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8 愛されたくて

「お前マジうぜー……」


 それはたしかに紗希さきちゃんの声だった。その可愛い顔も、言葉遣いのせいか歪んで見えてくる。


「好きな男を信じる自分純粋ーとでも思ってる?だいたいさ、そんなウソついて私に何の得があるの?引くわー。理解できねえ……」


 どうしてここまで言われなきゃならないんだろう?


 大学でもバイトでも私の方が先輩だし多少の悪意は流そうと思っていたけど、さすがに我慢の限界だった。あきを奪っておきながら謝ることもなく開き直る彼女に心底腹が立ち、今までで一番、人を嫌いだと思った。


 最悪バイトを辞めなければならなくなるけど、気分が怒りや悔しさに染められるとそんなことどうでもよくなり、気付くと紗希ちゃんに強く言い返していた。


「……この間から思ってたけど、何でそこまで突っかかってくるの?私、紗希ちゃんに何かした?ネチネチ不愉快なこと言ってないで、言いたいことがあるならハッキリ言えば!?」

「……っ!」

「何?早く言って。もうバイト始まるから」

「……」


 それまでの暴言がウソみたいに紗希ちゃんはおとなしくなった。ここまで反撃されると思っていなかったのかもしれない。


 ため息をつき、私は話をまとめた。


「今後はこういうのやめてね。ここバイト先だから。仕事中は普通にしよ?」


 その時、更衣室の扉が勢いよく開いた。飛び込んできたのは昭だった。


「ちょ!ここ女子更衣室!」

「いいじゃん、着替え終わってるみたいだし!」


 悪びれなくヘラヘラする昭を見て、脱力した。空気の読めない人だ……。


 私が呆れているのに気付いているのかいないのか、昭はひょうきんに言う。


「それより、二人が更衣室にいるかもって店長に聞いて、焦ったって!」

「それで慌てて来たの?」

「だって、なあ?」


 「なあ?」じゃねえよ。心の中でツッコんでいると、紗希ちゃんがか弱い表情で昭の胸に飛び込み、猫なで声を出した。


「このおばさんこわい!私まだ入ったばかりなのに、さっそくいじめてくるんだよ?昭、先輩でしょ?助けてよぉ……」

「紗希、おいっ…!」


 戸惑いつつも昭はまんざらじゃなさそうに紗希ちゃんの頭をなでる。その姿を見て、体中をめぐる熱いものがサーッと冷めていった。二人が仲良くしている姿を見たら心底ショックを受けるだろうと思っていたのに、そうでもなかった。


 ……って、え?おばさんって私のこと?たしかに、紗希ちゃんより年上ではあるけど、世間的に若者に分類されるはずだ。口が悪いにもほどがある。世の中の21歳に謝れ!


 イラっとした直後、呆れた。本人にはどうにもできない部分を悪く言うことで攻撃して優越感にひたる彼女のおろかさに。


「ははは。そっかぁ、紗希ちゃんには私がそう見えるんだ。じゃあ、あと2年後には紗希ちゃんもおばさんだね。それまで昭に好かれてるといいけどね」


 無感情に言い残し、私は一人で更衣室を出た。


 強気で言い返したのはよかったものの、次の瞬間、絶望感でいっぱいになった。


 今のやり取りは、紗希ちゃんを通して凜翔りひとの耳にも入る!しかも、実際より悪い表現となって!明らかに私の方が不利だ……。


「終わった……」


 女のプライドとか、言われっぱなしで悔しいとか、そういうマイナスの気持ちが、紗希ちゃんの一挙手一投足で簡単に爆発してしまった。よく、人の中身は関わる人間の質に左右されるというけど、それってこういうことなのかな。しみじみと実感する。


 今後も紗希ちゃんには深入りしたくないな……。精神衛生上よくない。でも、彼女は凜翔と同じ学部でタメ。そして、同じ軽音楽部に入るくらいの仲。


 紗希ちゃんと昭が付き合ってるんだと分かった今、彼女と凜翔の関係がますます謎めいてくる。恋人同士じゃないのはたしかなのに、どうして凜翔はそう言ってくれなかったんだろう?


 軽音楽部の部室で再会した時、紗希ちゃんとの関係について凜翔は何も言わなかった。そして、私と紗希ちゃんに会ってほしくなかったとハッキリ言った。


 もしかすると、紗希ちゃんはあの可愛さを最大限利用し、昭と凜翔で二股をかけているのかも!だとしたら合点がいく。昭は紗希ちゃんに甘えられてデレデレしてたし、凜翔も紗希ちゃんを大切にしている感じだった。可愛い女の子はとにかくモテる。二股も充分あり得ることだ。紗希ちゃんは二面性があるというか、色々黒そうだし……。


 実際、凜翔は私に連絡先を教えてくれなかったし、家の場所も知られたくなさそうにしてた。さっき紗希ちゃんが言っていた言葉がホントだとしたら、凜翔は私につきまとわれることを嫌がっているということになる。


 胸がじくんと痛んだ。昭と紗希ちゃんがイチャつくのは平気だったのに、凜翔に嫌われているかもしれないことはとてもショックだ。


 紗希ちゃんと付き合ってるかもと思った時は凜翔のことを諦めるつもりだったけど、そうじゃないかもしれない今は、やっぱり嬉しくなってしまう。でも、悔しいことに紗希ちゃんの攻撃ゼリフが耳から離れない。


 凜翔は内心私にうんざりしているのかもしれない。仕事柄隠すのがうまいだけで、私のことなんて何とも思っていないのだろう。部室で再会した時、私と違い凜翔は動揺しかしてなかったし、嬉しそうでもなかった。


 心晴こはるの頼みで三人で大学祭を回ることになったけど、それもキャンセルするべきかな……。凜翔には嫌われたくない。



 その日のバイトは、今までで一番きつかった。紗希ちゃんや昭に気を遣うし、バイト仲間の同情や好奇の視線が刺さる。


 紗希ちゃんのバイト開始を申し訳なく思っているのか、昭はヒマな時間に何度か呼び止めてきたけど、


「ごめん、まだやること残ってて」


 無理矢理雑用を探し、取り合わなかった。昭が私を気にかけるたび、紗希ちゃんが睨んでくるのが分かるので、それも嫌だった。


 長く続けてきたバイトは好きだけど、今日はさすがに辞めたくなった。



 帰りの電車の中、空いた座席に座りスマホを開くと、1件のメールが来ていた。杏奈あんなからだった。


《大学、大丈夫?何かあったらいつでも言ってね。って、私あんまり大学行ってないから頼りないかもしれないけど。

心晴、もうすぐ引っ越すんだって?ビックリしたよ。ひなたと心晴って昔から仲良かったし、心細いよね》


 杏奈のメールを見て、泣きそうになった。人の少ない車両で、肩が震えた。


 杏奈とは軽く雑談するだけの関係だと思ってたのに、ここまで気にかけてくれるなんて……。普通にしてくれる子もいるけど、大学で会う友達は相変わらず皆そっけないし、大勢の人がいるサークル活動に参加しても孤独を感じてしまう。だからよけい、杏奈のメールが心にしみた。


《ありがとう。大丈夫だよ。今日バイトで気分転換してきた(笑)また遊ぼ♪》


 返信し、スマホをカバンにしまう。


 昔、悩んだ時に真っ先に頼る相手は心晴だった。一番の女友達で親友だから。今もそれは変わらない。……そのはずなのに、今、心に浮かぶのは心晴の顔じゃなかった。


「凜翔に会いたい……」


 嫌われているのかもしれなくても、好かれてなくても、いい。それは仕方ない。ただ私が、ワガママに彼と会いたいーー。



 凜翔と初めてデートして、その後、望んでもないのに彼はしょっちゅう目の前に現れた。今こそそういう偶然を強く求めているのに、望む気持ちの大きさを反映しているかのように、都合のいい偶然は起こらなかった。


 会えない日々の数だけ、凜翔への想いは膨らんでいく。


 好き。会いたい。愛されたい。できることなら同じ想いを返してほしいーー。



 どうにもならない気持ちを持てあます一方、本音をかき消すように日常を送った。色のない時間が過ぎていく。



 ゆうも、私と付き合ってる時、こんな気持ちだったのかな。繋がっているようで一方通行な恋。そんなの、つらいに決まってる。離れることを選んだ優は、正しい。


 だったら私も、凜翔のことは忘れるべきかもしれない。次はまともな恋愛をしたいから。


 頭では追ったらダメだと分かる。だけど、心は正直だった。凜翔に選んでもらった服を見るたび、好きの気持ちは縮むことなく膨らんでしまう。一緒に楽しく買い物や食事をしたこと、凜翔の表情、車の中で感じた優しい匂い、凜翔の手のぬくもり、全てが昨日のことのようによみがえる。


 だったらいっそ、凜翔のことを思い出してしまう服は全て捨ててしまおうかと思い、ゴミ箱に突っ込もうとしたけど、涙が出て無理だった。


「凜翔との唯一のつながりはこれしかないのに……。なくなるなんて、嫌……」


 昭を好きになった時以上に大きな想いだった。病むほど好きとはこういうことなんだと、今さらながら恋を知った瞬間だった。だけど、自覚したって報われない。


 自分で自分がやばいと思った。


 そこで、一度冷静に考えてみることにした。


 凜翔はレンタル彼氏だ。プロフィールも細工して女性客に夢を売るための架空の存在。実在するけど二次元アニメのようなもの。よって、私の気持ちは錯覚で、一時の気の迷いなんだ!


 それを確実にするため、凜翔の働く店でレンタル彼氏を予約し、バイトを休んでその人と会うことにした(凜翔の店で予約をしたのは、一度利用したことのある店の方が安心できるからだ。決して彼を意識したからじゃない!決して…!)。


 きっと、ときめかせてくれるはず。凜翔と同じように楽しい時間を過ごせるはず。デートする相手が変わっても、レンタル彼氏は皆同じなんだから。


 ーーそう思ってデートにのぞんだのに、期待は大きく外れた。この人ーーカイトさんは4つ年上でかっこよく気遣い上手な人なのに、どれだけ言葉を交わしても全く心が弾まなかった。


「退屈させちゃってますよね?」

「いえ、そんなことは!」


 柔らかい口調でカイトさんにかれ否定したけど、その通り、全然楽しくないから困る。だけど、冷たくするのも失礼なので楽しむフリをしていたのだけど、さすがプロというべきか、カイトさんは私の本音を見破った。


「……こんなことを言って気分を悪くさせたらごめんなさい。ひなたさんは初回のデートで凜翔をご指名でしたよね。どうして今回は私を指名して下さったのですか?」

「それは、えっと……」


 凜翔を忘れるために適当に選んだ……とは、言えなかった。


 言いよどむ私を見て、カイトさんは「ああ!」と、何かに気付いた。


「指名したくてもできないですよね。彼、近頃店に休日願いを出していますから」

「そうなんですか!?」


 知らなかった。他の女性とデートしていないと知り喜んでしまう反面、心晴が予約してくれた大学祭のデートのことを思い出し、カイトさんの情報に引っかかる。


「でも、休んでいても予約は入るんじゃないですか?彼、人気ありそうですし……」

「そうですね、たしかに彼はランクの高いスタッフで、今も、限定的に予約を受け付けてはいます。でも、ここ1ヶ月は、それまでのやる気がウソのようにパッタリ出勤率が減りました。10月くらいからですかね…そう!ちょうど、ひなたさんが凜翔を指名して下さった頃からですね、彼が変わったのは……」


 含みのあるカイトさんの物言いに気付かないフリをした。凜翔に関する新しい情報を得て、喜んでしまう。期待なんてしたらいけないのに、都合のいい風に考えそうになり胸が弾む。


 どうしようもないな、私は……。やっぱり、何をしても凜翔を好きなのをやめられないんだ。


 カイトさんが何か言いかけていた時、背後から急に右手をつかまれ、私は小さい悲鳴をあげてしまった。


「バイトサボって何してんの?」

「昭……!」

「悪いけど、コイツと話しあるから」


 こっちの反応など無視でカイトさんにそう告げると、昭はそのまま強引に私を連れていく。カイトさんに頭を下げ、昭に誘導されるがまま私は裏路地に来た。


 デート料金は基本振り込みで前払いするのでカイトさんとはこのままサヨナラしても何の問題もないが、なぜ昭にこんなことをされなければいけないのか分からなかった。


「手、離して。話って何?」

「お前、バイト先でもあからさまに避けすぎ。今日だってバイト休んで男と会ってるって、どういうつもりだよ」

「バイトサボったことは悪いと思ってる。店長達に対しては。でも、昭に責められる理由が分からない。私達もう終わってるのに。それに、今日のバイトは昭だって入ってたはず。サボったのはお互いさまじゃん!」

「バイトは行ったけど、店長にワケ話して抜け出してきたんだよ。お前が休んだの多分俺のせいだから、話して説得してくるって言ったら分かってくれてさ。……別れた後も普通にしゃべってくれてたじゃん。なのに、紗希が入ってきてから避けるってレベルじゃなくなったから……。仕事やりづらくて仕方ないんだけど」

 

 聞いているうちに腹が立ってきた。昭が紗希ちゃんと付き合ったことでこっちも色々やりづらいのは同じなのに、どうしてこっちばかりここまで言われなきゃいけないんだろう。


「仕事に必要な会話はしてるし、用件だってちゃんと伝えてるよね?それ以上どうしろっていうの?紗希ちゃんの前でニコニコして昭にも愛想よくしろって?」

「違う!俺はただ……」

「そっちの都合ばっかり押し付けないでくれる?で、元カノに理想語るのもやめて。私には昭の望み叶える義理もないし、言うこと聞く気もないから!じゃ」


 ムシャクシャした気分で立ち去ろうとすると、昭に強く抱き寄せられた。


「離してよ!こんなとこで何考えてんの!?」

「誰もこねえよ、こんな裏路地」

「そういう問題じゃないっ!昭には紗希ちゃんがいるよね?元カノに抱きつくとかバカなの?もし私があの子に刺されるようなことがあったら昭のせいだからね!?」

「いいよ。俺のせいにしたら?」

「は!?そんなん嫌だし!」


 ワケがわからない!思い切り身をよじっても、昭は私を離してくれなかった。


「今さらこんなことされたって嬉しくなんかない!離してよ!バカ昭!!」

「ホント、バカだよな……」


 抱きしめてくる腕が緩むと同時に、私は全力で昭から離れ距離を取った。昭の口調はしおらしくなり、今まで見せたことのない弱気な顔をした。


「やっぱり俺、ひなたのことが好きだ」

「え?……今さら何言ってるの?……あ、そっか。何かの罰ゲームか!元カノに告ってこい的な」

「大学生になってまでそんな遊びする奴いねえって。分かれよ」

「分かるか!」


 ツッコミのごとく反射的に返した私に、昭は泣きそうな目を向けた。


「長い間一緒にいて、ひなたがそばにいるの当たり前になってた。そんな時に紗希と出会って、告られて、新鮮な恋を思い出して、いい気になってた。前に、優に関する悪いウワサ作ってひなたに聞かせたのも、仲良さそうなお前らに嫉妬したから。優と別れて俺の元に戻ってきてほしかったから」


 信じられなかった。


「一方的に別れといて、それはないよ……。紗希ちゃん可愛いもんね。私よりあの子を選んだんだよね?だったらもうそれでいいじゃん!私はもう昭のことなんて好きじゃないから……」


 キッパリそう告げ、全速力で駆けた。ひたすら走った。息苦しくなっても、その足を止めないままに……。


 ウソだ……!


 昭の気持ちを知りたくなかった。聞いてしまった今も認めたくない。だって、それは私のせいだから。計算して優と付き合ったりしたから、昭はそれに引っかかった。狙った現実がいざこうして本物になると、こわくて仕方なかった。


 この時、昭を追いかけバイトを抜けてきた紗希ちゃんとすれ違っていたことに、私は気付けなかった。


 自分のしたことの重さを、今になってようやく知った……。言葉で語るよりも重い。優を犠牲にして昭の気持ちを取り戻した、その罪は……。



 優は最後まで私を責めなかったけど、世界は違う。まるでそう言うかのように、翌日が訪れたーー。


「ちょっといい?」


 朝、大学に行って早々、知らない女の子数人に呼び止められた。彼女達の目を見て、ウワサの件で私に文句を言いに来たんだと分かる。


 普通だったら相手にしないかもしれない。だけど、私は彼女達に従い、人気のない教材室まで一緒に行くことにした。ウワサが原因で誤解されているのなら本当のことを分かってもらうチャンスだと思ったから。


 それに、相手は同じ大学生。何とかなると思った。うまくいけば変なウワサも消せるかもしれない。


「話って何かな?」

矢野やのさんって、相馬そうま君だけじゃなくて他の男のことももてあそんでたって、本当?」

「全然違う!ウワサになってるらしいけど、誤解だから!私ちっともモテないし!」


 よし!言いたいことは言えた!


 ホッと胸をなでおろす私を見て、リーダー格っぽい背の高い子が言った。


「アンタの言い分なんて信じないから」

「そんな…!」

「おとなしく制裁を受けな」


 冷めた彼女の顔を見て、私は判断を間違えたんだと思った。こんな所へ一人で来るなんて無謀過ぎた…!


 それもそうだ。真偽を問わずウワサを本気にする人の方が圧倒的に多い。特にこういう恋愛絡みの話は一人歩きしてしまう。だから妙に説得力があるものになり、疑う人などいなくなる。


 睨みつけてくる彼女達から距離を取るように後ずさり、私は必死になだめようとした。


「私はただ分かってもらいたくて……。嫌な気分にさせたことは本当に申し訳ないと思うけど、ちゃんと話そう?」

「そんなの聞くわけないじゃん。だいたい、アンタが遊び人かどうかなんてこっちはどうだっていいの」

「え……!?」

「相馬君は皆が目をつけてた人なの。それを横からサラッと奪っておいて、ちょっと付き合って別れて、その上平気な顔で大学来て、その神経が信じられない」


 言うなり、彼女は私の髪を乱暴につかみ、その手を容赦なく真上に引っぱり上げた。激痛で頭皮が焼けるように熱い。


「痛いっ…!やめ……!」

「やめるかっての。ここにいるのは皆アンタを嫌ってんだから。ノコノコついてきた奴が悪いんだからね」

「っ……!」


 痛すぎて悲鳴すら出ない。言葉が通じない相手ほどこわいものはないと知った。


 おとなしく痛みに耐え無口になる私に飽きたのか、彼女達は私の体を突き飛ばした。未使用の教材が入った段ボールの山に背中からぶつかり、全身に激しい痛みが走る。


 何とかして逃げないと……!そんな大人数じゃないし、相手は同じ女。今ならまだ何とかなる!


 じりじり迫ってくる彼女達を見つめ隙を伺うが、段ボールにぶつけた背中が痛み座り込んだままになってしまう。一番背の低い子が、あらかじめ用意していた砂入りのペットボトルを開け、私の頭めがけてそれをこぼした。


「っ!」


 水と砂、半々に混ざった汚水が頭から全身を伝い、寒さで体が震えた。髪もザラザラして土臭くなる。


「相馬君は誰とも付き合わなかったのに、アンタのせいで私は振られた!」

「私もだよ!」


 こんな中学生のイジメみたいなこと、この歳になってする人がいるなんて……。情けなくて、悲しくて、抵抗する気が失せてくる。


 彼女達は、優のことをよっぽど好きだったんだろう。私に嫉妬するのも仕方ないのかもしれない。でも、どうしてこんなことをするんだろう?やっぱり納得できなかった。


 私も悪い。だけど、だからって彼女達にストレス発散の的にされる理由にはならないはずだ。そう思うとフツフツと怒りが湧いてきて、無意識のうちに言葉が出た。


「こんなことして好きな人が振り向いてくれると思ってる?そんなの、あるわけないじゃん……」

「ーーコイツ、開き直り!?」

「いいよね、そうやって発散できる人は……。そもそも、優のことなんてたいして好きじゃなかったんじゃない?自分が一番なんでしょ?」


 図星を突いたのか、彼女達は一様に真っ赤な顔になり怒りをあらわにした。さっきまで焦っていたのがバカバカしいと思ってしまうほど、私はひどく冷静だった。


「こんなんで好きな人が振り向いてくれるなら、恋で苦労しないよね。つらいのは自分ばっかりなんて思わないでくれる?」


 淡々と言ったせいか、それがよけい彼女達の怒りを加熱させた。でも、これは半分自分へ向けた言葉だった。つらいのは自分だけじゃない。皆タイミングが違うだけで、優も心晴も、恋で苦しんだ。


 凜翔に振り向いてもらいたくて、だけど叶わなくて、届きそうにない。人を好きになるのは幸せばかりじゃなくつらいことの方が多いのに、それを発散できる場所なんてないからこんなことが起きる。


 愛が、全ての引き金ーー。現状も、想いも。


 ぼんやり内省していると、一人の子がハサミを持ち出し、私の髪を切ろうとした。後々ヘアスタイルに困るからそれだけはやめてほしいな。って言ってもやめてなんかくれないか……。


 他人事のように思いつつ無抵抗でいると、誰かの両手が私の脇に滑り込み体ごと起き上がらせた。


 ふわりと漂う甘い匂いに、内に向いていた意識は現実に引き戻された。


「ひなた、大丈夫!?」


 パッタリ途絶えたはずの偶然が、目の前にあった。


「凜翔……。どうして……」


 もう二度と会えないと思ってた。


「放っておけるわけ、ない」


 泣きそうな顔で笑い私の手を引くと、自分の上着を私の肩に羽織らせ、凜翔は彼女達に言った。


「そうは見えないだろうけど、これでも少林寺拳法やってたから。次ひなたに何かしたら、女でも許さない」

「凜翔……」


 私達を囲む女子達を邪険な手つきで押しのけ、凜翔はどんどん歩いていく。その足は大学の駐車場に向かっていて、私達は凜翔の車が停めてある所へたどり着いた。ドライブのことを思い出して照れくさくなる。


「家近いから普段は歩きで来てるけど、遅刻しそうになって。今日は車でホントに良かった。そんなんじゃ電車乗って帰れないでしょ、乗って?それで頭とか拭いていいから」


 私に羽織らせた上着を視線で示すと凜翔は心底安心したようにため息をつき、私を助手席に乗せた。その時、凜翔の手が軽く背中に触れてドキッとした。


 突然の再会に気持ちがついていかず、いまいち現実感に欠けていたけど、運転席に座る凜翔の横顔を見て、これは本当のことなんだと胸が弾んだ。ずっと会いたかった凜翔とこうして同じ空間にいられることが嬉しくて嬉しくて、頭や服が汚れていることも忘れてしまう。


「ありがとう、助けてくれて。でも、どうしてあそこにいるって分かったの?」

「……ひなた無防備だから、いつこういうこと起きてもおかしくないと思って、先日から見張ってた。変なウワサも流れてたし……。教材室行く途中に友達に呼び止められたせいで、助けに入るの遅くなったけど……。こわい思いさせてごめんね」


 凜翔は悪くない。私は力いっぱい首を横に振った。


「知らなかったよ……。見守っててくれたことも、少林寺拳法やってたってことも……。ピアノ弾けるってことも驚きだったのに……」


 凜翔は、色んな顔を持ってる。これからももっと、彼を知りたい。


 戦隊ヒーローみたく勇敢ゆうかんに助けてくれた凜翔。おかげで髪を切られずにすんだし、大きなケガもなかった。どうしてそこまでしてくれたの?


 甘い期待が湧き、胸が高鳴る。さっきまで色んなことに冷めていた気分は、凜翔の存在ひとつで簡単に色づいていく。


「ありがとう。ずっと会いたかったよ。凜翔に……」

「ひなた……」


 それきり、凜翔は私と目を合わせることなく運転に集中した。会いたかったなんて言って、迷惑だったかな?でも、やっぱり幸せ。


 不安と期待。先の分からない恋は、いい意味でも悪い意味でも胸をおどらせた。


 決めた。凜翔のそばにずっといたい。車を降りたら、彼の目を見てちゃんと告白しようーー!振られたとしても、凜翔と出会えて楽しかったんだってことは、伝えたい。


 そう強く思っていたのに、凜翔が車を停める前、私の思考は停止した。


「ここって……。え…?」


 冗談だよね……?どうして凜翔がこんな所に?


「俺の部屋、来る?」

「……ここって」

「ひなたの知りたいこと、全部話す覚悟したよ。何でも答えるから」

「うん……。どういうことか、教えてね」


 そこは、過去に何度か訪れたことのある場所だった。


 凜翔が車を停めた駐車場は、昭の自宅のもの。表札は海崎かいさき


 よく知る家の中に招かれ、凜翔の部屋に通された。想像通りピアノがあって、昭の部屋より整頓が行き届いていたけど、初めて好きな人の部屋に入る時特有の緊張感は吹っ飛んでいた。


 凜翔も私も、部屋の真ん中に突っ立ったまま互いの様子を伺い合う。先に重たい沈黙を破ったのは凜翔だった。


「ひなたから元彼の…昭の話聞いた時、初めてその名前を聞いたみたいな反応したけど、本当は聞く前から知ってた。昭は俺の兄。優さんとも何度か会ったことある」

「そんな……。じゃあ、知らないフリして私の相談とか聞いてたってこと?」

「そうだよ」


 二人の関係を知って驚きもあったけど、スッと納得できた。凜翔や昭はたった3歳差の兄弟。外見も違うけど、やっぱり家族。私は無意識のうちに彼らの声やしぐさに共通点を感じていた。二人は似ている。


「じゃあ、凜翔にとって紗希ちゃんって何なの……?私に、紗希ちゃんとは会ってほしくなかったって言ったよね」

「昭に紗希を引き合わせたのは俺だからだよ」


 何を言われたのか、一瞬分からなかった。


「どういうこと?だって、凜翔はレンタル彼氏で、私の相談とか乗ってくれてたよね……」

「……言葉通りの意味だよ。昭とひなたを別れさせる原因を作ったのは、他でもない俺だから」

「え!?ちょっと、待って?どうしてそんなことしたの?凜翔のことだもん、悪意はないはず!理由があるんだよね?」

「言い訳はしない。ひなたを悲しませたのは昭だけど、間接的な原因は俺だよ」


 その言葉が本当なら、昭と私が別れることになったのは凜翔が妨害したせいってことになる。紗希ちゃんじゃなく、凜翔ってことに……。


「ねえ、そんなのウソだよね?だって、凜翔と私はこの前のレンタルデートが初対面でしょ?凜翔がそんなことする理由がない…!」

「あるよ」


 チェストから出した洗いたてのバスタオルを両手で私の頭にかぶせ、凜翔は言った。


「いつだったか俺が言ったこと、覚えてる?」


 ーー好きな子に振り向いてもらうためなら計算するし、他者を悪者にすることもいとわないよーー


「ーー!!」

「思い出した?」

「そんな……。あれってそういう意味だったの?どうして?」


 あんなに会いたくて大好きだった凜翔が、それまでと別人みたいに見える。でも、やっぱり悪い人に思えない。


 何の感情がこもっているのか分からない声音で、凜翔は静かに言った。


「ひなたが部室に来た日、紗希に昭を紹介したのが俺だってことを紗希がひなたにバラしたのかと思った。全部バレたのかと思って、何も言えなかった。そうじゃなかったけど、それでも何も言い訳できなかった。ひなたのこと好きな気持ちに、ウソはないから……」

「好き?そんな……。だからって、わざと紗希ちゃんを昭に引き合わせるなんて、ひどいよ!昭と別れて、胸がすごく痛かった……!」


 今はもう、昭のことなんて好きじゃないけど、でも……!


 頭の隅に想像すらしなかった凜翔の告白を前に、どうしたらいいのか分からなくなった。気持ちと思考がつながらない。ただただ、苦しいーー!


 服が汚れているのも気にせず、私は彼の部屋を飛び出していた。返しそびれたバスタオルから凜翔の匂いがして、苦しく胸を締め付けてくるーー。


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