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9 つながる気持ち

「ひなた……!」


 凜翔りひとは玄関先まで追いかけてきたけど、私は彼の顔を見れなかった。


「ごめん、帰るね……」


 凜翔は何か言いたげにしながらも、それ以上何も言えないといった感じでうつむき、私を見送った。今度こそ追いかけてくることはなかったーー。



 紗希さきちゃんさえ現れなければ、あきと別れずにすんだ。だけど、それは昭に振られた頃の気持ちで、今はそこまで昭に執着心はない。むしろ、今好きなのは……。



 凜翔……。まさか、私の知らないところで昭との関係を壊そうとしていたなんて……。しかも、二人が兄弟だったなんて、驚くしかない。


 ーーひなたのこと好きな気持ちにウソはないからーー


 凜翔の言葉を頭の中で反芻はんすうしてみても、いまいち実感がなかった。優しくされるたび甘い期待をしてしまうことはあったけどそれは都合のいい妄想で、好かれてるなんてこれっぽっちも思わなかったし、ましてやこんな流れで告白されるだなんて予想外だったから。


 それに、凜翔みたいに完璧な人に好かれる要素がない。自分で言ってて悲しいが、私は凡人の中の凡人で、外見スペックも紗希ちゃんと比べたら断然劣る。女として綺麗になる努力はしてるけどそれで満足いくことはなく、それなりの成果。


 もともと謎だった凜翔の気持ちが、今回のことでますます分からなくなった。


「ックシュン…!!」


 住宅街の歩道をトボトボと歩いているとクシャミが出た。昼前とはいえこの時期の外は寒いし、泥水をかぶったままだったからなおさらだ。


 凜翔が貸してくれた上着とバスタオルがわずかに風よけの役割をしてくれるけど、そこから香る優しい匂いで胸がギュッとしめつけられ、体が震えた。


 講義あるけど、今日は大学行きたくないな……。でも、とにかくまずは着替えないと、帰るにしてもこんな格好じゃ電車に乗れない。


 大学から近いショッピングモールに行くことにした。出費は痛いけど、ここからなら家に帰るより早い。


 歩きながら、数少ない凜翔との出来事を思い出してしまう。そこで、ふと引っかかっていたことが解決した気がした。


 もしかして……!


 凜翔と買い物した日、車を取りに行くと言っていた彼についていこうとしたら、さりげなく同行を拒否され、ショッピングモールで待つことになった。


 あの時はモヤモヤして仕方なかったけど、凜翔がああしたのは、自分が昭の弟だと知られたくなかったから……?


『ひなたの知りたいこと、全部話す覚悟したよ』


 さっき、凜翔はそう言った。私も彼の話を聞く覚悟をしたはずなのに、耳を傾けるどころか感情的になり逃げ出してしまった。凜翔にはまだ話したいことがあったかもしれないのに…!


 やっぱり、引き返そう。話をちゃんと聞かないと…!着替えなんて、今はどうだっていい!


 凜翔のバスタオルを両手で強く抱きしめ引き返そうとすると、スマホが着信を知らせた。発信者の名前を見てドキッとしてしまう。


 電話はゆうからだった。そういえば、最近大学で優を見かけない。こうして電話がかかってくるのも、別れて以来初めてだ。


 気が引けたものの、優の近況が気になったのでおずおず出ることにした。


「もしもし、優?」

『よかった、出てくれて。久しぶり。元気?』

「そうだね、久しぶり……。元気だよ」


 優の声は相変わらず優しくて、聞いていてホッとしてしまう。こんな状況だからよけいに。


「最近大学で見かけないけど、大丈夫?休んでるの、私のせいかなって……」

『ひなた、考えすぎ。全然そんなんじゃないよ。ホントに』


 電話の向こうで優は笑った。その顔を想像でき、ひどく懐かしい気持ちになる。


『泊まり込みで他県の親戚の店の手伝いに行ってたんだよ。お金欲しかったし、今年の分の単位はだいたい取れてるから。今日から普通に来てるよ』

「そうだったんだ。偉いね、お疲れ様。でも、大学祭の準備とか大丈夫?もうすぐ本番だし」

『大丈夫だよ。先輩や後輩に事情話して任せてあるし、元々そんなにやることなかったから。それより、ひなたの方こそ大丈夫?今日、途中で大学抜け出したって聞いて……。講義、間に合う?』


 優にまで早退のこと伝わってるんだ……。大学内の情報網ハンパないな。でも、優の親衛隊のメンバーに責められたなんて正直には言えない。そしたら優は気にしてしまう。


「うん、忘れ物して家まで取りに戻ったの。でもさすがに午前中のは間に合わないから、講義は午後から出るつもり」

『ウソつかないで。全部知ってるから』


 柔らかかった優の声が、瞬間でこわばる。


『俺の親衛隊名乗る人達に何かされたんでしょ?杏奈あんなちゃんが教えてくれた。さっきたまたま構内で会って……』

「……杏奈が?」

『あの子めったに大学来ないみたいだけど、ひなたのことが心配で今日も様子見に来てたらしいんだ。彼女、凜翔君に助け出されてるひなたをたまたま見かけたらしくて、そのことをさっき大学で俺に教えてくれて……』


 まさか、杏奈がそこまで私を心配してくれてたなんて……。


「そうだったんだ……。でも、ホント大丈夫だし優は気にしなくていいから。ケガもないし」

『気にするよ……。もしかして、付き合ってた時からそういう嫌がらせってあったの?』

「ううん、それはない!今日が初めて」


 凜翔の脅し文句が効いたのか、親衛隊メンバーは凜翔を前に青ざめていた。


「これからはもう何もされないと思うよ。だから気にしないで?」

『自分でこんなこと言うのも嫌だけど、俺のファンクラブみたいなのがあることは知ってた。昭からそういう話されてたから。でも、そこまで悪質なことする人達だなんて思ってなかったんだ。こわい思いさせて本当にごめん……。俺のせいだ……』

「優が謝ることないよっ。私もあの子達に挑発するようなこと言っちゃったから自業自得だし!」


 あえて明るくそう言ってみても、優のうれいは消えないみたいで、それから何度か深刻な声音で謝られた。


『どれだけ謝っても許されない。本当にごめん……。ひなた……』

「ホント、大丈夫だから。理不尽なことされたのはたしかに嫌だったし腹立ったけどさ……。あの子達が嫉妬する気持ちも分かるんだよね。好きな人が自分以外の人を見てたら、やっぱりつらいよ。誰だってさ」


 凜翔が紗希さきちゃんと付き合ってるのかもしれないと知った時、すごく嫌で、嫉妬で心が真っ黒になりそうだった。


『ひなたは強いね……』

「ううん、弱いよ」

『弱さを受け入れられる人は強いなって、俺は思うよ。それも、凜翔君の影響?おめでとう』

「おめでとうって?」

『彼と付き合えることになったんでしょ?遠慮しなくていいよ。俺達もう別れてるしさ』

「いや、待って!凜翔とは付き合ってない!」

『そうなの?杏奈ちゃんの話だと、凜翔君がひなたを大学から連れ出してたってことだったから、そうなんだとばかり……』


 優は勘違いしていた。


「たしかに凜翔に助けてもらったけど、ホントそういうのはなくて……」

『そうなんだ……。勘違いしてごめん。でも、ひなたは凜翔君のこと好きなんだよね』


 優と別れた日に凜翔のプロフィールを印刷した紙を見られてしまったことを思い出し、胸に苦いものが広がる。


「……優、凜翔と知り合いだったんだね……」

『凜翔君に聞いたんだね。そうだよ。昭んちに遊びに行った時、何度か話したことがある。凜翔君、たいてい家でピアノの練習してたから、一緒に遊んだりとかはなかったけど……』

「……そうだったんだ……」


 私が凜翔のプロフィールを見てることを知って、相当傷付いたに決まってる。それなのに責めないでいてくれて、今も心配してこうやって電話までしてくれて……。謝ってすむことじゃないけど、何回謝っても足りない。


『色んな意味で凜翔君には敵わないって、あの時思った』


 あの時。それはいつのことなんだろう?


 白状するみたいな口ぶりで、優は語り始めた。


『詳しく教えてはもらえなかったんだけど、彼、けっこう前からひなたのことが好きだったんじゃないかな』

「そんなはずない…!凜翔がそう言ってたの?」


 信じられなくて、つい、反発的に返してしまう。


「ごめん、熱くなって……」

『ううん。俺もごめんね。凜翔君が直接そう言ってたわけじゃないけど、彼の様子見てたら分かるよ。ひなたのこと好きなんだろうなーって。昭んち行って、昭とひなたが楽しそうにしてるの見て、俺も凜翔君と同じ気持ちになったしね。ヤキモキ、みたいな』


 そうだったんだ……。


 優に対して無神経だけど、凜翔がそう思ってくれてたかもしれないと知って顔がニヤけてしまう。


「でも、私、昭んちで凜翔と会った覚えないんだけどな……」


 昭との会話で弟がいるってことは知ってたけど、直接会ったことはなかった。それに、凜翔みたいに魅力的な人、一度会ったらそうそう忘れないと思う。記憶力にはあまり自信がないけど……。


『やっぱりひなたは覚えてないんだね、でも、そうかもしれない。凜翔君は昔からクールで口数の少ない子だったし、ひなたが来ると彼は決まって自分の部屋に隠れちゃってたから。奥手なのかも』

「そう、なの…?」


 奥手で無口な凜翔なんて、全然想像つかない。凜翔はいつも適度な相槌あいづちを打ってくれたからすごく話しやすかった。かといって、優がウソをついているとも思えない。


 優と昭は中学時代からの友達だ。もしその頃から優が凜翔と顔見知りだったとしたら、私の知らない凜翔の過去を知っているってことになる。興味が湧いた。


「優って、凜翔が子供だった頃からよくしゃべってたの?」

『よくってほどじゃないよ。凜翔君、俺んちの近所で少林寺拳法習ってたから、その関係でたまに顔合わせる程度で。一応こっちは年上だから色々話しかけてはみるんだけど、凜翔君はそっけないというか人見知りなタイプで、よくしゃべる昭とは真逆だなって思ったよ。でも、大学生になってから凜翔君は変わったよ。優さん達には負けない。面と向かってそう言われてビックリした。彼はそれだけ言ってまた自分の部屋にこもっちゃったけど、ひなたのことで宣戦布告してるんだってすぐ分かった』


 それって、レンタル彼氏のバイトを始めたから…?店のプロフィールに、この仕事を選んだのは自分磨きのためと書いていたのを思い出し、何かがつながった。


『昭も凜翔が変わったのに気付いてビックリしてたし、俺も驚いた。急にどうしたんだろう!?って。でも、納得したよ。ひなたの持ってたレンタル彼氏のプロフィール見て』


 優はしみじみと言った。


『思わぬ伏兵だったよ、凜翔君は。……でも、ここへ来て壁にぶつかったみたいだね』

「……」

『もう隠さなくていいよ。ひなたも彼のことが好きなんでしょ?何を迷うことがあるの?』


 優しい口調で訊かれ、私は事情を話したくなった。


「昭の今の彼女、凜翔が引き合わせたんだって……。言い訳とかもなく、ただ私のことが好きだからそうしたって、凜翔は言ったの」

『そうだったんだ……』

「ショックだった。凜翔はそういう計算とか策略とかしない人だと思ってたから……」

『ひなたは純粋でまっすぐだから、なおさらショックだよね。分かるよ』


 励ますように言い、優は意見を口にした。


『でもさ、恋愛において腹黒くない人なんているのかな?凜翔君の肩を持つわけじゃないけど、欲しいものを手に入れたくなった時、人って綺麗でばかりいられないと思う』


 その言葉にハッとした。私も優を利用したし、人のこととやかく言えないや。優はそんなつもりで言ったんじゃないだろうけど……。


「そうだね。優の言ってることすごく分かるよ。でも、なんかね、やっぱりショックだったんだ……。凜翔に限ってそんなことはしない!みたいな目で見てたから」

『美化してたってこと?』

「だと思う」

『好きならなおさらだよね。分かるよ、それも。好きって気持ちがすでにフィルターなんだろうし。でもさ、凜翔君って本当に悪いことしたのかな?」

「え……?」

『……考えてみて?たとえ凜翔君が意図的に昭に女の子を近付けたのだとしても、それで勝手に心変わりしたのは昭だよ。昭がしっかりしてれば、凜翔君の思惑通りにはいかなかったと思う』


 それもそうだ!言われて初めて、私は凜翔のことを改めて考え直す心持ちになった。


『それにさ、そのことでひなたはたくさん苦しんだけど、苦しむのももったいないくらい、昭には価値がなかったと思う。元親友として、ここまで昭を悪く言うのはあれだけど……。ひなたは悪くないから。それに、凜翔君はきっと……。ううん、何でもない』

「え……。優?」

『ごめん、そろそろ次の講義始まるから切るよ』

「あ、そっか、そうだよね。わざわざ電話くれてありがとう!」


 最後、何かをごまかすみたいな締め方をされてすごく気になったけど、優につられて私も電話を切った。



 これからどうしようかな……。優に心配かけてるから遅れてでも大学には行きたいけど、今は凜翔に会いたい…!1秒でも早く!



 優に色々聞けたおかげで、凜翔への距離がまた一歩近付いた気がする。人からの情報も大事だけど、やっぱり最後は本人と話して決めたい。


 凜翔の家に向かう途中、杏奈から電話が来たので、歩きながら話すことにした。


「さっき、親衛隊のことで優から電話があった。杏奈が伝えてくれたんだよね?ありがとう…!」

『ううん、こっちこそ勝手なことしてごめんね。焦って思わず、通りかかった相馬そうまに言っちゃって……。それより、本当に大丈夫?』


 優と私が別れてることを気にして何度も謝り、杏奈は心配してくれた。


「もう、全然大丈夫!ホントにありがとうね」


 特別親友って感じでもないのに、どうして杏奈はそこまでしてくれるんだろう?


「杏奈こそ色々忙しいのにわざわざ大学まで様子見に来てくれたんだよね。この前もそうだったし……。こっちこそごめんね」

『ひなたは覚えてないかもしれないけど……。大学入ってちょっと経った頃、皆で飲み会に行った時、たまたま隣の席だったひなたは、私の夢を応援してくれたんだよ』


 そういえば、入学当時の杏奈は今と違って無気力な感じだった。それなりにしゃべってはくれるけど心ここにあらず、みたいな。


『ホントはお菓子の専門学校に行きたかったのに、高校の頃、三者面談で担任に大学の方がいいって言われたから親もそうしろって言い出して……。仕方なく受験したものの周りの子とノリ合わないしモチベーション上がらないしで、大学入って早々辞めようかなって、あの頃はホントに悩んでたんだよね……。出会う人は皆「夢より遊びだ〜」って感じで、まともに話を聞いてくれる人なんていそうになかったし。そんな時、ひなただけは私の話に興味持って目を輝かせながら背中押してくれた。大学は今も義務感で行ってるからそんなに好きじゃないけど、ひなたがいるから続けられてる。もちろん夢は諦めてないし』


 杏奈は今、大学生活のかたわら洋菓子店のバイトに行っていると言った。


 杏奈は入学当初からお菓子作りが好きだと言っていた。雑談だけする軽い付き合いと思ってたけど、何度か手作りクッキーやケーキをもらったこともあった。お礼にご飯をごちそうしたりしてたけど、まさかそこまで感謝されてるなんて思わなかった。


『ひなたにとってはささいなことでも、その優しさが人を救ってるってこと、あると思うよ。だから、大学で何か言われても気にすることない。私は味方だからさ!』


 杏奈の言葉が、今までで一番あたたかく感じたし、素直に受け入れられた。


「感謝されるようなことなんて全然してないけど、でも、杏奈の力になれたのなら私も嬉しい。最近大学行くの憂鬱だったけど、杏奈のおかげで気分が楽になったよ」


 ウワサなんて、もう気にしない。少なくとも分かってくれる人はいるんだから。



 杏奈との電話を切る頃には、海崎かいさき家が目に入る所まで来ていた。緊張したけど、グッと両手を握りしめ自分を奮い立たせる。


 何を聞いても、もう、凜翔から逃げないーー!


 深呼吸をして先に進むと、玄関扉にもたれている凜翔と目が合い、


「っ……!」


 私は思わず息をのんだ。


 凜翔は、さっき私に振り切られた後からずっと、家の中にも入らずこうして外にいたらしい。


「ひなた……」

「ずっとそこに立ってたの?」

「うん……」


 追いかけたかったけど、そんな資格ないから。凜翔の目がそう言い、悲しげに揺れる。


「もう逃げないから。話、聞かせて……」



 凜翔も緊張しているらしい。私を先に自室へ通すと、ペットボトルのお茶やお菓子を用意して凜翔は戻ってきた。さっきと違い、今度はお互いに向き合って座った。


「ひなたは、10月のレンタルデートが俺との初対面だと思ってるけど、本当はもっと前に会ってるんだよ」


 それは、今からちょうど2年前。季節は秋。私が大学1年の頃の話だった。


 昭と付き合ってまだ3ヶ月目という、恋愛初期の楽しい時期。昭と会うのが楽しくて仕方ない一方、連日の講義やバイトはハードだった。ようやく大学生活に慣れてきたとはいえ、スケジュール調整がうまく出来ず、体調管理も甘かった。


 心晴こはるをはじめ大学でできた友達との付き合いも大事にしたかったので交際費がかさむ。だからバイト代はたくさんほしかったし、遊びの誘いはできるだけ応じた。もちろん昭ともたくさん会いたかった。


 だけど、昭は昭で友達付き合いが活発なタイプだったので、デートに誘っても断られることがけっこうあり寂しい思いもした。彼と会える時間は、だんだん貴重なものになっていく。


 そんな中、久しぶりに昭と会えることになった。しかも、家族と住んでるのに家に来ていいとまで言ってくれた。何が何でも行く!と息巻いて、メイクやオシャレにも普段の倍気合を入れた。


 初めて家に呼ばれたその日、疲れがたまっていたらしく微熱があり胸も少し苦しかったけど、たいしたことないと自分をごまかし、昭の家に行った。断ったら、次いつ会えるか分からないから。


 最初は無理して元気に振る舞ってたけど、その結果、風邪をこじらせて昭の部屋で寝込むことになってしまった。自力で立つことすらできないほど意識も朦朧もうろうとする(後々行った病院で叱られ分かったのだけど、その時私は肺炎になりかけていたらしい)。


「なんで俺のためにそこまで無理するんだよ。ちゃんと寝てろ。全く……」


 困ったように優しく手を繋いでくれる昭に安堵あんどして、しばらく目を閉じた。普段家のことなんて何もしてなさそうな昭が私のためにせっせと布団を敷いてくれたのがただただ嬉しかった。


 途中、昭が部屋から出て行ったことも気付かず、私はぐっすり寝ていたらしい。


 その時だった。隣の部屋からピアノが奏でるメロディーが聴こえた。意識がはっきりしない中でも、その音はとても心地よく印象に残った。


 その時のことを、凜翔は語る。


「昭の彼女が倒れたって聞いて、さすがに俺も心配になった。父さんと母さんは留守だったし、病状ひどいなら医者呼ばないとと思って、ピアノの練習中断して昭の部屋に行った。それが、俺が初めてひなたに会った日」

「そうだったんだ……」


 その時、凜翔に会ってたんだ……。全然記憶にない。昭の部屋で寝込んだことは覚えてるのに。


「この前、軽音楽部の部室で凜翔が弾いてた曲、有名だよね。だけど、街中やテレビとか以外で過去にもどこかで聴いたことある気がして……」

「覚えてたんだ。……そうだよ。部室で弾いてたのも、寝込むひなたに聴かせてたのと同じ曲だよ。ショパンの『木枯らしのエチュード』」


 それから、凜翔は自分のことをポツポツと話し始めた。


「高校、音楽科に行ってたんだよ。でも、毎日毎日、息がつまりそうだった。先生から見たら才能ある生徒だったみたいで、過剰に期待されたり、音楽科の中の生徒で俺だけ厳しく監視されてた。ピアノ弾くのが好きで入った高校だけど、完成度の高い演奏が義務みたいな授業方針にも気後れして……。モチベーションって演奏にも表れるから、その頃、ピアノもうまく弾けなくて行き詰まってた。周りの期待の分、できないと干渉ひどいし……。悪循環だよね」


 悩む凜翔を救ったのは、寝込む私が口にした一言だった。


「こんなに感情豊かで優しい音楽、初めて聴いたよーー。ひなたはそう言って笑った。その後すぐ眠っちゃったから、寝言だったのかもしれないけど……」

「私、そんなこと言った?」

「そういう反応になるよね。うん。分かってた」


 私の反応に呆れるでもなく、凜翔は微笑した。


「先入観のない素直なひなたの感想がとても嬉しくて、心の奥までしみわたるように優しくて、涙が出たよ。色々悩んでピアノを嫌いになりかけてたけど、本当は演奏するのが好き。その気持ちを思い出せたから、その後はまっすぐ音楽に向き合えた。大学では自由に音楽やりたかったから音楽系の大学には進まなかったけど、高校の3年間しっかりやり遂げたっていう自信が今の自分を支えてる。ーー他にも好きな曲たくさんあったのに、あの日から『木枯らしのエチュード』は俺にとって特別な曲になった」


 凜翔は、音楽科での授業がつらい時にこの曲を弾いて自分を鼓舞こぶし、私のことを思い出してくれていたそうだ。


 凜翔ほどその時の事を明確に覚えていないのが残念で仕方ないけど、無意識に彼のピアノを覚えていたことは私もすごく嬉しい。


 和む私を切なげに見つめ、凜翔は言った。


「昭の彼女だって分かってたし、憧れで終わらせるつもりだった。でも、できなかった」


 昭と私の間に立ち入る隙はない。そう思い、凜翔は家に居ても、昭が私を連れてきた時は自分の存在を隠すようにしていた。そんなことが日常となったある日、凜翔は昭の行動に疑問を感じるようになったという。


「……ひなたも気付いてたかもしれないけど、昭はひなた以外の人とも仲良くしてた。リビングで電話したり、駅前で会ってるの見た。それも、一度や二度じゃない」

「そ、そうだったの!?全然知らなかった……」

「ごめん……。知ってると思って……。よけいなこと言ったね」

「ううん、平気」


 昭と付き合ってた頃に聞いてたら大ダメージを受けただろうけど、昭への未練が消え去った今なら落ち着いて受け止められる。……多少、腹は立つけど。昭のヤツ、紗希ちゃん以前にも女の子にいい顔して、最悪浮気を繰り返してたのかもしれないのか。


 私の気持ちを気遣って言葉をにごそうとしていた凜翔も、


「私なら大丈夫。凜翔の話、最後までちゃんと聞きたい」


 そう言うと、静かにうなずき答えてくれた。


「どうやったら昭はひなたのことだけ大切にするようになるだろう……。色々考えて遠回しに昭に色々言ったけど全然通じてなくて、いい加減な行動やめそうになかった」


 昭の言動を正せないまま凜翔は大学生になり、軽音楽部に入った。高校時代より気楽に音楽を楽しみたかったから。凜翔はキーボード担当。凜翔と同時期に入ってきた紗希ちゃんはボーカルを希望した。


 紗希ちゃんは凜翔と同じ高校の音楽科出身らしいが、高校時代二人はただのクラスメイトの関係で行動を共にする友達も違っていたので、軽音楽部に入るまで互いのことをよく知らなかった。でも、他の軽音楽部メンバー達を含めてバンドを組んでライブや練習をしているうちに親しくなっていった。


 今年の夏を迎える頃には、結成したばかりのバンドとは思えないくらい、メンバーの仲は良くなった。演奏や方向性のことで多少揉めることはあったけど、それも親しいからこそのぶつかり合い。


「夏休みが始まるちょっと前、メンバーがここに遊びに来たんだ。その中に紗希もいて……」


 その日、たまたまリビングにいた昭は、トイレを借りようとしていた紗希ちゃんにその場所を案内したらしい。


「その時二人がどんなやり取りをしたのかは知らないけど、紗希が昭を好きになったのはその時だったと思う……。その後、紗希に昭のことやたら訊かれたから」

「……そうだったんだ」


 私が昭に振られたのは、たしかにその頃だ。


「話してくれてありがとう。でも、やっぱり凜翔は悪くないよ。昭が心変わりするキッカケはたしかにその時だったかもしれないけど、そんなことで気持ちが変わるくらいなら、いつか同じような理由で別れてたと思う。それが早くなっただけだよ。よかった」


 紗希ちゃんだけじゃない。世の中には、昭の心変わりを促すような可愛い子がいっぱいいる。それこそ、私以上に魅力的な人なんて数えたらキリがない。


「だから、もう、罪悪感とか持たなくていいよ。私ももう、昭のこと何とも思ってないし……」

「……ううん。それだけじゃない。紗希から昭のこと相談された時、俺、こう言ったんだ。『彼女とうまくいってないみたいだから、頑張れば奪えるかもよ』って。真に受けた紗希はその通り昭を押した。俺が何も言わなければ、紗希はあそこまでしなかったかもしれない」


 紗希ちゃんを動かしてしまったことの後悔を感じる一方で、凜翔はこうも思ったらしい。……不誠実なことばかりして大切にできないなら、昭からひなたを奪ってもいいよね?……


 とても信じられなくて、私はポカンとしてしまう。


「凜翔が……?そんなこと言うイメージないよ」

「そう?ひなたが思う以上に狡猾こうかつなんだよ。昭に対して『紗希と付き合ってひなたの大切さを思い知って後悔すればいい』とも思った」

「……」

「この前紗希がひなたに突っかかったのも俺のせい。紗希の恋愛事情なんてかまわず俺が自己中な助言したから、紗希は昭とうまくいってない。それで、八つ当たり的にひなたを攻撃したんだと思う。昭絡みの件でひなたが嫌な思いしたのは全部、俺のせいなんだよ……」


 うつくむ凜翔の声が弱々しい。今まで誰にも言えなくて苦しかったんだと思う。私が抱えるはずだったものを、凜翔は人知れず抱えていたんだ。


 たしかに凜翔は紗希ちゃんをその気にさせたかもしれない。でも、それは凜翔の全てじゃない。


 私が悩んだ時、親身に話を聞いてくれた。服選びとか恋愛のグチとか、普通の男の人なら面倒に感じそうなことも嫌がらずに付き合ってくれた。それが凜翔の思い。それも凜翔の側面。



 『自分が見た相手を信じ抜くしかないんだよ』ーーこの前、心晴が言ってくれた言葉。本当にその通りだなと、今、強く思った。



 凜翔が話してくれたことを胸の中で繰り返し、私は尋ねた。


「……さっき言ったよね。親衛隊のことで私を陰から見守ってくれてたって。それって私に罪悪感があったから?」

「うん……」


 軽音楽部の部室で会ってから今日まで、凜翔は私の前に現れなかった。それは罪悪感のせいだった。


 紗希ちゃんと会うまでは連絡先さえ知らないのに凜翔と会えていた。それらの偶然は凜翔が作ってくれてた必然なんだと、この時分かった。


「……昭に紗希を会わせた。そのことで苦しむひなたを見てたクセに、自分のしたこと隠して相談聞いてた。紗希を通してそのことはもうバレてると思ったし、ひなたに嫌われたと思ったら合わせる顔がなかった。ハッキリ拒絶されるのがこわかった……」

「嫌いになってなんかないよ」


 むしろ、私は……。


「優と別れたよ」

「ウワサでちょっと聞いたけど、本当に別れてたなんて……」


 凜翔は頭がいい。きっと、優との間にあったことは、口にしなくても察しているんだろう。


「凜翔は、私に対して罪悪感しかない?」

「えーー?」

「そうじゃないって自惚うぬぼれたい。連絡先教えてほしいって言ったら、今度こそウンって言ってくれる?」


 スマホを両手で持ち、凜翔の顔を覗き込んだ。そこには、うっすら頬を赤くして困ったような嬉しいような複雑な顔をする凜翔がいた。初めて見る彼のいじらしい表情に胸が甘くしめつけられる。


「ひなたと連絡先を交換しなかったのは、自分への戒めと、独占欲を抑えるためだった」

「独占欲…?」

「これ以上ひなたがそばに来ることを望んだら、自分のしてきたこと都合よく隠してしまいそうだった。その反面、優さんと付き合ってるひなたと連絡先を交換するのはこわかった。どんどんハマっていきそうで……」


 凜翔は、伏せていた目をまっすぐこちらに向けた。


「俺だけのひなたになってくれる?」

「ちょっと前から、心は全部、凜翔に持ってかれてたよ」

「……ひなた」


 もどかしそうな目で見つめ、凜翔は私の体を力いっぱい抱きしめた。


「くっ、苦しいよ、凜翔っ」

「ごめん。今は加減できそうにない」


 凜翔の匂いとたくましい腕に、とろけそうな気分だった。少林寺拳法をやっているだけあって、細身なのに力強い。ちょっと苦しいけど、でも、嬉しい。


 胸の奥から湧いてくる感情に、今はただ浸りたい。凜翔も同じ気持ちでいてくれると思うと、幸せで仕方なかった。



 この時、サイレントモードになった凜翔のスマホが何度も着信を知らせていたことを、私達は知らなかった。

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