■ 神社
この村に来て一週間が経った。
到着した次の日から美空は熱を出して寝込んでしまった。元気に見えても日頃の疲れは溜まっていたらしく、時々悪い夢でも見ているのかうなされていた。真夜中の夫婦喧嘩は幼子の睡眠を削り、また不安を助長させるのだ。
楽しみにしていた村の探索も美空が治るまでお預けだった。奈津さんや仲良くなったおばあちゃんたちは「見るところなんてないわよ」と笑うが、都会育ちの私たちにしたら山自体が珍しい。しかもここの山の大半は人の手入れがされていない原生林だと聞いていた。学校の行事や幼い頃に行った家族旅行でも体験したことのない風景。何もないという人はいるだろうが、私にはそれだけでも価値がある。それに私と美空は旅番組が好きだ。事情は何であれ、こんな遠出ができ、しかも自由に見て回れるというのはそれだけでわくわくと楽しい目的にすることができたのだ。
近くに目当ての物があるのにただ家の中にいるのはつまらなかった。だがおかげで私の夏休みの宿題は終わってしまった。大学付属でエスカレーター式に進学できる高校に入学したとしても、案外夏休みの宿題は多い。遊びほうけて最終日に泣きを見ることを予測していた私には嬉しい誤算であったのかもしれない。
「つぎはこっち!」
完全回復した美空は朝から白丑家の中を探検していた。まるで、動けなかった一週間をたった数時間しかない午前中で終わらせようとしているように、せわしなく動いている。
それだけここは探検のしがいがあった。白丑家の屋敷は随分と広い。バス停の辺りから見たこの家は大きなコの字型になっていて、村にある他の家より一回りもふた回りも大きかった。奈津さんに聞いた話では白丑家はこの村の長的な役割をしているのだという。
だがこの屋敷に堅苦しさや重みのようなものは全くない。初めてこの村にやってきておどおどと玄関の敷居を跨いだ一週間前が嘘のように、優しく、懐かしく私たちを包んでくれていた。
私たちにあてがわれた部屋は白丑家の中でも上等な客室で、コの字の左下の部分にあった。どの部屋も襖で仕切られた昔ながらの造りで、襖が開いている部屋は好きに使っていいわよと言われていた。
探険はまず客室の近くから始まった。右へと向かうと二つ部屋があり、さらにその隣は靴を脱ぐ場所と部屋が合体したような玄関が現れる。玄関の右隣にはもう一つ部屋と土間がある。コの縦棒の部分はその土間と四つくらいの部屋が整然と並んでいた。土間と部屋の間にある板張り廊下を奥まで進むと、次に左手側に奈津さんやおばあちゃんたちが使っている部屋、右手側には階段が現れる。奈津さんたちの部屋は閉め切られているので、入ってはいけない。探険隊のリーダーである美空はくるりとターンを決めると、急な階段をものともせず上がって行った。
美空に続いて上がった二階は梁に板を渡しただけの簡単な床だった。その上には多くの物が乗っている。かつて蚕を育てていたという二階は、今は物置として使っているらしい。重量オーバーを示す弧を描いた床の上を美空は気にすることなく歩いて行った。情けないことに美空が鳴らすみしみしという音におびえてしまった私は、階段付近のいくらかしっかりした床で美空を見守るしかできなかった。
二階での探索はお昼まで続いた。二階には美空が見たことのない古い道具がたくさんあって、飽きなかったのだろう。明り取りの大きな窓から入って来た烏が美空を見て不思議そうに首を傾げていた。
「二人ともー、お昼よー」
いつ床が抜けるか心配していた私にとって、下から響いた奈津さんの声は救世主だった。ご飯と聞いて美空はあっという間に階段を下りて行った。私は一歩一歩安全を確かめながらゆっくりと下りる。居間として使われている曲がり角に面した部屋に入れば、美空はもう自分のお椀にご飯を盛りつけていた。
山菜たっぷりのお昼ご飯を食べ終わったあと、美空は外を目指した。キャラ物の水筒に帽子、ハンカチを持った美空は意気揚々と玄関に降りる。家の中だけでも見どころはあるが、やはり元から楽しみにしていた大自然の中は心持が違うのだろう。私もわくわくと美空の後に続いた。空には雲一つない空が広がっていい天気だった。
だがそう思ったのも初めだけだった。門を出て南西側の田んぼを歩いているうちには気分は変わってしまった。谷底の空気はどんよりと重く、私たちの身体にまとわりつくように沈んでいた。濃い湿気が暑さを取り込み、立っているだけでも汗は止まることなくこぼれ落ちていった。田んぼで揺れる稲たちも心なしか萎れていた。変わりに青々としているのは濡れた地面に張り付いた水草で、稲を侵食するかのごとく繁栄している。
南西の中州は田んぼだけで暑さを凌げる場所はなかった。途中にいくつかあった祠の周りに少し木々がありはしたが、人が涼めるくらいではない。特に村の入り口に近い祠の付近は立ち枯れのようにくすんでいた。
「おねーちゃん、アイスー!」
「はいはい、一つだけだからね」
苦行のような行程が終わり村に唯一ある店、川島商店に近付いた時、美空が軒下にあるアイスケースを指差した。昭和の風景にありそうなそのアイスケースは億劫そうな音を立てている。
私の同意を得た美空がアイスケースの蓋を伸びをして開けようとするが、ほんの少し手が届かなかった。必死に開けようとする美空の頭を撫でて、私は代わりに取手を掴んだ。動きの悪い蓋を力任せに引くと、中から冷たい空気が溢れてきた。だが冷気はあっという間に生温くなり、立った鳥肌も場違いを恥じるように消えた。
「みーちゃん、何するの?」
「……んー、みーちゃんはこれ!」
美空は袋に氷がついたスイカ型のアイスを選んだ。私もソーダ味のアイスを選び、ついでに店内の冷蔵庫から大きめなペットボトルのお茶も買った。二人とも水筒は持ってきてあったのだが、この暑さのせいでもう半分以上なくなっている。この中を飲み物なしで歩くより、多少重くなってもあった方が良いだろう。
ケースの隣に設置してあるベンチに座ってアイスを食べる。溶けて柔らかくなってもその冷たさは変わらない。ほんの数分で食べきってしまった私たちは、またオアシスを出て歩き始めた。この後は三空洲神社という所に行くつもりだ。神社に行く正式な道は二つだけで、あとはとても細い畦道だけだった。ヒルがいるというその畦道に好奇心旺盛な美空を連れて行ってはいけない。ほんの少し遠回りになるが商店の横を通る広い道を行くことにした。もう一つは村の北側で白丑家に近い位置にあった。それは神社からの帰り道に使うだろう。
日陰のない道をたらたらと歩く。視線の低い美空は様々な植物や生き物を見つけてはしゃいでいるが、私にその元気はない。ただ少し風が出て来てくれたお蔭でさっきよりは幾分ましな心地になった。
「神社に行くんかい? 気ぃつけなあ」
野良仕事をしていたおじいさんが、だるそうに歩く私たちを気にかけて声をかけてくれた。おじいさんに笑って礼を言いながら、また暑い道を進む。
三十分ほど歩いて、神社の入り口に辿り着いた。神社は中州ではなく山の中にあるので橋を渡る。山側には赤い大きな鳥居が佇んでいた。それをくぐると参道は大きく左に、北の山の方に曲がっていた。神社は東と北の山の谷間にちょこんとあると思っていた私は、それを見て少しため息を吐きたくなった。なぜなら参道は長く、その上坂道だからだ。少し上に視線を向ければ、さらに道が続いている。これでは山の中をぐるぐる歩かされるのかもしれない。
少し休んでから行こうと美空に声をかけようとしたが、すでに遅かった。
「ちょっと、みーちゃん待って!」
気付けば美空は楽しそうに参道を登り始めていた。慌てて追いかけるも差は一向に縮まらない。むしろ元気だけがあってそんなに荷物も持ってない美空の方は駆け上がるように参道を行く。
長い坂道だ。それに途中で折り返しながら上へと登って行くので、たまに美空の姿が視界から消える。それが不安を掻き立て、私は無意識の内に早足になっていた。しまいには走り出してしまう。
やっと建物らしきものが見えてきた。商店から神社の入り口まで歩いたよりも時間が掛かったような気がする。最後の力を振り絞って駆け上がると、ぱっと視界が開けた。神社のお社に小さな平屋の家、手を洗う水源、隅に隠されたお手洗いと、家の近くにあった神社よりも整えられている。
「っ、みーちゃん!」
だが近くに美空の姿はない。崖、獣……。奈津さんに言われた危険な物が頭をよぎる。
「みーちゃ……っ!?」
美空を探すため走り出そうとした私の肩にひたりと冷たい物が触れた。思わず振り返ると黒い影がいた。いや人間だ。真っ黒な着物を着た黒髪の男性がそこに立っていた。
「な、何です――」
「……」
男性は人差し指を自分の唇に当てた。その仕草に私ははっとして口を閉じた。「神社、またはそこの人と話すな」という奈津さんの言葉を思い出したのだ。男性はこの神社の人なのだろう。彼は神主や時代劇に出てくる人と同じような格好をしていた。
「神社、またはそこの人と話すな」というルールは本人たちも了承していることらしい。ならいいかとそのルールに従った私は、口を閉じたまま首を傾げた。そうすると男性は私の脇を抜けて平屋の家の方へ歩き出した。少し行って振り向いてくるのでついて来いと言っているようだった。頷いてから男性と共に平屋に着くと、玄関に座って女の人に介抱されている美空がいた。彼女は膝を擦りむいていて、どうやら登ってくる間か境内に着いた時に転んでしまったらしい。擦りむいた痛みのせいか染みる消毒液のせいか美空は泣きそうな顔をしている。美空の名前を呼ぼうとして、押し黙った。口を開こうとすれば男性だけでなく、美空の手当をしていた女性までこちらを見てくる。私に気付いた美空が声を上げようすれば今度はそちらを向く。執拗なその行為は規範を通り越して独裁の為の抑圧みたいだった。
女性に頭を下げた美空は珍しく黙って私の元に駆け寄ってきた。私も女性に頭を下げた。女性はゆったりと腰を折って礼を返す。さらさらと流れる長くつややかな髪と泣きぼくろ、しなやかな指先までの動きは、彼女に優雅さと色香を与えていた。女性も男の衣に似た服装で、これらが神社の制服みたいな物なのだろうと思った。
何をしようか戸惑った私は、もう一度二人に礼をして平屋を出た。独特の雰囲気に世間話のネタは出てこない。そもそもこの神社という空間では話してはいけないのだ。
私と美空は黙ったまま神社のお社に参拝した。美空ががらがらと鳴らした鈴の音が思った以上に響く。眠っていた赤ちゃんを起こしてしまったようなきまりの悪さを感じ、私は少し抑え目に鈴を振った。
お参りを終え、他に見る場所もないから帰ろうかと踵を返した。
幼い女の子がいた。
美空と同じくらいの年齢だろうその女の子は不思議そうな顔で私たちを眺めていた。一体いつからそこにいたのか。足音はしなかった。
一瞬の驚きが過ぎると、私は普通に女の子を見た。まず服は平屋にいる人たちを同じような物で、彼女もまたこの神社の住人だということがわかる。肩口で切りそろえられた髪には濡れた木の葉が張り付いている。見れば服のあちこちにも草や泥が付いていて、もしかしたら山の中で遊んでいたのかもしれない。
目ざとい美空は彼女が大自然の中で遊んでいることに気付き、顔をほころばせた。簡単に友達をつくれる美空は早速その女の子と友達になろうとする。だが女の子は近付いてきた美空に驚いて一目散に平屋へと逃げてしまった。
悲しそうな顔をして見上げてくる美空の頭を撫でた。夏休みの間中、私たちはこの村に滞在するつもりだ。これからゆっくり友達になっていけばいい。そう美空の耳元で小さく囁いて、私たちは家へ帰るために歩き出した。
神社の鳥居を抜け橋の上に出た時、むわっとした暑さが押し寄せてきた。
「じんじゃ、さむかったね」
自分の声を思い出した美空がぽつりと呟いた。同意するかのようにかあと烏が鳴いて飛び去った。