、どこまでも建物が続いている。
ぼおっとその景色を眺めていると、病室のドアが開いた。またゆっくりと首を動かすと、随分とやつれた奈津さんがそこに立っていた。
私は掠れた声を出した。その声は問おうとしているのに妙な確信を持っていた。
「……美空は?」
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい」
奈津さんは呪文のように謝罪の言葉を繰り返した。私の容体を見に来た看護師が驚いて医者の先生を呼んでくるまで、彼女はひたすら謝り続けていた。
何を思ってか、落ち着きを取り戻した奈津さんは寝物語に三空洲村について話してくれた。――あの村は今でも人柱を立てていると。
むかしむかし、あの山には村を守ってくださる烏姿のカミ様がいた。だけどあるとき村人がカミ様の仔たちを誤って殺してしまった。カミ様の怒りを恐れた村人たちは自分たちの子供をカミ様に献上し、殺してしまった仔たちの祠をつくってお祈りした。仔を失って悲しみながらもカミ様は村人たちの行為を愛おしく想い、村にさらなる加護を与えてくれた。カミ様の元にいった子供たちも大切に育てられ、幸せに暮らした。めでたしめでたしと。
そうはならなかった。カミ様と人は違う。カミ様の元にいった子供たちは数年もすればその力に耐えられることなく、一人、また一人と死んでいった。死んだ子を想い悲しむカミ様は、彼らが死ねばその御力を出せなくなってしまう。だからカミ様から与えられた恩恵を忘れられない村人たちは、その加護を保つため定期的に子供をカミ様に献上するようになった。そしてカミ様から直接加護を受けた子供たちの骨を祠に祀り始め、より強固なソレを得ようとした。
だがカミ様は何度も子供を失うことで段々と狂い始めてしまった。自ら子供を得るため彼らを呼び始めた。神社で遊ぶただの子供や祭りで訪れる違う村の子供たちも見境なく呼んだ。そして集まった子たちを自分の子供として大切に大切にし、自分から離れようとするモノは執拗に痛めつけて死なせた。そんなカミ様の凶行を止める勇気など村人にはなく、カミ様はいつまでも子供たちを呼んでいる。カミ様の子になった子供たちも烏になって村人たちをいつまでも監視している。
「美空も……」
奈津さんはまた涙をこぼした。彼女は美空が呼ばれてしまっていることを知りながら何もできなかった自分を責めていた。反対に私は涙どころか何の感情も生まれてこなかった。感情という器官にぽっかりと大きな穴が開いていると、このときはそう思っただけだった。
「あの女の子もそうなんですか?」
私は気になっていることを尋ねた。あの女の子だけはカミ様、カカサマに怯えることなく本当の母親のようにあの存在を慕っていた。きっともっと幼い、それこそ生まれて間もなくカカサマの子になったのだろう。
「……知らない」
「え?」
だが返ってきた言葉は思っていたモノと違かった。
「知らないの、あの女の子だけは。白丑家には確かに献上された子供たちの記録はあるけど、どれだけ探してもあの子に一致するものはないの」
それが何を意味するのか、私は答えを知らないふりをした。
次の日、お母さんとお父さんが都内から駆け付けてきてくれた。子供のように泣きながら私を抱きしめるお母さんと、何も言わず私たちを抱きしめたお父さんの温かさを感じても私の感情は上手く出てこなかった。
九月に入ってから私は退院した。病院に運ばれるまでの経緯は奈津さんが教えてくれた。私は近くの木に落ちた雷に感電したらしい。鳥居のそばで倒れている私を奈津さんが見つけて、救急に連絡してくれた。幸いなことに即死は免れ、身体中にできたやけどが痛む程度の怪我だった。だが日が経つにつれ、やけどの痛みよりも右の手首に残った痣の方がつらくなった。
かあかあと烏の声が聞こえる度、山の影を見る度に、その痣は酷く疼いた。お母さんより暇だからとわざわざ講義を休んで私の傍にいてくれたお父さんがそれを見て、知り合いの霊能力者だという胡散臭いおばさんを連れてきた。
彼女曰くこの痣は相手の印で、これを辿って私を見つけようとしているのだという。数珠のようなブレスレットよりもスーパーのビニール袋が似合いそうな見た目に反して、おばさんの能力というものは本物だったらしい。お祓いのあとしばらくして痣と気味の悪い感覚は消え去った。包帯の取れた手首を見て、若い担当医はやっと退院の許可を出してくれた。
帰ってきた地元の町は、いつも通り何も変わることなく時間が流れていた。久しぶりの学校はまずお悔やみの言葉から始まった。美空は旅行先の事故で亡くなったと誰かが伝えたらしい。その頃には愛想笑いができるほどには回復していた。
お母さんとお父さんは離婚を白紙に戻した。美空を失って抜け殻にようになった私と自分たちを労わるため、「無くしてから大切なモノに気付いた」と模範的な回答をしながら。
そして奈津さんは三空洲村に戻ることなく、都内で私たちの家の近くに住み始めた。
「いいんですか? 帰らなくて」
「戻ったら……ううん、元々あの村が好きでいたわけじゃあないし、だったら兄さんみたいに家出しちゃおうかなって」
初めの言葉を濁し、奈津さんは冗談っぽく理由を言った。そしてすぐに崩した笑顔になると、「これからは憧れだったケーキ屋さんで働くの」と話を変えた。少し顔を赤らめて夢を語る奈津さんは少女のように可愛く、故郷と親を捨ててきたことによる悲壮感は全くなかった。
冬が終わりかけた頃、私たち家族はアメリカのニューヨークに行くことになった。お母さんが会社から海外赴任の辞令を受け取ったのだ。これを機にお父さんが皆でそっちに行きこうと提案した。「自分の仕事は良いの?」とお父さんの案を訝しがっても、お父さんは「自分の研究を止めて主夫になるんだ」と薄い胸を張って意見を変えようとはしない。その答えを聞いて、お母さんはそんなお父さんを面白そうに見つめている。向上心の高いお母さんもたまに立ち止まって、身近な幸せを見始めたようだった。
この計画に関して私は向こうの日本人学校に通うことになった。一人暮らしや奈津さんと一緒に住むことも私は考えていたが、お父さんやお母さんは一緒に来ることを願った。担任の先生にも根回しをして、いい経験だと私を後押しした。奈津さんも行ってきなさいと微笑んで送り出してくれた。
ニューヨークでの生活は日本とはやはり違った。日本人用の学校とはいえ、そのほかは全て英語である。そこまで英語が得意でない私は、日常会話を使えるようになることさえ四苦八苦していた。でもその一方で、やっと生きているような感情を取り戻し始めていた。その一番の理由は多分ニューヨークに烏がいないからだろう。この地は数年前に強力な感染病に見舞われ、烏がいなくなったのだという。もう祓ってもらったんだから大丈夫だと言っていても、何もかも見透かしているような烏の瞳は怖かった。その瞳がないだけで私の心の安定は保たれていた。ときおり山の方角を気にしたくなる気持ちも、高層ビル群の中では徐々に消えていった。
「なあ、ちょっと来てくれるかー?」
キッチンからお父さんの情けない声がした。主夫になるという大きな目標を立てたお父さんは、実はそれほど役に立っていない。長い間本と紙に向かって仕事をしていたお父さんに夕飯の知識はあっても、最新機器を装備したキッチンを操縦できる能力はなかった。
「はいはい、あとちょっと待って」
日本の番組を放送してくれるケーブルテレビを眺めながら、私はお父さんの声に生返事をした。よく美空と見ていたアニメは、今でも好きな物の一つだ。私にとってはお父さんの頼みよりも次回予告を見逃さない方が重要なのだ。
画面が楽しそうに掛け合いをするアニメの主人公たちから、すっきりと晴れた空と町に変わる。テレビ上で馴染みのアナウンサーの挨拶を聞きながら、私はソファーから立ち上がった。日本の主なニュースは大臣の問題発言と緊迫する近隣国との話で、頭の悪いことに私はあまり興味がない。お父さんの間延びした助けに応えるためダイニングテーブルの椅子に引っかけたエプロンを取ったとき、玄関からお母さんの「ただいま」という声が聞こえて来た。
「お母さーん、またお父さんがやらかした」
「またなの? 一体いくつ壊せば気が済むのよ」
仕事終わりでもスーツを着崩すことのないお母さんは呆れ顔でお父さんを見た。「壊してない、ちょっと故障しただけ」と違いを述べるお父さんに、お母さんだけ一喝して着替えのために部屋に戻った。
「壊してないって」
「はいはい、早くご飯作りましょうねー」
お父さんをからかいながら私はキッチンに入った。お父さんも項垂れながら付いて来る。
煙を上げている多機能レンジオーブンの操作パネルに手を伸ばし、そういえば部屋のテレビを消してこなかったと思い出した。見てないのなら消すというのはどこに行っても変わらない。リビングに戻り、テレビのリモコンをそれに向けた。だが懐かしい景色が映し出され、私は思わず手を止めてしまった。
『――次のニュースです。本日未明、世田谷区のマンションで女性の遺体が発見されました。遺体の状況から警察は他殺とみて、犯人の行方を追っています。……今朝午前四時頃、「隣の部屋で不審な物音がする」との通報を受け警察官が部屋に向かったところ、室内でこの部屋の住む白丑奈津さん、三十七歳が死亡しているのを発見しました。白丑さんの身体には数十か所の抉られたような不審な傷跡があり、室内もひどく荒らされていることから、警察は殺人事件として――』
かあーかあーと、どこかで烏が鳴いた気がした。
いないはずの烏が。私の大っ嫌いな美空が。
今も私を呼んでいる。