第49話:聖女と悪魔の錬金術師(2)
「きゃあああ!?」
ヴィオラの持てる全ての力を魔法陣に注入すると、雷光のように眩い光が溢れだす。あまりの眩しさに、ヴィオラは目を閉じて尻もちを着いた。
「……何も出てこない?」
あれだけ激しい光を放ったというのに、魔法陣には何も現れない。そもそも異世界召喚はかなりの確率で失敗する。もちろん失敗率を下げる事は出来るが、確実に成功するという保証は無い。
「無駄だったのかしら……」
全ての魔力を注いだ。魔法陣も自分の知りうる全知識を用いて用意した。その結果がこれだ。ヴィオラは落胆したが、次の瞬間、空気が変わったことにヴィオラは気付く。
「何か来る!?」
魔法陣の中心に置かれた巨大な山羊の頭骨がほんの少し動く。その直後、巨大な腕が魔法陣から伸びて骨を掴んだ。そして、地面から這い出すように全身が現れる。
「我を呼んだか? 矮小かつ卑小な人間よ。我は偉大なる悪魔バフォメット」
「あ、悪魔……!?」
ヴィオラは身震いする。シュヴァルに対抗できるくらいの力ある存在を自分のものに出来れば、グラナダの役に立てるだろうと思っていた。けれど、まさか悪魔を呼びだしてしまうとは思わなかった。
悪魔バフォメットは全身が剛毛で覆われ、はちきれんばかりの筋肉と巨体を持っていた。だが、一番の違いは頭部だろう。人間の身体に山羊の頭には、巨大な角が生えている。
燃えるような赤い瞳に睨まれると、ヴィオラは今にも逃げ出したくなる。禍々しいオーラを放つ、本当の悪魔を見るのはヴィオラも初めてだった。
「我を呼んだという事は何か願いがあるのだろう。早く言え」
バフォメットは低い声で脅すように促す。魔法陣の中心に立っている間、召喚主の許可無しでバフォメットは出られないはずだ。ヴィオラはなんとか冷静さを取り戻し、悪魔に向き合う。
「この際、悪魔でも何でもいいわ。バフォメット、あなたはその態度に見合う実力があると期待していいのかしら」
「舐めるな小娘」
バフォメットは不快げに一蹴する。短く自信に満ちた一言は、悪魔の実力が裏付けているのだろう。ならばヴィオラが頼む事は一つだ。
「私に力を貸して欲しいの。邪悪な錬金術師シュヴァルを倒すために」
「倒すという事は、つまり殺すという事で構わんのか?」
「それは……出来ればやめて欲しい。彼を拘束して止める事が出来ればいい」
「甘っちょろい小娘だ。我は悪魔だぞ。破壊と殺戮こそが我が愉悦。貴様に呼ばれては来たが、その条件では従えんな」
「そんな……!」
バフォメットはわざとらしく肩をすくめる。ヴィオラは狼狽した。現状、使える全てのリソースを割いて召喚を行ったのだ。このままバフォメットと契約出来なければ、魔力もしばらくは使えないし、本当の意味で足手まといになってしまう。
「わ、分かったわ。シュヴァルを死なせても構わない」
「ふん。最初からそう言えばいいものを」
ヴィオラはためらいながらもバフォメットの条件を呑んだ。悪意を振りまくシュヴァルを庇う必要は無い。そう自分に言い聞かせながら。
「さて、では対価を払ってもらおうか」
「対価? そこにある呪具と私の魔力を差し出したでしょう?」
「呪具? ああ、この獣の骨の事か。こんなもので我をこき使おうとは舐められたものだ」
バフォメットはそう言って、獣の頭骨をつまらなそうに投げ捨てた。
「なんで!? それはシュヴァルが使っていた召喚の道具じゃ!?」
「我が知るものか。とにかく、こんなくだらん骨で契約しようなどおこがましいにも程がある」
先ほどから相手のペースに乗せられっぱなしだが、ヴィオラは完全に冷静さを欠いていた。ここに他の誰かが居たら止めたかもしれないが、あいにく今はヴィオラ一人だ。
実力的に銀の称号を持っていても、ヴィオラはまだ歳若い少女。交渉事には慣れていない。
「じゃあ、どうすればいいの?」
「ふむ……そうだな。別の対価を払ってもらえれば貴様の願いを聞いてやろう」
「本当に?」
「我は高位の悪魔。契約を交わした以上、それに従う制約がある。悪魔とは契約に縛られる存在でな。特に我のような強力な者ほど異界では行動が制限される」
バフォメットは忌々しそうに答える。これはヴィオラも知っていた事だ。悪魔は強力な存在だが、契約には絶対に従うという性質がある。ただし、悪魔の提案した契約を破った時のペナルティが重いので、扱うのが難しいと文献で読んだ事があった。
ヴィオラは悩む。確かに悪魔の錬金術師と呼ばれても構わないとは思った。だが、実際に悪魔本体を呼びだすのは予想外だった。
自分にこの悪魔を使いこなせるだろうか。だが、実力は間違いなさそうでもある。ここで契約失敗で帰還された場合、しばらくは召喚術は使えない。その間にシュヴァルがどんな動きをしてくるかもわからない。
「分かった。あなたの望む対価を払う。要望にもよるけれど」
「そうか。賢明な判断だ。我を呼んでおいて契約をしないほどの愚図ではないようだな」
高圧的な物言いにヴィオラはイラつくが、黙って彼の要求を聞く事にした。
「では、貴様の一番大事な物を我に捧げると誓え。そうすれば貴様の望みを叶えてやる」
「い、一番大切なもの!?」
「そうだ。高位の悪魔を貴様のような小娘が従えるのだ。それ相応の対価を払ってもらわねばな。言っておくが、これでもかなり割引いているほうだぞ? 貴様の持っている全てを差し出しても、我が従う理由は無いからな」
一番大切なもの。改めて考えると、ヴィオラはそれが何なのか分からない。
「まさか命を差し出せなんてことはないでしょうね?」
「安心しろ。契約者である貴様が死んでは意味が無い」
「…………」
ひとまず安堵したものの、じゃあ何を差し出せばいいのだろう。ぱっと思いつくのは、これまで築いてきた銀の称号だ。それに研究成果として一番の出来である癒しの鳥、カラドリウス。
グラナダに対する想いだろうか。でも、それが恋なのか、あるいは上司としての敬意なのか自分でも未だに判断が出来ない。となると、やはり人生で一度しか体験できない女の……そこまで考え、ヴィオラは赤面する。
「そ、それはその……汚れなき乙女の大事な何か的な?」
「貴様は何を言ってるんだ」
思わずバフォメットに突っ込まれたので、ヴィオラはほっと胸を撫で下ろす。いつか自分もそういう相手が欲しいとは思うが、こんな巨大な山羊頭とはごめんだった。
そこまで考えると、ヴィオラは逆に安心した。そういう行為を要求される訳でもないし、命も奪われる事は無いらしい。研究成果や地位は失ってしまうかもしれないが、もうそれほど執着は無い。
「……分かったわ。悪魔バフォメット。あなたと契約するわ。私の大切なものをあなたに捧げる」
「契約成立だな。よかろう。そのシュヴァルという奴を滅してやろう」
「それで、何をお望みなのかしら」
「決まっている。貴様の肉体だ」
「えっ」
バフォメットがそう言った瞬間、ヴィオラは固まる。その直後、バフォメットは山羊の顔をにいっと歪め、哄笑する。
「だ、だって私の純潔は奪わないはずじゃ!?」
「馬鹿が! 肉体丸ごとに決まっているだろうが。貴様にとって一番大切なもの。それは貴様自身に決まっているだろうが!」
「そんなの聞いてないわ!」
「いいや! 貴様は確かに聞いた! ただ理解が及ばなかっただけだ! 大体、貴様はなぜ我を呼んだ? 自分の望みを叶えるため……つまり、貴様自身を大切にするためだ!」
バフォメットはヴィオラをあざ笑った。悪魔との契約は代償を伴う。そして悪魔も契約に縛られる。だからこそ、少しでも取り分が多い用に魂を切り売りしなければならない。
ヴィオラは優秀だが、その点が甘かったのだ。
「そ、そんなの嫌に決まっているでしょう! 契約破棄よ!」
「我と貴様の同意は既に得られた。契約は既に完了している。ではその身体、貰い受けるぞ!」
「い、嫌っ! グラナダ様……! リーデル! 誰か……!」
ヴィオラは走って逃げだそうとするが、バフォメットは魔法陣から手を伸ばして彼女の頭を後ろから掴む。契約が完了した今、バフォメットは魔法陣の制約を逃れた。
「あ、あがががが……!」
バフォメットの身体が徐々に掻き消え、ヴィオラの頭部から煙になって吸い込まれていく。ヴィオラは最初激しく暴れていたが、徐々に抵抗が大人しくなっていった。
そして、彼女は地面に倒れ伏すが、すぐに目を開く。外見は今までのヴィオラとなんら変わりないが、その瞳は、悪魔バフォメットと同じ深紅に染まっていた。
「ふむ……なかなかに居心地のいい肉体だ。若い肉体だし、魔力もなかなかに上質だ」
声も今までのヴィオラと変わらないが、その口調は間違いなく悪魔バフォメットのものだった。契約通り、バフォメットはヴィオラを殺してはいない。ただその意識を魂の奥深くに押し込んだだけだ。
ヴィオラは今、深層意識で眠っている。
「さてと、では主の命令に従い、シュヴァルとやらを殺しに行くか……おっと、大切な情報を聞き忘れていたな。いかんいかん」
これっぽっちも失敗したと思ってない軽い口調で、悪魔の錬金術師と化したバフォメットは呟いた。
「シュヴァルとやらの特徴を聞いていなかった。まあいい、この近くにいる人間どもを皆殺しにすればいいだろう。その中に、シュヴァルとやらもいるだろう」
バフォメットは残忍に笑う。彼は破壊や恐怖をまき散らす事に愉悦を感じる生粋の悪魔である。だからこそ、あえてシュヴァルの情報を引き出すような誘導尋問をしなかったのだ。
「さて始めるか。殺戮のパレードをな」
ヴィオラの肉体を乗っ取ったバフォメットは、悠々と魔法陣から出ていった。