第52話:生命倫理
悪魔バフォメットにアルマの空気を読まない蹴りが炸裂すると、バフォメットはぶっ飛びながら瓦礫の山に突っ込んだ。
「うわ、ヴィオラ死んだんじゃ……」
人間だったら絶対死ぬか重傷だろう。アナスタシアはそう思ったが、ハイエースは平然としていた。
「多少痛めつけても問題あるまい。悪魔が乗り移っている以上、肉体の強度も上がっているだろう。本気でアルマが蹴り飛ばしていたら死んでいただろうがな」
「えっ!? あれ手加減してたの!?」
「悪魔は魔獣の私より格上の存在だが、その分、異世界だと制約が厳しくてな。制限解除には契約を果たさねばならん。シュヴァルを殺すという契約なのだろうが、こちらに吸血鬼がいるのは知らなかったのだろうな。アルマ相手では人間の身体を多少強化した所でどうにもならん」
アナスタシアがドン引きしながらハイエースに問うと、ハイエースは珍しくまともに解説した。
「アルマ! あまり派手に傷つけるんじゃないぞ! この親父小娘と違い、その娘は生粋の美少女なのだからな」
「なんだとぉ……」
ハイエースがアルマに注意すると、馬鹿にされたアナスタシアは不機嫌そうにハイエースを睨む。アルマのほうも面倒くさそうに振り向いた。
「してるわよ。だから顔は殴ってない。そこのおっさん幼女と違って女の子だし」
「お前ら、おっさんおっさんうっせえわ!」
アナスタシア、キレた。
その時、バフォメットの突っ込んだ瓦礫の山が破裂した。石造りの建物が地面からえぐり取られ、巨大な塊となってアルマに襲い掛かる。
「クソ生意気な小娘め! 死ねぇ!」
バフォメットはまだ二本の足で立つ余裕があるらしく、鬼気迫る表情で獣人の少女に全力をぶつけた。
そして、その全力をアルマは片手でキャッチした。
「……えっ」
「あんたさぁ。手加減してあげてるって言ってるじゃん」
バフォメットは呆けた表情で突っ立っていた。格闘術に優れた獣人なら、避けきれないくらいの質量で押しつぶせばいい。そのくらいの魔力と速度は籠めたはずだ。
それをあろうことか、片手でキャッチするとは何事か。あってはならない。
「な、何だ貴様は!?」
「何だっていいでしょ。あんたが暴れると街が壊れるし、そうなると私がエンジョイできなくなるでしょ!」
「ぐはぁっ!?」
アルマは投げつけられた建物を適当に地面にぶっ刺すと、バフォメットに神速で近寄り、腹に強烈なパンチを叩きこみ、ついでにバフォメットの背中に肘鉄もぶち込み、地面にめり込ませる。
「お、おごご……! お、おがじい……あっではならない……!」
バフォメットはもうヘロヘロだ。宣言通り顔に攻撃はされていないが、こうも強烈にボディを攻撃されてはたまったものではない。これでもアルマは相当手加減している。
確かに今のバフォメットは全力で戦う事は出来ないが、魔力で強化された肉体は並の人間よりも遥かに頑丈だ。グラナダに氷漬けにされても平気だったくらいなのだから。
「我は偉大なる悪魔バフォメットだぞ! 力さえ全力なら貴様ごとき小娘に……!」
「多分無理よ。だって私、あんたの同族小さい頃に食べた事あるし」
「……えっ」
バフォメットは腹を抑えて地面に膝をつきながら、アルマの顔を見上げた。何を言ってるんだこいつは。そんなバフォメットの内心を見抜いたように、アルマは口を開く。
「あたしがちっちゃい頃、パパとママが誕生日のお祝いにローストビーフを用意してくれようとしたの。でも、近くに牛が居なかったから、異世界に行って山羊っぽいのでごめんねって狩ってきた。それがあんたの同族よ」
「げえっ!? 貴様……まさか悪魔殺しの吸血鬼ダンディの娘か!?」
「そうだけど。そんな呼び名知らないわ。パパとママ、あんまり昔の事教えてくれないし」
アルマは平然と言い切ったが、バフォメットの顔は蒼白を通りこして真っ白になっていた。バフォメット族に伝わる災厄が、形を変えて自分に降りかかっているのだから当然だ。
「分かるわぁ。若い頃の黒歴史って語りたくないもんなぁ。私も中学生のころのハンドルネームとか絶対言いたくないし」
「君の言ってる例えはいつもよく分からないね」
一方、後ろで解説役に徹しているアナスタシアたちはのほほんと喋っていた。バフォメットにとって最大の不幸は、ヴィオラがシュヴァルを過大評価し過ぎていたことだ。
ヴィオラからすれば、シュヴァルが吸血鬼や魔獣を使役している認識だったが、実際には逆ピラミッド状態だ。もうちょっと情報をちゃんと引き出していれば、恐らくバフォメットは契約せずにさっさと帰っていただろう。
「ま、待て! いいのか!? 私を殺せばこのヴィオラという娘も死ぬぞ! 肉体は紛れもなくあの女の物なのだからな」
「そうね。でも問題無いわ。だって私、人間よりモチョのほうが好きだし、ヴィオラと友達でも何でもないし」
「この……ひとでなし! 悪魔!」
「あたし人じゃないし。悪魔はあんたでしょ」
「ぬわーーーーーっ!」
バフォメットはヴィオラの肉体を人質にして延命しようとするが、アルマは慈悲も容赦もなく背中を踏みつけた。バフォメットはさらに地面にめり込み、痙攣して動けなくなった。
「いいぞアルマ! 悪魔をそのまま滅ぼすんだ!」
「そ……そこの娘は人間だろう? な、なぜ吸血鬼に味方する? 同族が死ぬのだぞ?」
「別に味方じゃないけど、ヴィオラだってこれだけの被害をもたらして生き恥を晒したくないだろう。尊い犠牲になってくれるさ」
アナスタシアは慈愛の表情でバフォメットを見る。
才能ある美少女が悪魔に乗っ取られてしまった。そして、殺す以外に彼女を解放する方法は無いらしい。なら、悲しいけれど死んでもらうしかない。これは偶然起こった不幸であり、仕方が無いことなのだ。
「親父小娘、さてはライバルが減る事を望んでいるな?」
「……そ、そんなことない!」
「そうはいかんぞ! 待つのだアルマ!」
ハイエースは駆け出し、今にもとどめを刺そうとするアルマと哀れなバフォメットの間に割って入る。
「何よ? 悪魔がこの世界に生きてたら困るでしょ?」
「そうだぞエロ馬! 一人を犠牲にしたとしても、罪無き大勢の民が救われるんだから仕方ないだろ!」
「他の人間が何百人死のうがどうでもいい! 可憐な美少女一人の肉体と、その他大勢のモブ共とどちらが重要だと思っている!」
「美少女はこのアナスタシアちゃんがいるだろ! いい加減にしろ!」
「貴様は美少女にカウントされん! いい加減にしろ!」
「なんだとぉー!」
「あーもう! さっさと決めてくれる?」
バフォメットが再起不能になっている前で、意味不明かつ不毛な喧嘩が開始された。アルマは面倒くさそうに少し離れた場所に立ち、結論が出るのを待っている。
「あの人たち滅茶苦茶言ってますけど、どうしますシュヴァルさん?」
「どうしますと言われても……まあ、ヴィオラ様は死なない方がいいよね」
アナスタシアもハイエースに連れられるように引っ張られていったので、シュヴァルとアムリタも仕方なく近寄る。近くで見ると、顔の部分は殴っていないので綺麗に見えるが、恐らく服の下は痣だらけになっているだろう。
表面的に見える部分は綺麗なのに、その下がひどい事になっているのを想像すると、シュヴァルはまるでアナスタシアみたいだなという感想を抱いた。
「でも困りましたね。私もヴィオラさんには戻って欲しいですけど、かといって悪魔に身体を乗っ取られた人の戻し方なんて知りませんし」
「だから言ってるだろ! ヴィオラはここで死ぬべきなんだ! 私だって人が死ぬのは悲しい! でも、現実は丸く収まるハッピーエンドがある訳じゃないんだぞ!」
「黙らっしゃい! ヴィオラの肉体を失うのは惜しい。とりあえず生かしておくべきだ。多少周りに被害が出ようが私は構わん」
「えー、でも逃げられたら探すの面倒じゃない? あたしはここで始末した方がいいと思うんだけど」
半死半生のバフォメットを囲みつつ、シュヴァル工房の面々は各意見を述べる。それにしても意思疎通の出来ない連中である。
「き、貴様ら……人間の情が無いのか……?」
バフォメットが振り絞るようにツッコミを入れた。なんかこの流れだと、黙ってると殺される可能性が高い気がするからだ。
「悪魔に人道を説かれても。それにほら、お前は美少女の身体を乗っ取るっていう大罪を犯したし、やむを得ないかなって」
アナスタシアが倒れ伏したバフォメットを覗き込みながらそう言い放った。
この小娘、人間だとは思うのだが、倫理感覚が悪魔バフォメットより狂っていて、バフォメットはアルマとは違う意味でこの娘に恐怖を覚えた。
「貴様ら! 何度も言うが私を殺せばヴィオラという娘は死ぬんだぞ! あの娘の魂はこの身体の深層にある。肉体を破壊せずに我だけを引き剥がすなど出来まい!」
バフォメットは必死に倫理に訴え、シュヴァルをまっすぐに見上げた。普通に考えたら人間は人間を殺すのに躊躇するはずだ。
異常な存在の集まりの中、あまり自己主張しないシュヴァルに縋るしかバフォメットに生きる術は無い。
本来ならシュヴァルを殺すためにやってきたはずなのだが、皮肉な事にバフォメットが生きて帰れるかはシュヴァルの決断に委ねられた。
「その事なんだけどね。やっぱり人を殺すのはよくないよ。ヴィオラ様だって何か理由があってこんな事をしたんだろうし」
シュヴァルは少し間を置いた後、バフォメットを眺めながら言葉を選ぶように喋りはじめる。
「うんうん! そうだろうそうだろう! 人殺しはよくない!」
そして、バフォメットは期待に目を輝かせて大きく頷いた。
よかった。シュヴァルがまともな人間で。
「でも、バフォメットだけをヴィオラ様から引き剥がすのは、多分出来ると思うんだ」
「……は?」
バフォメットの目が点になった。この男、一体何を言っているんだ。
今までの発言の中で、バフォメットにとって最悪の提案をしてきた。
「そ、そんな事が出来る訳無いだろう! 何をたくらんでいるか知らんが、失敗するに決まっている!」
「そうだね。でも、失敗するからこそ成功する可能性もあるんだ」
バフォメットの叫びに対し、シュヴァルはゆっくりとそう答えた。