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爆音ヒーリング・ミュージック

作者: ごあ溶魚

 苦しむことをやめていいのだろうか、と私は苦しむ。

 苦しみに堪えかねて見上げた夜空は、高確率で美しい。私たちが宇宙というとんでもない物質のなかにいることを、その壮大な意味のなさによって知らせてくれる。人類一人一人の精神世界、特に酩酊状態のそれを空へぶちまけたものにも思える。

 しかし、これなのか。このリリシズムのドリンクバーなのか。喉が渇いたときのコーラにすら負かされてしまうものなのか。死んだように安らかに、ヒーリング・ミュージックで癒されるべき夜はあるのだろうか。

 墓の村へ向かう流星のひとつが、特に輝いている。人々はあのような輝きに憧れる。

 誰も住んでいない林に続く土手を、林に続かない一軒家のような思考が歩いている。私が独り歩いている。肉を得た魂が死を目指している、それが人生。人生があれば生活なんてほんとはいらない。脂肪のように、たぷたぷと人生に纏わりついてみっともない。

 貴重な、とりあえず視界一面は確保された、静謐な、クォーツ時計のような田園風景。十年前なら珍しくもなんともなかった。子どもの頃、私は田んぼによく落っこちたものだ。試しに今落ちてみようか、すぐサイレンが鳴り牢屋にぶちこまれるまで朝は来ないだろう。

 人々は知らず知らずのうち食糧危機に陥っていた。

 総ての魚が水から自由になったとき、町にはジャンクフードと死が氾濫し始めた。民は喜んで毒を食らい、餓死せずに済んだと大人しい。フードに含まれる科学成分による影響だという見方もある。医者などの富裕層だけがここの田の米を食らい、健康を維持している。こっそりと林で自給自足していた人々も一斉に摘発され、今は本当に静かなものだ。灯台が稲穂の間から伸びていて、近くや遠くの稲穂を照らしている。

 苦しみの先の真実を私は求める。あれ、真実って何だろうとちょっと足が止まる。退屈にならない思考、退屈の反対が苦痛で人はその間のどこかに常に居るということをショーペンハウエルが書いていた。 

 小石が足下で闇の音符のように続く、奏でたるドビュッシー的音響、俯く宇宙船。

「各々が本当に求めているものそれ自体が各々の真実だ」

 鈍き自己問答。鹿の剥製を買って帰る男。

 私は私が求めているものを知らないからいつも苦しい知っていればまた多分悲しい。安全点検を怠らなかった人生は多分悲しいのだろう。散歩の途中途中でスキップしたり、力を込めてジャンプしたり。

 人生以前のような冷たさの、人生という川を渡ってきたのに、どこも濡れてはいない。何度もびしょびしょになったつもりだった。ボートの扱いが上手いわけでもない、どこにでもある一人用の夜中だ。さっさっ、とズボンを払う感覚が繋がって時間という共同幻想が生まれている。今夜劇場へ行くのは危険だと、会社の前のホームレスに警告された。

 まあね、お月様が林と川を照らして、灯台が田をほぐしてロマンチックな陰影なわけだよ。抱きあえばとろけるような夜なんだよ。肌と肌が離れた瞬間、また苦しみが始まるんだよ。ぶつぶつと焦げてゆくようなチーズたちは遥かに空におよばない、君の上着を落ち着いた椅子に掛けるべきだ。そして裸足で駆け出すべきだ。なんて私は言わない。

 林の入口で足が止まった。

「つまり愛が欲しいのか?」 

 否、欲しければこんな淋しいところに来てはいない。こんな行間のような場所。インセンスのような歩みと時計仕掛けの知識のデート。

「それは人からの愛だろう。人の愛は得難い、エガタイ。手っ取り早く自然の愛を感じにきたのだろう!」 

 確かに自然は好きだ、お前のいうこともでたらめじゃない。

 ただ愛を感じながらも尚、私たちにはすべきなにかがあることを感じてしまう。一滴の酒も飲みたくはない。約束された幸せなど。

「じゃああれか、お前が命より重いとほざいていた美か?」 

 美だと?

 世界のどこを探せば足りないピースが見つかるだろうか。

 総ては美によって完結している。私達はすでに美を持っている。それは己自身の発する光だった。黒い色鉛筆だった。

「うるさい、という言葉は声が大きい奴に使うんじゃない。口先だけの奴に使うんだ。なんか疲れてんだよお前。オナニーして早く寝ろ」 

 苦川ヨシオは酒を飲んで寝た。その顔は疲れていた。

 

「苦川、お前ちょっとこい」

「何でしょうか?」 

 渋面の課長が呼んでいる。右手でパタパタ招いて、ムキッとした左手は腰、やれやれって感じで少ない陽の中に収まっている。禿げている。

「今週お前、農薬使いすぎじゃないのか?」

「あぁ、はい。結構使いました」

「おかげ様でウチの田キちゃってるぞ?」

「すみません、でも農薬の量は織多さんから聞きました」 

 織多さーん、って心の中で結構大きめにすがった。課長はフィジカルに呼んでいて、織多さんは算術ドライブに短期コアをコピペし終えたところだった。この作業はつまり、織多さんにしか遂行できない、黄金のような仕事だ。 

「織多さん、農薬Dで28入れたんですか?」 

「はい、虫が出ると困るので」 

「出なくても困ります。基準値に寄せて、虫のことは考えないでください」    

 怒りの矛先はスムースに織多さんに向いて柔らかく消滅した。 その年は虫が大量発生、うちの会社だけ急成長、織多さんと私大手柄!なんてことになればいいな、と思いながら私は膝の上のノートパソコンに向かい土壌の基礎値を照会する、だけではないちょっと説明することのできない、海老フライを作るくらい難しい作業に戻った。

 デスクの上には土の入った紙パックが約50個。今必要じゃないなら倉庫にしまっておけばいいんだけど、まぁ、色んなことに意味はないよね。お、なんだ?眞田。

「お前、それ一個多くねぇか?」

「知らんわ!」なんだその意味不明な指摘は。

 虫が出る可能性はゼロというわけじゃない。ただその可能性をウチでは杞憂の領域と捉えていて、基本農薬バランスを崩さないようにあーだこーだ。しかも基準値をかなり甘く取っていて、かくかくしかじか。世間はあの事件以来、虫にかなり過敏になっていたにも関わらず、だ。

 ちょっとした闇だけど、告発するされるレベルじゃないと思います。思考停止はしてません。 

 私のデスクの左手、横長の大きな窓。織多さん越し、水のような空に農業タワーがある。廃墟になっていて、中腹には黄ばんだ草が生えはじめている。食べたら屋根裏べやの味がしそう。

 織多さんと気まずく目がちらちらあう。黒縁メガネをかけた白髪フサフサのおじさん。猫のような、創造的なまなざしをしている。

 もう少し思いを馳せさせてください、あなたから聞いた話。 

 荒野に一本の農業タワー。

9年前、虫の大量発生によって機能を停止せしめられた農業タワーは、虫による害を軽減するためのものだった。

 つまりあんまし機能を果たさなかった。

 海のような田の、中央部に孤立したタワーは、虫の力をあまりになめていた。農業タワーの中に居た職員は全員、いや地下研究室に居た織多さんを除いて虫に食い殺された。血痕も残さず、綺麗に平らげられた。

 織多さんは当時三十代だったが、その日から悲しみで白髪が増えていき、アンディ・ウォーホルのようになってしまったということだ。悲しみの果てには、アンディがいた。あの人はわざとだけども。

 デスクの黄色い瓶に生けられた赤い花。 

 なぜ生き残れたのか?人々は織多さんに詳しく聞こうとした。 

 彼が言うには

「なぜ死ねなかったのか?」 

 恋人の死は誰にだって重すぎる。 

 そんなとき、ヒーリングミュージックくらい聴いても良かったはずだ。

(多分だけども)そんなもの聴かずに、織多さんは新しく建ったここで食糧対策の研究代表として勤めはじめた。虫への危機意識の薄いこの会社で。当時の私はプールで泳いだりして生きていた。青春のように優雅だった。


「似ているんだ、君は」 

 織多さんとハードロックの掛かった喫茶店でランチタイム。

 彼は長い指でサンドイッチを潰して、なにやら眼力を調節する。茶色い目がぎょろりとする。

「誰にですか?」

「僕の恋人にだよ」 

 織多さんは冗談ぽく、外人のように微笑んだが、私は気まずい時間が流れたと思った。

「気持ち悪いことを言ってしまった。ただ似ているのは本当なんだ、好きだとかそんなことでなくね。美紀だ」 

 携帯の画面を見せてきた。ノーコメントで。

「どうして織多さんは、この会社に?ここは虫を軽視しているのに」

「当時は、そうでもなかった。今はどこでもこんなもんだよ。皆、対策しっかりしてるなんて言ってても、実際虫が大量発生したらどんな大企業でも太刀打ちできない。その点ここはわりと私が力を発揮できる、多少疎まれていてもね。そういや農薬D、あれは悪かった」

「あ、いや、私もそうするべきだと思いましたし」 

 織多さんは私側の机の端を見ながらサンドの頂点を噛んだ。

もぐもぐ「ふうん。苦川くん、私は虫がそろそろ発生しそうな気がするんだ。君はこの地域から離れるべきかもしれない」

「べきかもしれないって、あ、いや、てか私だけですか?まず会社でその、発表しましょうよ。危機を伝えましょう」

「苦川くん」

「あ、はい」

「君はやはり美紀に似ている」 


 

 会社の帰り、また土手を林へと、ひとつの思考となって歩いていた。星があと少しで映りそうな黒い川を眺めていた。

 今日は赤子の仏が多いのだろうか、ハンドバッグほどの小さな棺がいくつも浮遊している。灯台のライトが私の背広を一瞥していった。

 虫なんて神の意志だと諦めて、食糧危機に全力で取り組むウチの会社も立派なものだよな。って相対的に織多さんをディスる、ことにはならない。

 人のいない舟小屋から、一艘の新しいボートを借りて、たましいのようにこの夜の先へとさまよい出た。

 対岸の山は、今まで見過ごしてきた分の夜が迫ってくるようだった。この感じで、虫は迫ってくるのだろうか。鳥肌が肩の辺り、水のように湧く。

 予想を拒む黒い水面から、塔の職員達の死が迫る。恐怖とは過ぎた美かもしれなかったが、今はただ夜空を仰ぐ死だった。 

 停留所から続く急な石段をよじ登り、振り返った眼下、光の粒がまぶされた町を睫毛で二度払う。ベンチに深くすわり、心の煙草に火を点す。

「今日は何のために来た?」 

 純粋に夜空が見たかった。夜空を見るという純粋な行為によって、純粋な気持ちになりたかったんだ。

 私はこの町に残るよ。皆で虫と戦う。

 織多さんの論文は会社どころか国に認められて、避難勧告がこの地域に出された。私は織多さんに追いていこう。

 苦川ヨシオは酒を飲んで寝た。その顔は疲れていた。


「事前対策じゃ済まない。大量発生中の彼らはどこからでも湧く。下手したら農薬からも湧いてしまうかもしれないね」

「針山法?あんなものは案山子にもなりゃしないんだ。とにかく避難して、遠くから起爆させるしかないよ」

「これは九年前の虫の遺伝子データだ。君ならなにか思いあたるんじゃないか?」

 織多さんはそのいでたちから既にあったカリスマ性を爆発させ、この地域の全農業系統に指示を与えていた。

 緊急対策本部へと姿を変えた真昼の市民ホールはちょっとしたパーティー会場のようになっている。私含む門外漢の社員はロビーの隅でパイプ椅子を広げ、皆の勇姿をドラマでも見るように見守っていた。

 さっきまで隣で「欧米女性の、自分に自信があるカンジがこの上なく嫌い」ということを喋っていた眞田は煙草を吸いにどこかへ消えた。犬のような、ふざけた時間だった。

 

 最初は私が気づいたのだろうか。

 喧噪のなかに、眞田の声があった。眞田の呼び声は叫びに近づき、その場に居た全員を呼んでいる気がした。

 まるで真夜の廊下に、おもちゃ箱をひっくり返してしまったような、そんな取り返しのつかない叫び。

 目が覚めたような人々の顔が流れたあと、現実味を欠いた、スプラッター映画が始まった。私はスプラッター映画が好きではなかったが、高校生のときに一度だけ製作したことがあった。

 とんでもない武器を持っていて、それを使う機会がないことに常にイライラしている男が、タイピング音がうるさい、など些細なことで人を殺しまくっていく話だった。そのときの私はプールで優雅に泳いだりもしていたが、成長期でカルシウムが足りていなかったのか常にイライラしていた。警察の特殊部隊に囲まれて初めて、とんでもない武器が使える状況になったと気づいた男は、心から警察に感謝した。

 洋館の隅で雨に濡れるストラディ・ヴァリウス。色の変わるストラディ・ヴァリウス。

 私は走っているつもりだったが、夢の中のようによたよたと足が絡まってなかなか前に進めない。時間を掛けて市バスの内部へ到達したころには額の汗があごまで垂れていた。 

 鳴り響く頭であ然と、消滅しかけていると、為すすべが隣に座っていた。いや、居なかったんだ。

 けばけばのソファには私しか座っていなかった。注意によって身体の隅々の気力を掻き集め、思考に焦点を当てた。

 誰も逃げ出せなかったのか?淡い霧の中のホールを後ろの窓から凝視していたが、何の気配もなかった。

「全てが終わってしまったのやろか」

 私は関西弁でそう言ってみた。鞄を置いてきたことに気づいて運転手から携帯をひったくり、警察へ電話をかけた。

「虫がでました、みんな死んでしもてん」

 爆音で、ヒーリングミュージックが聴きたかった。


 約一万と八百二十秒かけて、音もなく流れていく工場、沼、新しい工場、住宅地、木々と娘、鉄条網の中の柿の木、沼の周りの鍵の付いた柵、おじいさんと風俗店、古い工場、工場、沼、そして私は眠った。白黒のフィルムの、西部劇の中。

 曇り空は落ち着いているよ、青空なんかありゃ狂気的なところがあるけど、雲がひとつでもあればそいつが私を受け止めてくれるようだ。そこは岩切場のようなところだった。

 もともと何だったのか分からない崩れたレンガ壁。その少し横で折れ曲がって倒れたままの標識柱、等を窓から見ていると、なんでこんなとこまで終点を延ばしたんだ、と強く思う。政府の芸術性も、なかなか舐められたものではないな。

 金は鞄に置いてきたから、ガンマンのように目つきを鋭くする。眼だけがカラーになっている気持ち。「あれっ体が斜め前へ傾き、床が迫る

 あれ?」おかしいな、と思った。

 床に突っ伏していた。

 床のカーペットがぬるぬる濡れているのを頬で感じる。異常に気づいた運転手が慌ててカチャとシートベルトを外して寄ってきた。

「おめえさん、足がねぇぞ!」

 慌てて立とうとしたら右足がなく、手摺りポールに頭を打った。運転手に抱っこで運ばれ、土の上に打ち棄てられた。 

 白い空から強烈な痛みが降ってくる。ドーパミンだろうか、ドーパミンの効果だったのか。だとしたら私はあのバスでどれだけドーパミンを生成、消費していたんだ。いつ虫にやられていたんだろう。

 もがいていたら岩場の深みへ向かって転がり始めた。OBだ、頼むから打ち直させてくれ、重力に掴まれる瞬間そんなことは言えない。間違ったアドレナリンだったとか言えない。

 

 一羽の大鷲が天空を五周したころ、灰色の闇の中の私に、意志という精神の雷が直撃した。覚めてすぐ、意識が遠のきかけたが、痛みで醒めた。

 仰向けなので己の道程がすぐ目に入った。急斜面にごつい岩がいくつも隆起し、黒くぬらぬらと濡れている。

 紫の夕空がクッソ狭くて寂しい。人はこうして虫に殺されるのだなぁ、血が影に呑まれて無念。あ、ああ、?

「ざっけんなあおらああああああ」

 私が無意識に叫んでいるのに気づいて涙が出てきた。体験したことのない重圧。気絶する、意識の遠のく瞬間の消滅感が何層にもなり、入念に消去されている感覚。汗が上空へ散ってゆくのが、死ぬほど美しかった。自らの両手を見ていた。

 苦川ヨシオは死んだ。その顔は疲れていた。


 

 トンネルを抜けると、地獄であった。

 手術室のドア上部で『手術中』と点くランプが、『地獄』と赤く点いていたから、そう捉えざる得ないのは、哀しくもなんともない。

 無意識に振り返ると、渦を巻いた懺悔と汚辱が、眼球の前に迫っていた。カメレオンの目のようだった。

 奥の方にテカテカしたものがあったので一歩覗き込むと、なんかエロかったので退いた。早朝の折り返し電車の、人気のなさのような、不気味な情欲があった。

 向き直るとドアが自動でガショッ、と観音開きに開いて少し驚き、身構える、右足が治っていることに気がついたが、別段嬉しくなかった。自分、死んでるんで・・・

 ダンススタジオのような黒い狭い内部、部屋の中央、白装束を着た私が、手術台に仰向けで横たわっている。眩しく照らされている。

 いっ、と思う。

 光で反射して白い血を口に湛え、右足の膝から下がどうしようもなく存在していない。アート作品のようで、生物にはどうみても見えないし、元生物にも見えなかった。

 現代美術館に置いてあったら案外、感心するかもしれない。いやあ、クールだ。私が死んでいる。

 視線があった、隅で痩せた黒人が腕組みをしている。異様であった。異様なのは彼のアフロが天井にしっかり着いていること。立法体の交点にアフロを持て余し、くりくり擦っている。

 アフロが飛沫をあげているのを見て壁を触ってみると、手術室だと思っていた部屋の黒い壁は少しごつごつして濡れていて、整えられた鍾乳洞のようである。

 男はパツパツの白TシャツにGパンの出で立ち、ふと私も同じ格好をしていることに気づく。誰にいつ着せられたのか、恐ろしい。サイズはぴったりだ。

「サイズ感いかがすか」

「うん、最高だよ。Mサイズらしさ出てるよ。でも私にはちょっときついからLを貰おうか」

「なんすか、どういう意味すか」 

「店長を呼んでくれ」

「喧嘩売ってんすか」

「店長を呼んでくれ」


 窮屈そうにかがんで、私に目線を合わせてくれた男は、とても良い声で丁寧な日本語を喋った。

「ここは地獄ですが、怖がらないで下さい」

 足がすくんだ。私は地獄に堕ちたのだった。大変だ殺される。

「心配しないで下さい。地獄はあくまで天国の良さを際立たせるためのものであって、下界とたいして変わりません」

「針の山とかないんですか」

「いえ、一応あるということになっていますが、下界の人々を怖がらせるために存在しているだけです。肉眼ではよく見えませんよ」

「意味不明ですが、少し安心しました。ちなみにあなたは誰なんですか。あ、もしかして閻魔」

「いや、私も地獄に堕ちた人間です。ご覧の通り背が高すぎるので、神に近づきすぎたとかなんとか。まぁバベルの塔みたいなもんですかね」

「神に近づいたら地獄なんですか」

「伝統のようなものでしょう。私は仏教徒だったのでよく分かりませんが。とりあえず、あなたが来てくれたので、私は転生します」

「え、それはどういう」

 私の三回の瞬きの中、二回目に男は消えた。

 一回目で虫になった気がした。

 結果、しつこく照らされている私の遺体と一人きりにされてしまった。これは、なんの意味があるのだ。趣味の良いインテリアか。次の人が来るまで待てばいいことはぼんやり理解したが、いつ来るのか見当もつかない。

 そして、今の男の情報源は何だ。私も次の人に、地獄について説明しなければならないのだろうか。緊張する、地獄だからこのくらいの苦しみはあって当然なのか。

 しかし、男は自らの罪状を知っていた。どこかで分かるものだろうか。私の記憶は死ぬ前と何ら変わっていない。ま、死んでいることだしどうでもいいか、と私はごろん床に横たわったが濡れて冷たかったのですぐ起き上がった。

 ここ、この部屋が地獄。地獄とは独房みたいなものなのか。 

 だとすれば確かに下界とたいして変わらないな。私だった物質を覗き込み、それに影を落としていると部屋が爆発した。

 私の身体の位置は少しもずれなかった、本当に部屋だけが爆発したようであった。看護婦と看護夫がいて、私に手術を勧めてきたので是非、と頼んだ。



 無人のプールのような、澄みきった和室で目が覚めた。腰の痛みから、長く畳上で横たわっていることが分かる。障子が薄い光を通していて暗い。両手首が床柱と結ばれていて、移動できない。

 とりあえず両の足裏を床に着けようとじりじり体育座りをし、足を尻の方へ一所懸命詰めている途中でふすまが少し開いた。

「あー!こいつ起きた!」

 小学生くらいの子が嬉しそうな足音をたてて去っていった。一般家庭に居るのか?と思って

「すみませーん!」

 男の子が駆けていった方向へ叫ぶ。

 その声の木霊のように、圧倒的気配がふすまをぶち破って飛び込んでくる。

「うわっやば」

 驚いて本能的に立とうとし、尻餅をつき柱に後頭部を打った。

 足首噛んでそいつは唸る、そいつは巨大なドーベルマン!

「俺ガオ前ノ棺桶ダゼ!」

 目覚めたばかりの急なことでアドレナリンなんてもん1mgも出ていなかったから、

「ああああっ」

 1mgも痛みに耐えきれなかった。痙攣するような痒み、痛み。反射的にもう片足で思いきり犬の脇腹を蹴り飛ばしもがいた。アドレナリンを撒き散らしながら自分の世界に没頭していった。どうでもいいけど、ジーンズを履いていた。地獄のときの格好のままだった。デニム素材のおかげで多少は和らいでるんじゃないか、と思い痛みに耐え、飛びかかってきそうな犬をバタ足と、痛みによる唸り声でぐうぐう威嚇する。こんな格好、犬にだって見られたくないものだ。

 手首の縄が緩んできている。

 首もとを噛まれそうになり、頭を振り下ろしたがそこに、頭皮にあぐあぐと食らいついてきた。ところを自由になった右手でぶん殴ると、犬は拳の勢いの3分の1ほど跳んだ。

 しゃがんだまま右手で左手を助け、自分の額から垂れる血に鳥肌を立てながら部屋を出ようとした、

 吃驚した。人が立っていて尻餅をついた。

 蛍光灯が点いた。

 銀髪キノコカットの下に血走った金眼が見開かれ、180センチはあろう体躯がかっちりとしたマットブラックのスーツに収まっている。

「ブラック・ドッグになんてことしやがる!」

 唇だけムと開いてキリキリ怒鳴り、胸をぐんぐんに張って尻餅の私を見下ろしてくる。

 なんだこいつは、銃社会の人間か?


「あんま笑えなーい」

「兄ちゃんつまらない!」

 子供が二人笑いながら去っていった。

「そうかな、この人間が真に怯える様なんて爆笑ものだと俺は思ったけど」

「こらこら、そのくらいにしときなさい、お客さんなんだから、ほらすぐに夜ご飯よ」

 エプロンを着けたおばさんが現れ、銀髪と喋りながら奥に消えた。

 私の脳は萎みました。ねぇブラック・ドッグ。



「鰐が釣れてね、雨の中のプールでだったんだけど。あ、それは夢の中での話か」

 狂ってんな。

「でも鰐が釣れたのは本当」

 朝食の席で曇り空色のちゃんちゃんこを着たお婆さんが唾を撒き散らしながらずっと喋っていて、家族は皆神妙に聴いている。誰も箸を取らない。銀髪ですら正座している。

 お婆さんは何か思い出したように急に席を立ち、縁側の方へ消えた。

 皆黙ったままおもむろに朝食を食べ始めた。

「誰かしらね今の」

 知らない人か、狂ってんな。

 

 なりゆきは記憶にないが、私はこの家の近くの藪で倒れていて、ここの家族に助けられたらしい。

 夜飯も食べずにあのまま畳の上でブラックドックと寝て、朝の4時くらいに起きた。

 障子を開けて、歩道のない薄明るい道路へとよろぼい出た。

 崖沿いに家が何件か眠っていた。家と家の間に、赤く錆びた鉄の柵に囲まれた資材場があり、そこから工場のいくつも建つ荒野が見下ろせ、遠くの丘陵に曙の雲が千切れていた。

 崖の反対は切り立った斜面、粘土質の土を踏みながら少し登るとすぐに工場の駐車場だった。白線を踏みながら、崖沿いを2キロほど下っていくと終点からひとつ前のバス停が薮に少し埋もれていた。戻って少し寝た。

 犬と闘わされたのは、『あの犬が番犬だから』という狂った理由で済まされ、居候の身の私が深くは追求できなかった。銀髪から手当てを受けた。彼は傷の深さに焦っていた。

 

 家のすぐ前をトラックがガンガンに走っているのが開け放たれた縁側から見え、音と排気ガスがうるさかったが誰も閉めようとしなかった。私は車以前に、少し寒かったので閉めたかった。

 そんな気持ちでおばさんの方をちらちら見ていると目が合って、あら、という口の動きと共に心ここにあらずな顔をされた。

「そういえば、あれがまだあったんだったわ」

「母さん、あれがあるなら食べたいよ」

 ランニングシャツの銀髪が硝子障子に凭れて胡座をかき、母さんと言われたハイビスカスのエプロンの人、トラックの絵の長袖とショベルカーの絵のトレーナーをそれぞれ着た二人の子供、さっきのお婆さんより歳のいった海老茶の着物のお婆さんが正座をして、赤いソーセージと味付け卵がどんぶりに山のように盛られたプラスチックの卓袱台を囲んでいる。

 しばらくして髪を後ろに留めた母さんが出ていき、皿に虫を盛って戻ってきた。

「お待たせしましたー」

「いただきます!」

「この虫、どうしたんですか?」

「スーパーで買ったのよ、なんでも田んぼ?ってところで大量発生したみたいでね、凄く安かったわ」

 苦川ヨシオは酷く驚いてから、その理由を食卓へ伝えた。

 家族は驚いて、ヨシオを讃えた。





 


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