■ カカサマ祭り
お盆の祭りが始まった。「カカサマ祭り」というこの村の祭りはその筋では有名な祭りらしく、昼頃から観光客が集まり始めていた。それにともない出店も並び始め、にぎやかさは増している。夕方まで観光客は村の中心にたむろする。神社でカカサマ祭りの本祭が始まるのが夜からなのと、露店が神社ではなく村の通りに立ち並ぶからだ。「三空洲神社で言葉を発してはいけない」というルールは村の外にも広がっているらしかった。
「みーちゃん、何個目よ、そのかき氷」
「みっつめ!」
赤く染まったかき氷を手にした美空が嬉しそうに答えた。美空は毎回お祭りでかき氷を頼む。そのくせいつも後でお腹を壊すのだ。初めて見るカカサマ祭りの雰囲気を満喫してしまっていた私は、彼女の手綱を持つことをすっかり忘れていた。お金は渡していないが、買ってくると言ったら何を買うのか聞かずに渡してしていたのだ。
「もうそれくらいにしなさい。メインのイベント見られなくなっちゃうよ」
「はーい」
反省していない声で美空が返事をした。ため息を吐きながら私は美空を連れて道端に造られた休憩所に向かった。私の手には美空の悪食に気付かせてくれた広島焼きと焼きそばが入った袋が下がっていた。もう少ししたら神社で本当の祭りが始まる時間だ。祭りが始まる前に夕食をしておきたかった。聞けば本祭がそれなりに長い時間がかかって、終わることには露店も片付いてしまうらしい。
美空とそれぞれ半分個しながら夕食を終える。三つのかき氷を食べたというのに彼女の食欲は衰えることなく、ぺろりと自分の分を食べてしまった。物欲しそうにしていたので私の分のお好み焼きをあげると美空は嬉しそうに食べ始めた。かなり少なくなってしまったが、暑さで食欲がなくなっている私には丁度いい量だった。
あの夕立以降適度な雨が降るようになって涼しくなるとはいえ、昼間のむっとした空気がなくなるわけではない。都内の自宅ではクーラー三昧だった私にはこの暑さはそれなりに堪えるようだった。
午後六時を伝える童謡が村の中心にある古いスピーカーからきーきーと流れると、人々がぞろぞろと神社に向かって歩き出した。この曲は今日に限ってカカサマ祭りを始める合図になっていた。
私たちもその人の流れに乗って神社に向かう。この人の多さはなんだか帰宅ラッシュを思い出してしまう。この村はここに住む人のためにつくられた場所で、こんなにも大勢の人が通ることは想定していなかった。食べ残しをつつきに来そうな烏たちも人の多さに驚いたようで、木の上で様子を窺っていた。
人の渋滞に巻き込まれた私たちが神社に辿りついた時はもうすでに祭りが始まっていた。神へと捧げる供物などはすでに並べられていて、後は舞いの奉納だけのはずだ。
それに対して、神社の境内は今までの喧騒が嘘だったかのように静まり返っていた。彼らはただ息をひそめてお社の前に出来た舞台を見つめている。舞台には五人、軽やかな衣に身を包んだ三人の舞い手と厳かな着物をまとった神職が二人。お社の内部では上座に置かれた簾の奥に神降ろし役と、手前にその補助をする人が座っている。役割は全く違う、なのに統一された黒色の着物が人々に不思議な緊張感を抱かせていた。
────しゃん、と手前にいた舞い手が鈴を鳴らした。しゃんしゃん、と二人の舞い手がそれに答える。小さい音だが、それは確実に人々と空間を支配した。
場の緊張をさらに高めるかのように神職が祝詞を唱え始める。いつもは存在しない声。低音で紡がれる古体の言葉はいやおうに私たちの意識を引っ張り、意識を舞台に集中させた。
そして唐突に緊張は弾けさせられる。低い音を必死になって拾っていた鼓膜を酷い耳鳴りにも似た鈴の音色が突き破った。
舞いは一節ごとに激しさを増す。子供同士がふざけ合っているようにも見える法則性のない踊りだ。一方で祝詞は途切れることも速度が変わることもなく淡々と続けられている。
段々とちぐはぐになっていく舞いと祝詞。しかしそれに異を唱えるような者はいない。皆それに魅入っていた。
舞いの終わりは始まりと同じように静かな鈴の音だ。誰もが夢から覚めたようなぼぅっとした表情をしている。奉納の舞いは何時間のようにも一瞬のようにも感じられた。腕時計を見ると八時半を回っている。ここに着いたのは七時過ぎくらいだったはずで、一時間半強、彼らは舞い続けていた。途中で休憩があったかもしれないが、その記憶は曖昧だった。
祭りが終わり、人々は帰り始めた。奈津さんにも祭りが終わったら早く帰ってくるように言われている。私たちも帰ろうと美空の手を引くと、彼女は境内の奥にあるトイレを指差した。今になってお腹が痛くなってきたらしい。家まで待てないと訴える美空に負け、私たちは人々の流れに逆らって歩き出した。
トイレに入った美空を待つ間、私はお社を眺めていた。まだあの舞いの余韻が残っていて、ひどく浮ついていた。頭の中で舞いを再生しようとしていたが、私はそういえばと他のことを思い出した。
遊び場となったこの神社の平屋に住む人たちと私たちは、話はしないものの会釈する程度の顔見知りにはなった。例外はあの女の子で、彼女とは会えば一緒に遊ぶようになった。できるのは簡単な鬼ごっこや地面に絵を描いたりしてできるものだけだが、それでも美空は新しい友達と遊べるだけで楽しいらしかった。彼女を除く残りの六人は皆私より年上そうで、この静かな遊びに参加することはなかった。
舞い手の中に女の子がいたことは分かった。遠かったが雰囲気でいつか美空の手当をしてくれた女性が神降ろし役の付添いをしているのはわかった。他の人たちもそれぞれの役目を遵守していた。ただ気になる点が一つ、美空が転んだと伝えてくれたあの男性は神職でもましてや舞い手にもいなかった。そうなると残りは神降ろし役なのだが、そこが引っかかる。一般的に神降ろしは巫女がやるもので、男性がするものではない。確か前にお父さんがどこかのお祭りに行った時にそんなことを言っていた。本当は女性だった、いや内に秘められたすごい力を持っているなど彼が神降ろしになりうる可能性を探したがどれもぴんとこない。
考えを巡らせながら私は美空の帰りを待った。だが一向に戻ってくる気配はない。心配になってトイレに入ってみると、全て個室のドアは開いている。念のため男子トイレの方もちらりと確認してみたが、美空がいそうな雰囲気はない。
「迷子」という不吉な単語が頭に浮かぶ。この暗さで迷子になられたら簡単には見つけ出せず、最悪美空が山の中に入って行ってしまうことも考えられる。注意深く待っていなかった自分を恥じ、どうしようかと悩む。露店が立ち並ぶあたりには一応警備関係のテントが見えたが、今も残っているかはわからない。それにそこまで行くのに時間がかかる。なら神社にいるあの人たちにまずは伝えた方がいい。
どう伝えるかを悩みながらお社に急ぐ。彼らはそこで後片付けをしているはずだった。あとはお社の階段を上るだけといったとき、私は違和感を覚えた。しゃべり声がする。子供たちが内緒話をするような小さな声がお社の中から聞こえてきた。
もしやと思って私は階段を急いで上がった。案の定、お社の中では美空とあの女の子が楽しそうに笑い合っている。
「あ、おねーちゃん!」
「オねえちャん?」
私に気付いた美空が手を振ってきた。つられて女の子もこちらを向いた。話さないことが常識であるこの神社に住んでいるからか、初めて聞いた女の子の声は不安定で、鳥が人の言葉を真似たような妙な発音だった。それよりもここで話しているということにショックを受けた私は自分も言葉を出しかけて、止まった。何度も何度も言葉や仕草で伝えられた決まり事は、糸と針のように私の口を噤ませた。
「カカサマがしゃべっていいっていったの。ね?」
一向に喋らない私に業を煮やしたのか美空がいまだ垂れさがる簾に振り返って言った。違う、問いかけたのだ。簾の奥にまだ神下ろしが座っていた。美空の問いに息を吐いたような声で神下ろしは答えた。それを同意と受け取った美空は嬉しそうににこにことしている。呼吸のような音と簾に遮られた姿では神降ろしが見かけなかった男性なのか確信を持てなかった。
「だからね、おねーちゃんも――」
私の背後で何かが落ちた。音に驚いて振り向くと階段の数段後ろにあの女性が立っている。彼女の足元に転がっている箒は自分の重さを支えながら縁でふらふらしていた。
落ちそうだと思ったとき、女性は下駄のままお社に侵入した。かつっかつっというお社の床木と下駄の歯が激しく打ち合う音が耳を突く。いつもは優しいお姉さんの豹変した怖い姿に驚いて固まっている美空を彼女は抱き上げると、私の手も引いて走り出した。神前だというのに最低限の礼儀さえない。なりふり構わず私たちを参道へと導いていった。
整えられた石畳を蹴る私たちの足音が山に反響もせず、闇に溶けた。この騒ぎに気付いているはずの獣たちも息をひそめ様子を窺っていた。ただ眠りを邪魔された烏たちだけが抗議するようにがーがー鳴いていた。その間女性は一度も止まらず、また私たちを離そうとはしなかった。
鳥居まで着くと、女性は抱いていた美空を地面に降ろした。そして強く私たちの背を押す。訳が分からず女性を見ると、彼女はしっしっと手を払って私たちを追い立てた。彼女の大げさな拒絶に気圧された私は、嫌がる美空を連れ家へと走り出した。月明かりの元で見えた女性の表情は引きつり、何かに怯えているようだった。
次の日の明け方、村を強い雷雨が通り過ぎていった。あの女性のことを思い出し、中々寝付けなかった私の頭はその音で完全に覚めてしまった。文机の上に置いてある時計は四時半という、起きるにはまだ早い時間を差している。だが仕方なく布団から抜け出した。籠った空気が息苦しく、私はまだ寝ている美空を起こさないように外向きの襖を開けた。
外はもう薄明るくなってきている。夜の蒸し暑さは雨に流されたようで空気は軽かった。その空気をおいしく感じて深呼吸をすると、大きな影が視界に入った。空を二つに裂くような黒い影。
それは鳥の集合体だ。何十匹もの烏が天を舞っている。
気味が悪い。だが高い塀に遮られたその根元を見て見たいと思うのは自然な感情だろうか? すぐ戻るという言い訳を心の中でしながら玄関に向かった。自分の靴を見つけ、踵を踏みながら引き戸を開けた。
水たまりを避けて門に辿りつく。水分を吸い込んだ門扉は随分と重たかったが、何とか押し開けた。開けた先に見えるのは部屋から見えた烏の帯だ。それは道の真っ直ぐ先、村の入り口辺りから揺らいでいる。丁度新しくなった祠と同じくらいの位置。思ったよりも近くにある。根元を知りたかっただけの好奇心はいやおうに膨らんでいく。気が付くと私はぬかるんだ道を歩いていた。
普段は開いている家々の玄関や窓もこの時間は固く閉じられていた。農村は早起きだと思っていたが、それは勝手な思い込みだったらしい。この村には夜明けの静けさが漂っていた。
一羽の烏が風を切って私の横を通り過ぎた。はたと気付く。静かだ。ぬちゃぬちゃという足音でさえ大きいような気がするほど静かだ。あれほどの烏が飛んでいるというのに。
進めていた足の向きを百八十度変えた。この先に行ってはいけない。行ったら帰れなくなる。
誘うような烏の踊りを無視して私は駆け出した。目の端を掠めたしなやかな黒と猟奇的な赤い色が頭の中から離れなかった。