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■ 帳

 祠の前で人が! 女だ。神社のコじゃないか? 大変だ白丑さん! 神社のコが死んでる。死んでるんだよ! 祠も壊れて。これじゃあの――。


 意識が浮上した。花のような蛍光灯カバーでここが白丑家の居間であることは分かった。額から落ちかけたタオルはぬるく湿り、濡らされてからそれなりに時間が経っているらしいことがわかった。


「おねーちゃん、おきたの?」


 居間のテーブルでお絵かきをしていた美空が起きた私に気付いて抱き着いてきた。拙い彼女の説明を理解すれば、どうやら私は玄関で倒れていたらしい。それに気づいた美空が大泣きしたことで奈津さんたちを起こし、部屋まで運ばれた。だが急な集会が開かれたため、部屋から居間まで運ばれたらしい。私たちが借りている部屋は普段集会が行われる部屋の隣なので休むにはうるさいだろうと奈津さんが配慮してくれたという。


「おんなのひとがしんじゃったんだって」


 幼い口から発せられた「死」という言葉は軽く、物語の一文のようだ。子どもだから仕方ない。私だってまだ葬式に出たことはない。自分も同じような重さになってしまうのだろうに、私は美空の言葉にひどく苛ついた。


 くっついていた美空を引き離して、テーブルの上に載っていたグラスと麦茶の入ったポットを手に取った。半分氷の溶けた麦茶の味は薄かったが、冷たさの残ったそれは渇いたのどに丁度良い。ついでに美空のも注いであげると、彼女は私の隣にぺたんと座って麦茶を飲み始めた。


 しばらくして奈津さんがやって来た。朝から動き回ったのだろう、彼女の表情は心なしか疲れて見えた。


「もう驚いちゃったわ、玄関で倒れてるなんて。」


 私の体調を気にしてか、奈津さんの声は小さい。


「あの、亡くなったのって」

「神社にいた方よ。沙紀さんっていうんだけど、今朝、祠のところに倒れていたのを川島さんが見つけてね……」


 烏の羽にまみれていたそれを思い出した。倒れていた、なんて生易しい表現ではない。抉られていた、全身を。骨が傷つくくらい深く、執拗に彼女の身体は痛めつけられていた。見つかるのが遅かったらもう、残っていたのはぼろぼろになった骨ぐらいだろう。


「祠も」

「慣れないところにずっといて疲れたんでしょう? お母さんたちには連絡したから、もうすぐ帰れるわ」


 私の声を無視して奈津さんは口早に伝える。それ以上関わるなという彼女の拒絶の表情が私の目を射抜いた。それに口答えできるはずもなく、私は誤魔化すように麦茶を口に運んだ。


「もう、かえっちゃうの?」

「色々とここに置いておくのは難しいのよ」


 つまらなそうに美空が問い返した。彼女には新しくできた友達がいる。あの子と離れたくはないのだろう。そんな美空の懇願に応えることなく奈津さんは話を終わりにした。


「おねーちゃん、おそといこ」


 珍しいことに自分の提案をすぐに取り下げた美空が、次の案を出した。私もその案に賛成だ。


「もう大丈夫です。ご心配かけました」


 奈津さんが今日はいいわよと家での休息を勧めたが、やはり忙しい家に留まるのは気まずく断った。それでも勧めてくる奈津さんをすぐ戻るからと約束をつけて、私たちは外に出た。


 今朝の清々しさはとうに去り、いつも通りの暑さが訪れていた。出てきたのはいいが、行くあてはあまりない。とりあえず川にでも行こうかと美空を誘うと、彼女は首を振った。


「じんじゃがいい」


 美空が北の山を指した。昨日の祭りの装いとは全く違ううっそうとした木々。その中身を隙間から知ることは不可能で、逆に私の方が覗き込まれているような錯覚に陥る。


 あの女性は、沙紀さんはあそこから逃げ出したんだ。そんな考えが頭に浮かんだ。あそこに居る何かから逃げ出した沙紀さんは、追いかけてきたソレに。


「あそこは駄目」


 考えがまとまるよりも早く私は美空の言葉を突っぱねていた。言ってからあんなところには行きたくないという子供じみた考えが脳裏に浮かぶ。あの神社はこの村のどこよりも涼しく、暑い日中を過ごすには最適な場所だ。私もできれば神社に行きたい。でも神社を見ればその思いは霧散してしまう。昨夜の怯えた沙紀さんの顔と、今朝の地面に広がった髪がぐちゃぐちゃに混ざっていく。


 美空は何も反対してこなかった。それをいいことに私は神社とは反対側の川へと向かった。ただ川に行ってもそこでの遊びが大好きな彼女にしては表情の変化が極端に少なかった。


 その時から美空は一人で出歩くようになった。食器を洗っていたり、人に何かを頼まれ事をされたとき、彼女はふといなくなる。まるで私の意識が美空から外れるときを狙っているかのように正確で戸惑いがない。そこまでする理由は、私が遊び場に神社を選ばなくなったからだろう。新しい友達が大切な美空は彼女と遊ぶために一人で神社に行くことを覚えたのだ。


 自立性が養われたというのなら聞こえはいいが、何も言わずに出て行かれては困る。美空は出て行くとき私や奈津さんにそのことを伝えるどころか、メモ書きさえ残さず遊びに行く。ひとたび姿が見えなくなれば事件や事故という最悪の結果を予測してしまう。特に美空は好奇心を優先する子だから、危険を顧みず変な遊びにあの女の子を誘ってしまうかもしれない。


「あのねー、きょう、しりとりしてあそんだの!」


 美空の楽しそうな声が食卓に広がる。遊びに行った彼女はお昼や夕方にはひょっこりと帰ってくる。そして食事の準備の手伝いやその最中に今日何をして遊んだのか一生懸命に話してくれるのだ。とても充実しているような様子の美空を見て、彼女の行為を止めることはできない。定時で帰ってくるからいいかと楽天的に考えるしかなかった。


 だがそれは甘すぎた。すぐに美空の帰ってくる時間が遅くなってきたのだ。


 ある日夕食がテーブルに並んでも帰ってくる様子がなく、私は嫌々ながら神社まで迎えに行った。戻ろうとする足をどうにかして神社に向かうと、丁度神社の裏手から美空と女の子が出てきた。私の姿を認めると美空は女の子に手を振り、また振るという不思議な行動をして戻ってきた。他に誰かいる様子はないそれなのに何故二人分の挨拶をしたのか。美空の行動に頭をひねりながら来た道を戻り始めた。


「おゆうはんなぁに?」

「…………天ぷら」


 無言という暗黙のルールを破っていることに厭うことなく、ごく普通に美空は聞いてきた。少し考えるように黙り、二つ目の角を曲がってから私は口を開いた。短い間だが神社で喋るなというルールが身に付いた私は、未だにお社の近くで声を出すことができずにいた。差別的なことが実は効率的なことだったと思ってしまっている自分を若干の嫌味と安らぎを込めて笑った。


 夏休みもあと一週間を切った日、やっとお母さんから電話が来た。離婚調停の終わりと、「私が迎えに行くわ」という勝利宣言をするためにだ。奈津さんから連絡がいっていたというのに、お母さんはお父さんと別れることの方が大事だったらしい。もしくはお父さんがまだ長引くはずだった話し合いを自分が負けることで終わらせてくれたのかもしれない。


 だが、まだ最終的な手続きに時間がかかるから来るには二、三日かかるらしい。それまで一杯遊んで来なさい、というお母さんの声に私は曖昧に頷いた。


 電話を切ってから、私は自分の心が随分と変わっていることに気付いた。飽きたわけではない。自然をもっと満喫した。だけど、ここからはすぐに帰りたい。そんな気持ちが渦巻いている。


「みーちゃん、二、三日したらお母さん迎えに来るって。そろそろ帰る準備しないとね」


 電話は居間にあり、背後のテーブルでは美空がお昼の残り物を食べている。受話器を戻しながら私はこの話を美空に伝えた。


「……」

「みーちゃん?」


 だが彼女からの返事はない。また遊びに行ってしまったのかとため息を吐きながら振り返ると、しかし美空はそこにいた。


「みーちゃん、いるならちゃんとお返事しなさい」

「やだ、かえりたくない」


 拗ねた声で美空が言った。


「そんなこと言ったって、もうすぐ夏休み終わっちゃうんだよ? 学校だって始まるんだし」

「そんなの、おねーちゃんだけかえればいいじゃん」


 美空の機嫌は治ることなく、どんどんとそっぽを向いていく。私は美空と目線を合わせるためにしゃがんで、宥めるように彼女の頭に手を乗せた。


「向こうにだって友達いっぱいいるでしょ。新しい玩具だってあるし。そうだ冬休み! 冬休みもここに来よう。玩具とか本とかお菓子いっぱい持って。そうしたらあの子も喜ぶんじゃないかな?」

「やだ! みーちゃんかえらないもん! ずっとここにいるもんッ!」


 声を跳ね上げた美空は私の手を払うと、一目散に玄関へと走って行った。また神社へと行ったのだろう。


 呆然としながら振り払われた手を眺めた。そしてふつふつとよくわからない怒りが湧いてくる。「美空はまだ幼いんだ。友達と別れたくないことだってある」と自分に言い聞かせても、その苛立ちは収まらない。


「大きな声がしたけど、どうしたの?」


 台所で食事の後片付けをしていた奈津さんが驚いた様子でやって来た。


「なん、でもないです。帰りたくないっていう美空を宥めようとしたら逆に怒っちゃったみたいで」

「そう。お姉さんも大変ね。みーちゃん、すぐ帰ってくるといいけど」


 心配そうな顔で奈津さんが労ってくれる。私も「そうですね」と適当に頷いてから、笑顔で奈津さんの手伝いを申し出た。美空のお守りが必要なくなった最近は、奈津さんのお手伝いが主な仕事になっている。不安そうな顔を残したまま、奈津さんは私に洗った皿を戸棚に戻してほしいと頼んでくれた。


 夕方になっても美空が帰ってくる気配はなかった。自分たちの部屋で荷物の整理をしていた私はごろごろという音に気付き、開いた襖から空を見上げた。遠くの山に綿のような大きい雲がのしかかっている。また夕立がくるらしい。


「……迎えに行かなきゃ」


 理不尽な怒りはすでに収まっていた。それよりも美空の安全の方が大切だった。雨に濡れて風邪を引いたり、雷に怯えてしまって動けなくなってしまったりするのではないか。


 旅行鞄に入れようと畳んだ水遊び用のバスタオルを持ち出し、玄関に置いた。こうすればたとえ濡れて帰って来てもすぐに拭くことができる。


 門を抜けたとき、入道雲はその大きさと暗さを増し、村に迫ってきていた。雷雲の動きは速い。その雲に追い付かれないように私は走り出した。


 鳥居を抜け、いくつもの角を曲がる。気持ちが焦っているせいか、いつも以上に時間がかかる気がした。最後の坂に差しかかったとき、木々の隙間を抜けぽつりと雨粒が落ちてきた。葉を打つ音が次第と強くなる。神社に辿りつく頃には滝のような雨に変わっていた。


 雨の音を縫うように二つの声が微かに聞こえてきた。消えてしまいそうなその声を辿ると、神社の裏手から続いている。お社沿いに裏へと回ると、二人の女の子たちがこの土砂降りの中を楽しそうに舞っていた。水を吸って重たくなったはずのスカートや着物が柔らかな弧を描く。彼女たちの意思で動いているようなそれは、祭りのときの舞いように見ている者を離さない。


 光が走った。そしてすぐに音が落ちる。私の意識を開放するには十分すぎる量で、我に返った私は足早に二人へと近付いた。


 私を認識した美空はあからさまに顔を歪めた。どうやら美空は考えを改めることなく、ここに残りたいらしい。だがそんなこと許せるはずはない。子どもだっていつまでも遊んで暮らすだけというのは出来ないのだ。


「いーやーだーッ!」


 駄々をこねる美空の手を掴んで引き寄せようとして、鳥肌が立った。美空の雨に濡れた身体が思っていた以上に冷たかったからではない。何かが、何かを、私は拒絶していた。


 私は確認するように顔を上げ、そして気付いた。神社の裏には、山のさらに上の方に向かって伸びる長い渡り廊下があった。神社は手前の拝殿と、奥にある本殿に分かれているとお父さんに聞いたことがある。これはそれを繋ぐものなのだろう。ただこの廊下は人が使うために造られたものではない。山の斜面を這うそれは四十五度を超えていた。ただの人なら滑り落ちてしまう。


 廊下は全面を明り取りさえ造らず板で囲まれ、その上に大量の紙片が貼られていた。だがその厳重さは今や何の障害にもならない。剥がれかけた紙片は雨に打たれ溶けるように消え、度重なる雨で腐った板には穴が開いていた。


 寒さと気持ち悪さで息が苦しくなる。隙間からアレが見ている。これはアレの通り道だ。この神社に棲まうカミ様の。祭りの夜見た神降ろし役の。沙紀さんが狂うほど怯えていたカカサマの。


「……っ」


 隙間の向こう側のアレが動く気配がした。アレはゆっくりとした足取りでお社へと向かった。出てくる。外に出るためにアレはお社に向かっている。


 嫌がる美空を無理矢理引きずり、あの時の沙紀さんのように参道へと向かう。早く、早く逃げなくては。


「あソぼ、ねえあソボ、いッシょにアそぼ?」


 女の子がまとわりつく。しきりに美空を、そして私を遊びに誘おうとする。それに応えればどうなるか、考えなくても本能が悟る。女の子を無視して参道を下った。石造りの参道は川のように水が流れている。暴れる美空や甲高い声で考えを遮る女の子を連れて走るのは無理な状態だった。


 何度も道を折り返し進むたび、頭の上から絡みつくような寒さが付いて来る。どこまで行ってもどこまで下ってもそれは消えない。むしろ私がゆっくりと歩くことしかできないせいか、その気配は段々と近くなってきている。角に差しかかった。滑りそうになりながら早足でそこを通り過ぎる。アレを直接見てしまえば戻れはしないだろう。


 前に赤い鳥居が見えた。もうすぐ終わる。あそこを抜けて、すぐバス停に向かおう。最果てのバス停でもまだ最終便は来ていないはずだ。それに乗って、町に出て、コンビニでもどこでもずっと普通の人がいるところで夜を明かして。


「いやだ! かえる! おうちにかえる!」


 鳥居を見て、美空が変な言い訳をし始めた。家に帰るんだと必死に暴れる。喚き声は山の中にわんわんと木霊して煩い。それは私の苛立ちを増幅させた。言うことを聞かない彼女に私は振り返って、感情任せに怒鳴りつけた。


「いい加減にして美(、)空(、)ッ!!」


 かあーとどこかで烏が鳴いた。かあかあと周りの烏たちが嗤った。

 雨の帳の向こうで、女の子が笑った。無邪気ににっこりと、アレと同じくらい恐ろしい笑顔で。


「ミく? みく、美空、いっショにカエろ、おウちにかエろ? カカサマがしんぱイシちゃうヨ」


 なぞるように女の子が美空の名前を繰り返した。途端、美空の身体ががくんと重たくなった。否、引っ張られているのだ。いつの間にかすぐそこまで来ていたカカサマに。


「ひぃ」


 声が引き攣る。美空だけでなく私の右手もカカサマは捕まえた。そしてカカサマが笑った。カカサマはイタズラばかりする子供をしかるときのような笑みで私たちを見つめている。それは幼いとき見た母の顔に似た安心できる笑みのようで、いやに歪んでいた。


 かあかあかあ、かあかあかあ。


 音が落ちる。弾けた光に、私は笑った。

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