春の日の過ごし方(あるいは美味しい餃子の食べ方)
餃子が美味しい。本当に美味しいと思う。あれほどの料理は他にはない。それぐらいに美味しい。
白く薄い雲が遠い空に寝そべっている。窓から見えるこじんまりとした公園の梅の花はおもちゃを待ち侘びた子供の顔で咲き誇る。「春は近い」とテレビの気象予報士が言っていた、僕もそう思う。春は近い。
それでもやっぱり12月から2月に掛けてある程度のレベルで忙しかったせいか、少しだけ本当に少しだけ3月に入ってから億劫な心持ちでいる。
やっと一段落した大きな仕事に少し寂しくなりながらも僕は2週間程の休暇を取った。
普通の人(それは日本の文化観を何の疑いもなく自明として受け入れている人たち、悪いとか良いとかはここでは全く関係のない話)ならば12月31日が終われば、ごく淡々と新年が訪れる、誰にでも平等に。でも僕にとって新年を受け入れるのは春の始まりたる4月1日からで、つまり世間では新学期が始まる時期に当たる。
12月31日を決して否定するわけではないけれど、僕にとっては3月31日が大晦日だった。だからこの時期になると決まって休暇を取る。みんなが年末に休暇を取るように。
そして今年も去年と同じように3月31日は来た。そのしっかりした足並みで、遅くもなく早くもなく。
何て事はしない。朝からくるりの「ハイウェイ」を聴きながらオムライスを作った。上京して来た時からずっと使ってるCDプレーヤーで聴く「ハイウェイ」は久々で、少しだけ上手にオムライスを作れた気がした。
そうしてそれを食べてる内に薄いブルーのスマートフォンに連絡が映った。9時52分だった。
『お久しぶりです。急で申し訳ないのですが、本日は空いていますか。葵』
去年の10月に忙しくなるから連絡は出来そうにないと一通入れてから放ったらかしにしていた事をその時に思い出した。
『お久しぶりです、連絡を微塵も入れずにすみませんでした。今日はずっと空いています。まるで高円寺の古本屋です。』
『それは良かったです。良い本が見つかりそう。14時に神保町の慶文堂で落ち合いましょう。お待ちしてます。葵』
数年前に仕事の関係で出会ってから良く会うようになった桝水葵は出版社の編集長だった。女性があまり得意でない僕が唯一彼女とは自然体で接していられた。
僕らは多分付き合っている。そのあたりは極めて曖昧なのだけれど、彼女はそれをあまり不快に思っていない様子で、それならと僕も曖昧にしていた。
何はともあれ14時に大事な用事ができた僕はクローゼットから白いフランネルシャツを出してアイロンをかける事にした。
僕はアイロンをかける事が好きだった。正しい手順を踏んで、シャツのあるべき姿に暖かく戻すその作業は僕にカンガルーの子供が親の育児嚢に入った時の様な安心感を与えた。
それから僕はアイロンをかけながら色んな事を考える。仕事の事、近所にいる二匹の野良猫の事、お昼ご飯の事、桝水葵の事。そしてそのどれもが僕にとってとても大切な事で代替えの効かないものたちだった。
アイロンを無事にかけ終えると、灰色のスラックスパンツを履き、薄い紺色のジャケットを羽織って家を出た。
外は良く熟したオレンジの実みたいに晴れている。少しだけ冷えた風を手先で感じながら、春を覚えた。
半蔵門線の人はまばらでひっそりと落ち着いていた。
向かいの親子はまるでこの世界の秘密を話している様で無駄に微笑ましい、右斜め前の大学生はウトウトしてる。この電車に乗る一人一人にかけがえのない世界観と物語がある、そう思うと僕も少しだけ眠たくなって来た。
神保町に着くと、また一層深く春の匂いがした。
ここが東京だという事を忘れてしまうくらいに濃厚な匂い。
カフェ・ティシャーニにはいつも通りビル・エヴァンスの「マイ・フーリッシュ・ハート」が流れていた。
僕はコーヒーを頼むと、それを確かに耳に残しながら微睡んだ。この曲を聴くと僕は決まって「愚かなり我が心」を思い出した、1949年のあの映画はサリンジャーが原作とは思えない程つまらないものだったけど、その分主題歌だった「マイ・フーリッシュ・ハート」が良い加減に良かった。コーヒーの苦味とミルクの甘さが均衡を保つように。
約束した14:00に慶文堂へ行くと彼女はもうそこに居て、いわゆる真剣な顔で何冊かの本を選んでいた。
「葵さん」
と声を掛けると、薄く微笑みながら、
「知之さん」
と彼女も薄く微笑んだ。14時06分。
彼女は4冊、小説を買うと、随分満足そうな顔で僕にもう一度微笑んだ。
「今日は、村上春樹の「ノルウェイの森」と桜木紫乃の「蛇行する月」、渡辺淳一の「阿寒に果つ」を買いました。」
「葵さんは「ノルウェイの森」はお持ちではなかったんですか?」
「いえ、持ってはいるのですが、やはり良い本なので何冊も欲しくなってしまいます」
出会った頃小説をあまり読まない僕は彼女が読書(とその蒐集)に対して行う行為をとても不思議だと思ったけど、今ではまぁそれもそうかなんて事を思うようになった。今回もそれもそうかと思った。
それから僕らは古書店の大通りを歩きながら会えなかった数ヶ月の間を埋めるように色々な事を話し始めた。
彼女もやはり仕事の方が忙しくて、年末(この場合は12月31日の周辺)は出版社のパーティーにひっぱりだこだったらしかった。
話しながら歩いている時に気付いた事が二つあった。
一つは彼女の髪が随分と長く伸びた事、もう一つはどこか彼女が翳りにある妖艶さを身に纏っている事だった。それは数年間一緒にいたどの場面にも無い新しい場面だった。
そのうちに暗くなった神保町で夕飯でも食べようと外れのとある餃子屋に入った。
席に着いてから生ビールと餃子8個を2皿頼んだ。
「餃子で良かったですか?」
「私は餃子が好きです。スコティッシュフォールドぐらいには好きです。だから大丈夫ですよ。」
僕はホッとした。僕もスコティッシュフォールドは好きだ。
餃子と生ビールが運ばれてくるとほとんど反射的にお腹が空腹を鳴らした。こういうお店の良いところは手作りが数秒で卓に出されるところだ。生ビールを呑んだ後で餃子に手を付ける。
何も付けずに食べてもいいし、醤油を付けて食べてもいいし、つまりは僕らはある意味では自由な状態にあるわけだといえる。
「醤油、付けるんですね。」
髪をまとめた彼女が生ビールを吞みながら聞いた。
「付けずに食べるのも好きですけど、やっぱり僕は何か、それは醤油じゃなくても良いんですけど、付けて食べる方が好きです。」
「それはとても良い事だと思います。私は少し前まで何も付けずに餃子を食べていて、むしろ何かを付けて食べている人に少し幻滅すらしていたんですが、ポン酢と醤油を混ぜたものを付けて食べる機会があってその時からもう私も、調味料を付ける食べ方を肯定するようになりました。」
僕はまたホッとした。しかし。
一人一人にかけがえのない世界観と物語があるように春の過ごし方にも、あるいは餃子の美味しい食べ方にもかけがえのないものがあるのかもしれないし、彼女が翳りにある妖艶さを得たのはその事に気が付いたからなのかもしれない。
食べ終わった後で彼女と神保町へ歩いている間そんな事を考えていた。
大晦日が終わる。その時僕は東北沢のラブホテルに居た。そして隣で寝息を立てる彼女はやっぱり薄く微笑んでいた。
何も考えずに書き出したものがここまでラフになられるとかえって申し訳なくなってしまう。ゆきのまち幻想文学賞駄目でした。




