フォーリング・アルテミス
かつて地球上で栄えていた恐竜達は、隕石が原因で滅びたと言う。それから哺乳類の時代を迎え、やがて我々人類が文明を発展させ、科学の力により栄華を極めた。しかし行き過ぎた文明は人々を驕らせ、過度の便利や享楽を求めるあまり、資源を浪費し、地球の環境を破壊した。私は人類は恐竜達と異なり、いつか自らが発展させた文明により滅びると思っていた。
‥そう、思っていた。
フォーリング・アルテミス
波の音が聞こえる。
彼方より来りては眼下の岩壁に襲いかかり、粉微塵に打ち砕かれても、飽くことなく衝突を繰り返す。まるで、いつしか全てのものを呑みこめると信じているように、寄せては返し、また寄せては返す。私はその様子を、昨日までとは違った心地で眺めていた。
キャンプ用のバーナーにかけていたケトルが騒ぎ出したので、出来上がった湯をカップに注ぎ、二人分の珈琲を用意する。手頃な岩に腰掛け、カップの一つを誰もいない向かいの岩の前に置き、自分のカップを口に運ぶ。
うまい‥
‥珈琲をこんなに味わって飲んだのはいつ以来だろう。人生最後となる珈琲の味は格別だった。
最後の一口を飲みほし、深く息を吐いて空を見上げる。
紫がかった空に浮かぶ月は、日の光を受けて金色に輝き、例えようもなく美しかった。
そして私は苦笑をこぼす。この異変が始まってからと言うもの、月を美しいなどと思うのは初めてではなかろうか。今や空一面を覆わんばかりに巨大な月を見上げ、私は空になったカップを海に向かって投げ捨てた。
その異変がいつから始まったのかを、正確には知らない。私がそれに気づいたのは、残業で遅くなった仕事の帰り、街角の交差点で赤信号に引っ掛かった時のこと。ほんの、十日前の話である。
愉快気に人をあざ笑う悪魔の口のような形をした三日月が、いつもより大きく見えたのを、その時は気のせいだと思った。それが気のせいではなかったことをニュースが告げたのは、それからたった二日後のことである。
月が落ちてくるー
ニュースが、地球唯一の衛星である月の軌道に異常が見られる事を告げた後、ワイドショーでこう大袈裟に報じられた時、人々はまだ珍しい天体事例か何かだと思っていた。妻もその一人で、これからお月見が楽しくなるわね、などと呑気なことを言っていた。だが、私は並々ならぬ不安を覚えていた。
翌朝、会社に出かけるため車に乗り込んだが、フロントガラスの向こうに見える月が昨日より大きいことに気付き、胸の中の不安は耐えがたいほど膨らんだ。そして私は日常から決別することにした。すぐにありったけの食料や必要となり得るものをかき集め、不安げに反対する妻を無理やり車に押し込み、山へと向かった。
昼前についた時、私達の他に十人程の人が避難して来ていたが、日が暮れる前には三十人前後に膨らんだ。全財産を持ってきた者もいれば、着の身のまま逃げてきた者もいる。皆、一時的な避難であることを望んでいたが、空を見上げると一様に不安を覚えた。
致命的なニュースが報じられたのは、その日の夜であった。NASAをはじめとする各国の天文学グループが統一見解として、月が地球に接近しつつあり、このままでは衝突の恐れがあることを告げた。直ちに先進国首脳の間で会合が持たれ、この地球存亡の危機に人類の英知を結集し、国家の枠を超えて対策に当たることを宣言したが、恐怖と絶望が世界中を震撼させたことは言うまでもあるまい。
山に集まった我々の間にも沈黙が降りた。誰かが持ち込んだポータブルテレビの前で、皆一様に押し黙ったまま口を開く者はなかった。我々は危機から逃れるため山に集まったが、もはや地球上に安全な所など、どこにもないと知れたのだ。誰かがすすり泣きを始めると、たちまちパニックは伝染した。妻はショックのあまり言葉もなく、私は彼女の手を引いてその場から離れた。この夜、何人かが山を降りた。
秩序の崩壊は、翌日から始まった。
月衝突の報道から一夜明け、当初世間は平静を装おうとした。騒いだところでどうとなるものでもなく、ただ政府の対策を信じる他に道はなかった。彼等はまだ信じれなかったのだろう。人類の歴史がこうも容易く終焉を迎えるなど。いや、必ずや科学の力で存続できるはずだと、信じたかったのかもしれない。
しかし我々を滅ぼす破滅の鉄槌は、刻一刻と空の彼方から近づいていた。日中でも次第に大きさを増す月が、人々を絶望に、そして狂気へと駆り立てた。報道を通じて政府は人々に冷静になるよう訴えたが、民衆の不安を押さえるには至らなかった。
下界の混乱はすぐに現れた。山の上から生まれ育った町並みを見下ろしていると、ショッピングセンターのある辺りで火の手が上がった。風にたなびいて煙は広がり、それが消える前に二条、三条と新たな煙の柱が立つ。すぐに消防が機能してないのだと見て取れた。いや、それだけではない。おそらく警察や行政、病院なども機能してないのだろう。昼過ぎからラジオが各地で起きる暴動や混乱を伝えてきたが、それは恐怖をかきたてるだけだった。町を離れたのは正解だったが、秩序あると信じていた社会がたやすく崩壊するのを目の当たりにして、私はショックを禁じえなかった。
この時はまだラジオが機能しており、月接近に伴う世界中の惨状を伝えてきた。各地で起きる暴動、略奪、そして自殺の数々。今や世界中で秩序が崩壊しつつあり、人類社会は月衝突前に潰えるのではないかと思われた。そんな中、天文学グループの報告が私の気を引いた。彼等の計算によると、月が地球に衝突するまで後十日余りしか猶予がないとのことだった。そして私は確信した。たとえ政府がどのような対策を講ずるにしても、こんな短期間に月の接近を止めることなどできはすまい。人類は、いや地球上の生物は滅びるしかないのだ。絶望が、私の気力を萎えさせた。
我々山に集まった者の中にも不和が生じ始めていた。下界の混乱を目の当たりにして、より安全な場所を求める者、何としても生き延びたいと願う者、そして滅亡の恐怖に耐えきれず、死を望む者‥
異なる意見の者達は対立を呼び、争いを引き起こした。何とか仲裁に入った私は、これ以上事態を悪化させないため全員に提案した。もはや我々は一緒にいるべきではない。家族単位で別れて山に残ろうと。反対する者は誰もいなかった。
さらに二日後、今から数えて四日前に事態はさらなる悪化を見せた。海が人類に対して牙をむいたのだ。
先に気付いたのは妻の方だった。車で寝ていた私は悲鳴混じりの叫びで目を覚まし、そして見た。沖合から迫りくる巨大な水の壁を。
轟音と共に押し寄せた巨大な津波が、山間の町を襲い瞬く間に飲み込んだ。下界の人々には逃げ出す間などなかったであろう。仮にあったとしても高台程度の高さでは、逃げても無駄だった。町を飲みこんだ水はそのまま陸地を侵食し、潮位を増していった。町はその日の内に水底へと没した。
津波に襲われたのは私の町だけではなかった。地球上の各所で津波は発生しており、海抜八十メートル以下の陸地はことごとく海に呑みこまれた。もともと高地に住んでいた生き残りがその惨状を電波に乗せて伝えてきた時、私は目の前が真っ暗になるのを覚えた。天文学者達の観測によると、地球の重力圏に近付き過ぎた月が接近の速度を増し、さらに月の引力によって津波が引き起こされたと言う。もはや我々人類に残された時間は少ない。その事実が私の狂気に拍車をかけ、絶望の淵へと追いやった。にもかかわらず、私はまだ死を恐れていた。
それからの私は正気と狂気の狭間に揺れ、残された時間をただ無為に過ごしていた。日増しに大きくなる月を見て怯え、同じく山に避難してきた人が次々に自殺していくのを知り、死の恐怖に怯えた。
妻が一緒に死のうと言いだしたのは、昨夜のことだった。
十二年連れ添った妻は、津波が起きた日を境に一切口を開かなくなった。私の様に取り乱しはしなかったが、その瞳に希望の光はなく、海の彼方に目を向けては一日中佇むばかりだった。彼女が切り出したのは夕食を、‥いや、最後の晩餐を食べ終えた時だった。
彼女は結婚後、自分がどれだけ幸せだったかを語り、死を受け入れることにようやく納得したと告げた。そして、あの人類を滅ぼす狂気のハンマーに潰されるのを待つより、私と一緒に穏やかな死を迎えたいと言った。はたせるかな、淡々と語る妻の顔には頬笑みが浮かんでおり、久しぶりに見るその笑みには限りない愛に満ちていた。この時に至って、ようやく私は死を受け入れる決心をした。途端、心の中で荒れ狂っていた不快なもの全てが一切なくなり、不思議と穏やかな気持ちに満たされた。私は悟った。そうか、これが死か。
私は彼女の願いを叶え、共に死ぬべきだったのかもしれない。しかし、死を受け入れる代わりに心の中で芽生えた、欲求とも義務感ともつかぬ新たな望みが、違う言葉を吐き出させた。
ー先に逝って待っててくれないか。
私の返事を聞いて、妻は小首を傾げた。
ー見届けたいんだ、この星の最後を。
彼女は呆れたような溜息をこぼし、あなたらしいわと言って腰を上げた。そのまま崖の方へ歩いて行き、最後にこう言った。
ーじゃあ、あなたが来た時に聞かせてもらうわ。人類のエンディングがどうだったかね。
ーああ、すぐに教えに逝くよ。
そして妻はいなくなった。静寂の中、波の音だけが響き渡った。私は彼女の消えた崖の上を見詰めたまま、ずっとそこに佇み続けた。
ずっと‥
ずっと‥‥
一体いかなる運命が我々に滅びを命じたのか。それは宇宙開闢以来決まっていた、悠久の時を経て訪れる天体運行の定められた摂理だったのか。あるいは自然や環境の犠牲を顧みず、宇宙開発にまで手を伸ばした人類に対する地球の怒りの発露なのか。はてまた気まぐれな神の手が、ほんの少し月の背を押しただけなのであろうか。
いずれにせよ人類を滅ぼすのは、外宇宙より飛来して恐竜を絶滅に追い込んだ様な隕石ではなく、我々が言葉を得る以前より空の彼方で輝き続け、かつ愛されてきた月なのだ。一体誰が知ろう、あの空に輝く地球唯一の衛星こそが、人類にとってのダモクレスの剣だったとは。
そして我等が愛すべきアルテミスは、アポロンの元を離れ、ガイアに抱かれるべく落下を始めたのだ。銀の鎖で潮を操り、穢れた人類を滅ぼすために。
鳥達が一斉に騒ぎ、空の異変を伝える。
しんとしていた大気が震え、重い音が響き渡る。見上げれば空の一点が赤く染まり、その周りに宇宙が見えた。いよいよ月が成層圏に達し、地球の大気を侵食し始めたのだ。
既に地球の環境は激変していた。海は陸地を飲みこみながらその支配地域を広げ、私のいる標高三百メートルの地点に迫っていた。月の接近により磁場が狂って鳥は空を飛ぶことをやめ、また重力もどれだけかは知らぬが、明らかに1Gより軽くなっている。
上空で大気が唸りを上げて吹き荒れ、雲が見たことのないスピードで、空の一点へ吸い込まれて行く。月の表面の一部が、大気との摩擦熱で灼熱に染まり、それは次第に広がっていった。
ー滅びの時が、いよいよ始まるのだ。
これから人類が誰も目にした事のない、世紀の瞬間を目の当たりにする事になるのだが、心はかつてないほど落ち着いていた。
私は死ぬのではない。
妻のところに逝くだけだ。
怖れることは何もなかった。
大気はますます荒れ狂い、地上でも風が吹き始める。そして風の唸りに呼応するかのように、突如足元の大地が鳴動し始めた。それはアルテミスの来訪に対するガイアの歓迎の意なのか、それとも怒りの意なのか。
興奮が身体中を駆け巡り、私は月を抱きしめるかのように、空へ向かって両手を掲げる。
さあ、愛しのアルテミスよ。ガイアとの邂逅を見せてくれ。
人類最後の瞬間が、今訪れる。
最近作風がライトな傾向に向かいつつあったので、ちょっと渋めのものを書きたくて、珍しく一気に書き上げた作品です。
nameless権兵衛 衛藤英一