私は黒夜に恋をする
母さんはよく言っていた。
生まれてきた時にね、あんたたちが自分の名前を呼んだのよ。
病弱な母は、時々咳き込みながら、それでも嬉しそうにそう言った。
……まひるーまひるー。くろやーくろやーって泣いたんだから。
あかんぼうの泣き声なのに、そんな突拍子もない声あるもんか。小さな頃からそう言ったけど、母さんは自説を曲げなかった。
でもねえ。大きくなると真昼は昼になるといっつも眠そうだし、黒夜は夜に弱いでしょう。だからねえ、母さん思うのよ。
「きっとあなたち、お互いの名前を呼んで泣いていたのねえ」
多分それは母さんの嘘だったのだろう。彼女は息を吐くように嘘を吐く。それも毒のない優しい嘘ばかり。
だから私の名前は真昼になって、双子の弟は黒夜になった。
そして病弱な母さんはあっさりと死んでしまって、父さんも後を追うように死んだ。
つまり、私達双子は子供にして、すでに天涯孤独の身だったのだ。
天涯孤独という難しい言葉を、最初に仕入れてきたのは黒夜だった。彼は時々びっくりするくらい頭が良い。
頭だけじゃない。顔だっていい。クラスの女子の大半が、黒夜に夢中。当たり前だ。黒夜ははっと目が奪われるほど、格好良くて儚くて美しい。
同じ双子なのに私は黒夜ほどの美しさが無かった。ただボーイッシュと言われた。髪を夏でも冬でも短く借り上げているから、余計にそう言われる。
伸ばせばいいのに、きっと真昼は長いのが似合うよ。
そう言って黒夜はよく私の髪をぐしゃぐしゃにかき回した。私も負けじとやり返して、布団の上でいつまでもゴロゴロするのが楽しかった。
髪が短ければ大きくなっても私達の後ろ姿はそっくりだ。後ろからだけなら、先生にだって間違われることがある。間違った人が必死に謝るのが面白かった。私は黒夜とそっくりなことが、とても嬉しいのに。
私たちが天涯孤独の身になった頃から、警察官が私たちの周りを邪魔するようになった。
それはとても気分の悪いことだった。
「”天涯孤独”はきっと何か悪いことをする奴だ、ってあいつは思い込んでいるんだよ」
黒夜が囁くように私に言う。
「最初から僕等を疑ってる」
警察官は四角い顔をした厳しい目つきのいやな男で、名前を近藤といった。
彼は私に施設を勧めたけれど、私はその嫌がらせから必死に逃げた。近藤は私と黒夜を引き離そうとしているんだ。
そのころから私は近藤も、警察官も、制服を着る大人も、みんなみんな大嫌いになった。人の目をじっと見つめてくる細い目も、ごつごつとした大きな手も。
私は黒夜を守るため、まずは学校から遠ざかった。
二人で手を取り、家に潜んだ。家が売りに出されると、学校の倉庫に潜んだ。食べ物は盗めばいくらでもあった。
天涯孤独が悪いことをするって、あながち間違いじゃないね。僕らは悪い子だね。そういって笑う黒夜はまぶしいほどにきれいだった。
このきれいな黒夜と私は生きたい。
私は黒夜に恋をしていた。
黒夜は本当にかっこよくて博学で優しくて綺麗な子だったので、彼が人を殺したと報告してきた時も私は平然と頷いてしまった。
「じゃあ早く埋めなきゃ」
私はそう言って、ぶるぶる震える黒夜の背を押した。手を繋ぎたかったけど、そうすると震えが伝わってしまう。だって私達は双子だったから。
「早く処理しないと、腐って大変なんだから」
黒夜が殺した人は……それは男で40歳くらい、俗に言う少年愛好家だ……は、幸いなことに、まだ彼のマンションに横たわっていた。
胸に刺さったままの包丁はまだ抜かれていなくて、だから血もほとんど流れてない。40歳を越した男だけど、少年ばかり相手にしていたせいか、体はすらりとして細くて肌も綺麗だ。お腹も出て無い。この年でこのスタイルは凄いな、と私は変に感動した。
学校の先生も親戚の叔父さんもお父さんも、40を超えた男の人はみんなお腹が出ていたし、そのお肉は弛んでた。肌だってもっと汚い。
でもこの男は割と、綺麗だ。胸から飛び出た包丁だけが、妙に現実離れしてみえた。やあ、嘘だよ。生きているよって今にも起き出しそうだ。
「ぬ……抜かなきゃ」
包丁を抜こうと、その柄を掴む黒夜を私はそっと止めた。
「包丁は抜かない方が良い。もう少しすれば血が固まって、抜いても流れなくなるの。それから抜かないと後の始末が大変よ」
黒夜は文学作品が好きだったけど私は殺人とか探偵とか狂気とか、そんな本が好きだったので、こんな時にお姉さんぶれて嬉しい。
黒夜は小さな子供みたいに何度も何度も首をたてに振って……ああ、何て可愛いのだろう。
彼が包丁を刺した男は少年ばかりを愛する男で、黒夜はこの男に恋をしていた。黒夜は女を愛せない体質だ。私が黒夜しか愛せないように。
お互いに異常な恋愛しかできないのかもしれない。
恋なんてどうせ錯覚みたいなものだから、たぶん黒夜はこの男に騙されたに違い無い。いや、違う。黒夜は年上の男でしか性欲を発散できない体質だから、黒夜が利用していたのだ。
そして飽きやすい黒夜は、きっと男に飽きたのだ。飽きたから刺したのだ。
愛していた少年に殺された男は、きっと死ぬまで幸せだったのだろう。口元に浮かぶ微笑みはひどく幸せそうなのである。
きっちりと着込まれたスーツのズボンの前がひどく硬くなっているのは、黒夜に興奮していたのだろう。可哀想にな、とそこだけ私は同情した。
私達は結局、その日の夜が来て朝が来て再び夜になるまでその家から動かなかった。
椅子に腰掛けて、死体を横目に眺めて。それはまるでオブジェのようだった。
最初は震えていた黒夜もだんだん慣れてきたのか、男の部屋を我が物顔で行き来して男の所蔵する膨大な文学小説を読みふけったり、男が隠し持っていたウイスキーを味見したりしていた。
私は男の部屋にある大きなテレビでアニメを見たり、難しいクラシックのレコードをかけて針を飛ばしたり、した。
男の家には豪華な食材の備蓄があって、それはそれで助かった。パンに冷凍グラタンにレトルトハンバーグ。どれも少年が好きなものばかり。
ただ男の携帯にリンリンと電話が鳴りまくるのだけには閉口した。けれど着信履歴の名前が全部可愛い少年の名前ばかりだったので、次はどの子からかかってくるか当てっこゲームに夢中になった。
そのうち充電が切れたのか、携帯の画面は黒く染まって電源を押しても立ち上がらなくなる。男の充電器がどこにあるのか分からなかったので、二人して携帯遊びにも飽きてしまった。
そして気付けば随分な時間がたって、まるでモニュメントのようにそこにあった男の体がいやな色に染まり始めた頃。
「さあそろそろどうにかしなくては」
と、黒夜が大人のようにそう言った。
そうね。と、私はそう言った。
ばらばらにして海に流す。火を付けて燃やす。意見はたくさんあったけど、最終的にこの死体を大きく崩してしまうのは勿体ない。というのが二人の一致した意見となった。
それにばらばらにしたところで、持ち歩ける軽さになるとは思えない。私達は子供だったから。
結局、どこか一部を切り抜いてそれをどこか、土の中に埋めてあげることにしよう。そんな話にまとまった。
私達は男のスーツを丁重に脱がし、その腐敗した肉体を見る。
確か幼稚園のころに、イエスキリストの劇をした。そのとき、マリア役に扮した黒夜は途中トイレに行きたくなった。ちょうど身に纏っていたのが、スーツのように体中を締め付ける服だったのだ。脱げない脱げないと泣く黒夜の服を母親が一枚ずつ脱がした事がある。
その時と同じくらい慎重に、私達は男の服を剥ぐ。
黒夜は男の腐りかけた裸を見て、苦しそうに眉を寄せた。何かしらの劣情が黒夜を襲ったのだ。羨ましいな、と私は心底そう思った。黒夜に対してではない。黒夜にそう思わせる、この男にだ。
そして私達は腐りかけてなお勃起を続ける男の陰部をそっと掴み、ナイフの切っ先を当てる。さきほどまでパンを切り落としていたナイフだ。切れ味がいいのか、男の陰部が腐っていたせいか、それはあっさりと切り離される。
なんだ、こんなものだったんだ。と、黒夜が静かにそう言った。
切り落とされたそれは、身体にあった頃よりも小さく萎びていて、色も悪い。でもこれが何度も黒夜の体内に入ったのだなと思うとやっぱり私は羨ましさを感じてしまうのだ。
私は小さなそれを近くにあったビニール袋に詰めて、自分の鞄に収める。そして黒夜の手を取って立ち上がった。
「埋めてあげなきゃ可哀想だわ。お葬式をしてあげましょう」
私が本当に口に出したのは、その一言だけだったのかもしれない。だって黒夜と私は声が無くても会話ができるもの。
でも声に出した瞬間。私の鼻に血と腐敗の香りが届いて2度、えづいた。
それから、驚くくらい時間が経った。
驚くことに、笑えることに、私たちは、大人になっていた。
驚くことなんかじゃないのかもしれない。時が過ぎれば体は大きくなるし、年だってとる。でも私は、黒夜は、きっと大人になんてならないんだと思っていたんだ。
「真昼ちゃん、お客さん」
私を呼ぶ声が聞こえて、私は本を閉じる。それは季節の花を描いた図鑑だ。
私は途中で学校から遠ざかったので、物を知らない。本は知識を与えてくれる。本を読むとスポンジが水を含むように知識が脳に染み渡るのがわかった。
何とか見つけた喫茶店のアルバイト。暇なときは本を読んでいいという約束で働く私に、お店の人はすごく優しい。
「はい。マスター、ごめんなさい」
「違う違う、真昼ちゃんにお客様」
エプロンをとってあわてて立ち上がる私に、髭のマスターが笑った。
指さす先は喫茶店の隅の席。そこに四角い顔を見つけて私の背中はぞっと凍った。
暖かい初夏の日差しが窓から差し込んでいるのに、体がどんどん冷たくなる。
それでも手のひらを握りしめて私は自分自身をふるった。
「よく働く子だね」
「双子のお兄さんが病気がちなんだろ。それで妹の真昼ちゃんが」
「いい子だよ、なににせよ」
マスターと奥さんの会話を背中に受けながら、男の前に座る。
彼は、熱いコーヒーを軽く持ち上げて見せた。
「またあなたですか」
「またとは何だ。おまえのことは責任もってみるようにと言われているし、一応は施設から認定された後見人だ。月に一度の面会は条件の一つだろう」
……警察官の四角い男、近藤。あのあと……男のお葬式を終えたあと、私たちはこの男に捕まった。
とはいえ、殺人の罪じゃない。殺人は不思議なことに、ひとかけらだってばれていなかったのだ。
ただ天涯孤独がだめなのだという。施設に入らなくてはならないのだという。
私たちは捕まって別々の施設に入れられ、そして大人になった。
施設から独立して黒夜ともようやく一緒になって、働いて、安定したのはここ一年くらいのこと。
大人になれたのは施設と警察官のおかげだけど、数年間黒夜と引き離されたのも施設と警察官のせいだった。
その恨みを私は未だに忘れちゃいない。
「おかげさまで、ちゃんと働いてます。黒夜も元気ですし」
「……そうか」
この喫茶店は古い。イミテーションの植物がほこりをかぶっている。
窓には雨の水垢。それに光が当たって、机の上がきらきら輝いている。
私は無意味に机の上を三回ふいた。
「……」
無言が広がった。近藤はコーヒーを一息に飲むと、ポケットからしわだらけのコーヒーチケットを取り出した。
「ところで今度食事でもどうだ」
「黒夜も」
「いや、おまえとだけ」
「じゃ、いやです」
「俺は、おまえの過去の話をあまりきいたことがなかった。それを後悔している。お前に対するケアが、行き届けてなかったことに」
ぞっとする。
「……話すようなことはありません」
その四角い目が私をみている。いや、私の背にある過去をみている。
私は急に、いつか殺した男のことを思い出した。
「ねえ黒夜、時効まではどれくらい」
「あと10日。ねえ真昼、この間からそればかり」
家に戻って私は落ち着きなく黒夜に幾度も同じ質問をした。
黒夜は庭に出した椅子に浅く腰掛けて、のんきに何度でも同じ答えを返す。
私は壁にかけたカレンダーを睨んで指をかんだ。
「有給使って休もうかな。10日の間」
「近藤さんに疑われるんじゃない」
黒夜は洗い晒しのシャツをきて、夏の庭を眺めていた。
猫の額ほどの小さな庭がついた、二階建ての細長い小さな家。これが私たちが手に入れた私たちの家だった。
一階に台所、二階に寝室。ただそれだけの狭い家だけど、黒夜と一緒にいられるだけで幸せだった。
「真昼、怖い?」
後悔してる? と黒夜がきく。
「わたしは黒夜がいればそれでいいし、なにも怖いことなんてない」
さやさやと夏の風が髪を撫でる。気がつけば髪の毛が随分伸びた。夏の緩い風が髪を巻き上げる。ぽたりぽたりと、私の顎から汗が落ちた。エアコンのないこの家は、とても熱い。
でも黒夜の顔からは汗の滴もこぼれなかった。
「……ほらミズアオイが咲いてるよ、黒夜」
私は庭に向かって手を伸ばす。目の前は水田だ。あぜ道にじりじりと蜃気楼がたってみえる。
そんな日差しの中で咲く花は綺麗だ。あぜ道に、青い花が咲いている。ミズアオイだろう。小さくてかわいい花。
「ちぎってお家に飾ろうか」
昼の日差しが大好きな黒夜は、わざわざ日の差し込む場所に座って本など読んでいる。難しいロシア語のタイトルだ。この間までは日本の古典にはまっていたはずだけど、彼は割と飽きやすい。
「それは小菜葱」
額に球のような汗を浮かべて彼は笑う。
「青紫の綺麗な色。葉の方が長いから、葉の隙間から花が見えるだろ。綺麗だけどやっかいな花だよ」
音をたてて黒夜は本を閉じる。細かい埃がキラキラ舞うのが美しかった。
「苗代の、小水葱が花を、衣に摺り、なるるまにまに、あぜか愛しけ」
「何それ、呪文?」
「段々と相手の女性に焦がれていく、万葉集の恋の歌」
ふうん。私はため息のような声で応えて、顎に手を置く。ぬるぬると、そこは水に濡れている。ああいやだ。この無駄に暑い日差しのせいだ。
「じゃあ、あの花はなんですか。黒夜先生」
「ツルボ。どこにでも咲く強い花」
「じゃああの、雪みたいな花」
「ノリウツギ。そうだね、雪みたいだ」
私が指す庭の花に、黒夜は冷静に答えた。
さらさらと黒夜の髪が音をたてる。彼は椅子から立ち上がり、私を座らせた。
そして私を後ろから抱きしめて、頭に顎を乗せている。重みが心地良い。多分、母さんのお腹の中にいたころ、こんな風に彼の身体に寄りかかっていたのだ。体温が心地良い。心音が同期する。触れ合ったところから溶け合う。
「じゃあ」
あれは? 伸ばした指に黒夜の手が重なった。いつだって、こんな風に重なれば気持が良い。重なっているのが当たり前で、離れているのが多分、異常なことだから。
「私」
「僕は真昼を抱けないよ」
私、黒夜の子供が欲しいわ。そう漏れかけた言葉を黒夜の言葉が刺した。
「双子っていやね」
相手が何を言うのか、言葉にする前から分かっている。そう言って笑った私の顎を、黒夜の手が撫でた。
そこはもう、べたべたになっていて。
「そうだよ、双子は通じ合ってしまうから」
真昼が泣くと僕も泣いてしまうんだ。振り返ると、黒夜の顔はどろどろに泣き濡れていた。
思えば私はずっと片思いだったのだ。でも片思いでよかった。黒夜を思っていられるだけでよかった。
私の些細な、そんな些細な幸せは一週間で終わってしまった。
それは、ひどい雨の降る、夏に似合わない雨冷えの朝のこと。
「とっとと、捨てていれば俺だって」
四角い顔の近藤が、私の目の前に立っていた。彼の細い目に涙が浮かぶところなんて、はじめてだった。
「俺だって、おまえを捕まえるなんてこと」
彼が手にしているのは、赤さびたパン切り包丁。
私と黒夜の家の中は、いまや警察官祭りだ。若い男に女におじさんに。黒夜と私の家が雨の滴で汚れる。睨んで叫ぶと、若い男に突き飛ばされた。
近藤はその若い男を殴りつける。そして私をいすに座らせると、警察官たちを一度追い出した。
「何で、もってた。ずっと、こんな凶器」
バカ野郎。と近藤は叫ぶようにつぶやいて、ビニール袋につめらえたナイフを見つめている。
それは細長い切れ味のいい、パン切り包丁。私が黒夜と、あいつの体を刻んだナイフ。でもあれから何年もたっている。切れ味も、もうすっかり失われているだろう。
もう遙か昔の犯罪の痕跡を今に残すそれを、私は捨てられずにいた。
施設にいるときも、この家に越してきたときも、私は宝物のようにタオルにくるんで、おもちゃ箱の一番底に沈めておいたんだ。
赤い網かごのおもちゃ箱のことを、私と黒夜は「私たちの海」と呼んでいた。
「何で見つけるの……海に沈めていたのに」
「海?」
近藤はいぶかしげにナイフをみる。
朝のことだ。仕事に出かける前、朝ご飯を食べる私たちの時間をチャイムの音が邪魔をした。
扉を開けると、近藤をはじめとする警察官がいて、あっと言う間に私たちの海は荒らされる。
警察は早朝に来るって本当だったんだな。と私はどうでもいいことを思いながら、ぼんやりナイフを見つめる。
「このナイフには、黒夜の」
……そういえば、黒夜がいない。
近藤に気づかれないようにあたりを探る。黒夜の気配はない。うまく逃げたんだと気づいて私は心底安堵する。
黒夜が逃げたのなら、私は大丈夫。彼が捕まるところなんてみたくもない。
「……黒……夜の……なんだ?」
「黒夜の、指紋がついてるの」
男を刻んだとき、黒夜が素手でナイフの柄をつかんだ。先ほどまでクロワッサンを食べていた黒夜の手にはバターがたっぷり。汚れた手で触ったせいで、柄にくっきり指紋が残っている。
その痕跡を私は愛したのだ
黒夜の、綺麗な指紋。
みると柄にはやっぱり、指紋が残っていた、私のものによく似た可愛い指紋。
「だから」
さわらないで。私は叫んだつもりだったけど、膝から力が抜けて地面に崩れる。気がつけば背後に白衣の男が近づいて、私の腕に鋭い針を打ち込んだ。
透明で冷たい何かが私の中に流れ込んで、意識が不意に混濁する。
黒夜、黒夜、と私は叫んだ。まるで生まれた時とおなじように。
彼もどこかで真昼真昼と呼んだはずだ。
だって私たちは、双子なのだから。
「落ち着きましたね、あの子。でもよかった。情状酌量になりそうで」
煙草室に若い医師が滑り込んできたので、近藤はそっと灰皿の前をあけた。確か、衛藤という男である。
「おっとお邪魔します」
軽く頭を下げて、衛藤はポケットから煙草を一本。近藤が火を貸すと、彼はいかにも愛嬌のある顔で笑った。
「医者なのに、とかいわないでくださいよ。この仕事は辛い。外科ならともかく、形の見えない心の方じゃ……なんて、言ったら医師失格ですか」
「かまわんよ。あんたは、あの子をよくみてくれてる」
ぬるぬる輝く廊下に夕日が射し込んでいる。ビニールの、足に張り付きそうな廊下には、すでに人の気配がない。
面会時刻は終わったし、そもそもこの病院にはあまり面会もない。
「本当にかわいそうな子です。小さい頃親に虐待を受けて、逃げた先で誘拐され、誘拐犯を殺してまた逃げた」
「俺が虐待の段階で救えれば、よかったんだ」
近藤は煙草を吸い込む。苦い味が広がる。それは後悔の味だった。
自分の管轄内で、虐待を受けている少女がいる。通報はあった。親だけじゃない、親戚や学校の教師まで狂ったように少女を傷つけ性的な暴行もあったと聞く。
幾度もその母親にかけあったが、相手にもされなかった。そのうち母親は逃げ少女もきえた。
まるでホームレス同然の彼女を見つけたのは半年後。
すぐ近くに住む少女愛好家の男が陰部を切り抜かれて殺された事件が数ヶ月前に起きたばかりであったが、その事件と彼女は結びつかず、事件は迷宮入りしかけていた。
「せめて幼い頃救えなかったわびにと面倒をみてきたつもりが」
彼女の働く喫茶店から連絡を受けたのは五日前。彼女の様子がおかしいと連絡があった。古ぼけた箱を持ったまま通勤する。箱にふれると、狂ったように怒る。これまでと、様子が違う。
「……結局俺がまたあの子を、不幸にした」
箱をあけなければ彼女は幸せだったのではないか。と後悔が、毎晩近藤を攻める。もう、何日も眠れず、ただ彼女の様子を見に病院に足を運ぶことが彼女に対してできる贖罪であった。
「そんなことはないです」
衛藤が力強い声を上げた。
「事件といってもあれは……それに、彼女には精神的にケアが必要だ。ケアをして、救ってあげられる。捕まってむしろ彼女は幸せだ」
「彼女は、双子の弟と過ごす。そんほうが幸せだったんじゃないかと思うときもあるがね」
「イマジナリーフレンドですね」
衛藤は目を細め、言った。
「通常は他人との交流が生まれると自然に消えます。彼女のように、虐待による逃避行動から生み出した場合は、長く続くこともありますが……」
つらさをごまかすために、自分の中に架空の友を、架空の兄弟を生み出すことがまれにある。
彼女はそれが少し、長く続きすぎた。そして。
「彼女の場合、あまりに現実味がありすぎた。彼女だけでなく、彼女の同級生たちも、黒夜の存在を信じていました」
「彼女の髪が短い理由を知っているか」
近藤は煙を吐き出す。紫に似た煙が、喫煙室の上空に留まって消える。
「黒夜に、成りすまして活動することがあったからだ。誰も、それを真昼と見抜けなかった」
幼い頃から彼女を知る近藤さえ、黒夜が本当にいるのではと錯覚するほどであった。
しかし彼女の隣には空気しかない。彼が語ったという言葉は、彼女が先ほどまで読んで伏せられた本に載っている。
しかし、彼女の読む本は古い。従って、黒夜の語る情報は古かった。
殺人には時効があると、黒夜が言った……という彼女の自供は、その最たる物だった。
「どちらにせよ、彼女は現実に戻らなくてはならない」
衛藤は煙草をもみ消し、肩をならす。
今から夜勤だ、と彼はいった。
「でも近藤さん、最近彼女はすごく落ち着いてきました」
だから大丈夫。彼女はきっと生まれ変わりますよ。そういって、衛藤は去った。廊下の向こう、夕陽も溶けてもう夜が来る。
しかし近藤は指の間でほろほろ灰になる煙草を見つめ続けた。
本当に、彼女を救えるのか。
もう幾度も繰り返した問いに、答える声はどこにもなかった。