蒼の災禍が遺したものは
*「敵討ちで終わった恋の、転生によるやり直し」を自分も書いてみるかと思った結果。
胸に広がる灼熱に、自分が自分でなくなったこと、自分が正気に戻ったことを、思い出した。
目の前で揺れる、金茶の髪。
麦わらのようだと愚痴るのに、別いいではないかと返した。
麦がたわわに実れば、美味いパンが食える、と。
「――どうして」
細い声。
ああ、最近は調子が良いのでは、なかったのか。
「どうして、みんなを、殺したの」
――ああ、また、自分は誰かを。
「分からない」
返答と共に、口から、ごぽりと鮮血が溢れた。
自分が何かを、男は知らない。
もしかしたら、知っていたかもしれない。
だが、気が遠くなるほどの時間と、時折訪れる記憶の断絶のせいで、握りしめていたかもしれないものは、千々に砕けて、取り戻せないままだ。
ただ、男が甚大な力を有していることと、気が付けば、何もかもを破壊しつくしてしまっていることが、事実で。
――《蒼の災禍》。
世界の全てが忌み嫌うものの名が、自分のものであることだけは、何度、自分が自分でなくなったとしても、覚えていた。
別に、殺したいわけではないし、壊したいわけでもない。
でも、自分が自分でなくなった時、――記憶が断絶した時、何を思って、何をしたのか、自分でも分からないし、自分でも制御できない。
そんなものなど、周囲にとっては害悪に他ならないし、実際に、死んでしまえと言われたことも、男を殺そうとした人間も、数えるのも馬鹿らしいほどだ。
それでも、生き続けてきたのは。
――死ねない、と、どこかで落とした記憶が、囁き続けてきたからというだけで。
もう、いいだろうかと、金茶の頭を撫でた。
これで終わるなら、悪くはない。
自分を見上げる青い瞳は、脆く、壊れそうなものだった。
道端で転がっていたところを発見されてから、何故だか自分に寄り添ってきた少女。
帰る場所がないと、肺の病で長くはないと、語っていた。
生ける災厄の傍らに在っても、何も良いことは無いというのに。
彼女が、帰る場所を壊した相手への復讐を、望んでいたことなど、ついさっきまで気付かなかった自分もたいがいだ。
記憶にないことを謝っても、単なる欺瞞に過ぎないし、謝ったところで、彼女が喪ったものを返すことはできない。
だから。
これは、自分の身勝手で、自己満足の産物だ。
「――、これからは、幸せにな――……」
そっと寄せた唇は柔らかく、鉄錆に似た血の味がした。
ほんの少しだけ千切った力の欠片を吹き込んで、抱きしめる。
もう、護ることも、傍にいることもできない。
「会えて、良かった――」
自分が、彼女の幸いではなくても、自分の幸いは、確かに彼女だった。
全てが遠くなる中、抱きしめ返す腕は、己の願望が作り出した、ささやかな幻だったのか……。
◆◆◆
「――いや、正直すまんかったな、《蛇》」
『――軽すぎるわ、《神裂》っ!!』
笑顔で右手を上げる少年に、左手で掴まれたままの水蛇は吠えた。
びだーん、びだーん、と、地面に叩きつけられる尻尾は、水蛇の不満を大いに表現している。
「本当は、十年ぐらいで解放する予定だったんだが、よく分からない内に、延び延びになってしまって……」
『……貴様、千年単位どころか、転生した後でも儂を封じ込んでおいて、延び延びで済ませるとか、ふざけているのか……』
ぎりぎりと歯ぎしりする水蛇は、深い蒼の鱗を身に纏い、ぶるぶるとその鰭を震わせている。
《蛇》と呼ばれていても、その身体は地を這うのではなく、水の中を泳ぐための造りをしていた。
「――封じ切れては、いなかっただろう。
あんたの力に呑まれて、何度も暴走していたし、今は、どっちかっていうと癒着だし」
苦笑する少年の脇腹に、《蛇》は尻尾を叩き込んだ。
器用に避ける少年の飄々とした態度が、面憎い。
元より、《神裂》とは、そういう存在であると、《蛇》は知っていたが。
『神の討ち手たる貴様が、封じの器など似合わぬことをしたからだ。
鎮め手共は、一体何をしていた?』
「……さあ?」
首を傾げる少年に、《蛇》は顔を引き攣らせる。
『貴様は、本当に一体何をしていたのだ、《神裂》っ?!』
「すまん、《蛇》、所々記憶が飛んでて、思い出せない」
少年の台詞に、《蛇》は、細長い瞳孔の瞳を、すっと眇めたが、すぐに切り替えるように瞬いた。
『――まあ、いい。
今優先するべきは、儂の力の回収だ――たかが小娘一人の為に、儂の力を裂きおって』
「裂かなきゃ、シィがすぐに死んでた。
……でも、間違いだったかな……」
ふっと、遠くを見つめた少年に、《蛇》は尾で地面を叩いて、不満を表明する。
『当たり前だっ!!
そのせいで、復活が不完全になりおったっ!!!
……本来ならば、貴様なんぞに憑かずとも、存在できていたというのに……』
《蛇》の愚痴を聞き流し、少年は立ち上がる。
がりがりにやせ細った上に、妙にぶかぶかで、ちぐはぐな組み合わせの衣服。
栄養失調のせいか、パサついた濃紺の髪は、乱雑に切られている。
薄緑の瞳だけが、歳に似合わぬ老成と強靭な意思を煌かせ、少年の正体を、余人には不可解なものに成り立たせていた。
遠い昔、水を司る大神をその身に封じ込め、しかし、その力の大きさに耐え切れず、《蒼の災禍》と呼ばれるに至った、神の討ち手。
その魂は、記憶と封じた大神を手放さぬまま、もう一度産声を上げることとなった。
「シィは、元気でやっているかね」
身体を伸ばした少年が見る先に、己の力の欠片があると、《蛇》にも見当がついていた。
『健康、ではあるだろうよ。
儂の力の欠片を、身に宿すのであれば』
皮肉気に鼻を鳴らす《蛇》の言葉に、《神裂》は、緩く瞑目する。
――幸せに、と、願ってみたものの。
彼女が本当に幸せになれたかは、彼には分からない。
人の身に余る神の力は災いとなる事を、彼は身を以て理解せざるを得なかった。
今まで、幸せだっただろうか?
今も、幸せだろうか?
幸せなら、それでいい。
そうでないと、言うのなら――
「さて、シィに会いに行こうか、《蛇》」
『行かねば、儂の力が回収できなかろうが、《神裂》』
責任を以て、終わらせるから。
恨んでいて、怨んだままで、いい。
ふと、少年は歩き出した足を止める。
「――あ、路銀どうしよう」
今世では、蛇神憑きとして、鱗だらけの身体で産まれた少年だ。
生後、即行で見世物小屋へと叩き売られ、棺桶に片足を突っ込みつつも生き延び、売られた先の見世物小屋が摘発されたどさくさで、前世の記憶を思い出し、ついでに逃げ出してきたところである。
前世の所業の割には、随分と温いと思うが、金無し、職無し、常識も無い上に、とどめの身分を保障するものも無いという、無い無い尽くしの人生再出発。
嘗ての記憶が蘇ったことで《蛇》が分離し、身体から鱗が消えたものの、先行きには不安しかない。
《神裂》と《蛇》、古の遺物たる彼等の旅路は、初っ端から躓いていた。
◆◆◆
『客人』は、少女が思った通りに、その場所に佇んでいた。
陽の大神である《獅子》が座する、神城の片隅。
堀の外からは隠されるようにせり出したバルコニーは、神都の街並みが一望できる。
玩具の様な人々の営みの眺めは、そこに出入りを許された、限られた者達だけの特権だ。
柵に手を置き、街並みに見入っているその人の姿は、少女の目に、酷く儚く見えた。
昔は金茶だったという白い髪が、微風になびいて光を弾く。
「シィ」
少女が呼べば、そちらは変わらないという青い瞳が、彼女へ向けられた。
「お疲れ様」
少女の言葉に、『客人』が微苦笑を浮かべる。
――五百年前、《蒼の災禍》を討った娘は、その時、強力な癒しと守護の力を得た。
過去に縫い留められた様に、年を経ることを知らない娘が、『聖女』と称賛を受け、人々に群がられるのも、それに辟易してここへ逃げてくるのも、いつもの事だ。
今日、いつもと違ったことは。
「《蒼の災禍》を、まだ、愛しているんだ?」
其れを貶した言葉に、『客人』が傷ついた顔をしたことぐらい。
千年単位で、大陸に死と破壊をまき散らした、《蒼の災禍》。
五百年前、その死を誰もが喜び、討った娘は『聖女』と祭り上げられた。
「……いい加減、待たなくたって、いいと思うけれど、シィは、まだそう思えないのね」
少女の台詞に、『客人』の、笑みが変わる。
彼女に群がる馬鹿ボン共に見せてやりたいと、それを見る度、少女はいつも思う。
――『客人』の本当の笑顔を、彼女を『聖女』と崇める者達の、一体誰が浮かべさせられるのだろう。
「幸せになって、言われたの」
自らの手で壊さざるを得なかったものを、いつだって、愛おしそうに。
「でも、私の幸せは、あの人が持って行ってしまったから――」
何れ、戻ってくるという、《獅子》の予言を支えに、壊れないままで。
「――返して、もらわないと」
待ち続ける彼女の笑みは、少女が知る中で、最も尊く、美しいものだった。
――取り敢えず、そいつに会ったら、一発殴らねば。
《獅子》が御座す神都の、類を見ない程のお転婆で鳴らす一の姫は、決意と共に拳を握りしめる。
*作者の為の設定メモ*
・《神裂》
前世では、諸事情により、水の大神である《蛇》をその身に封じ、《蒼の災禍》と呼ばれるに至った。
本来は、神の討ち手であるため、封印の器としては不適格。
そのせいで、力を暴走させ、本人の意思に反して、破壊と死をまき散らした。
今世では、《蛇》がくっついたままだったせいで、蛇神憑きとして生を受ける。
見世物小屋での生活は過酷で、自我がほとんど育たなかったが、そのおかげで、前世の記憶との同期がスムーズに行ったとも言える。
前世で死ぬ直前、《蛇》の力の一部をシィに譲渡した為、彼女の様子を見に行こうとしているが、今世の無い無い尽くしのおかげで、中々に前途は多難そう。
・『聖女』
愛称は、シィ。
五百年前、《蒼の災禍》を討った娘。
《神裂》から、《蛇》の力の一部を譲渡され、強力な癒しと守護の力を得る。
《神裂》は、故郷の敵であるが、男の人柄を知り、悩みつつも愛するようになっていた。
だが、目の前で《神裂》が暴走しかけ、殺されて、愛する男を絶望させるよりはと、愛する男を討つ選択をした。
陽の大神である《獅子》の予言により、《神裂》(というか本当は《蛇》のおまけ)の復活の可能性を知り、五百年、愛する男を待ち続けている。
・《蛇》
《神裂》の身に封じられていた、水の大神。
彼が《蒼の災禍》と呼ばれるに至った元凶。
諸事情によりブチ切れて暴れていたところを、《神裂》が仲間と共に、その身に封じ込めた。
本当は、怒りも鎮まる十年ぐらいで解放される予定だったが、何だか分からない内に、千年単位で延び延びに。
そして、《神裂》が《蛇》の力に耐え切れなくなり、暴走するようになってしまった。
大神なので、討たれても、百年単位の時間をかけて復活できる。