1.かぐや姫と遭遇。
あ、かぐや姫。
彼女はゆっくりこちらへと近づいて来る。
来るな、来ないでくれ。
しかし彼女は歩み続け、私の隣の椅子を引くと、そこへ腰を下ろしてしまった。
高校二年の始まり。今学年も静かにやり過ごそうとしていた私にとって、これは実に面倒な事態である。思わず頭を抱え込む。
いいや、ただ隣の席というだけだ。私の静かな時間は、相変らずここにあるに違いなかった。
「おはよう、乗倉さん。私、森田咲乃。これからよろしくね」
いつの間にか真横に立っていた彼女が、私に声をかけてきた。手を差し出している。
細く、すらりと伸びた、絹の手。女の私でも思わず見とれてしまう。
見上げると静かに微笑んでいた。
流れる目元、高い鼻。少し大きめの口の微妙なアンバランスは、彼女の印象を強いものとしている。眉の上で短く揃えられた前髪。後ろで束ねられた黒髪は、光を受けて艶やかに輝いている。
ただのセーラー服を着ているだけとはとても思えない、ほっそりと、しかし確かな曲線を描くライン。
さすが、かぐや姫の名を持つだけのことはある。
そのかぐや姫が少し首を傾ける。
え? ああ、握手か。握手かぁ、そういうのは苦手だ。
また反対側に首を傾げる。
仕方なしに恐る恐る手を伸ばす。
まだ少しためらっていると、彼女は強引に私の手を掴み、上下に激しく振り回した。
ようやく止まるが、まだ離してくれない。
「乗倉さんって、フルネーム何?」
「乗倉伊奈、だけど?」
「そっか、じゃあよろしくね、伊奈」
「え?」
いきなり名前で呼んできた。
私を名前で呼ぶ人間は少ない。というか、両親だけだ。
あまりにも唐突だ。しかも相手はかぐや姫なのだ。
碌に反応も取れないうちに、彼女が続ける。
「私のことは咲乃って呼びなね」
「え? いやぁ」
ほとんど初対面の人間を名前で呼び捨てはいかがなものか。私の感覚とはかけ離れている。私の距離感が他人より離れているのは自覚しているが、それにしても急すぎるはずだ。
「でないとぶつよ?」
「ぶつ?」
「ぶつ」
彼女は握り合っていない方の手を拳にすると、私の眼前に繰り出してきた。鼻先一センチで止まり、すばやく引き戻される。
「ぶつよ?」
これはぶつではなく、殴るである。そう思ったが、どっちみち無茶苦茶を言っているのには変わらない。しかも向こうの目は真剣だ。
何をやらかすか分からない。森田咲乃という人物の評判を思い出し、背筋に汗が流れる。
「咲乃。リピート・アフター・ミー」
「さ、さき、さき……」
ここで扉が開く音。
「よーし、みんな席は分かったかー」
担任の先生だ。助かった。
ここまで聞こえる舌打ちをし、かぐや姫が自分の席に座る。
この後ホームルームがあり、今日は終わり。
さて、帰り支度だ、と思ったらペンケースがない。あれ? 全然気付かなかった。机、カバン、どこにもない。
「いーなー」
私をこう呼ぶ人間はこの教室には一人しかいない。そちらの方を向くと、かぐや姫が私のペンケースを手に笑みを浮かべている。実に楽しそうな、実に底意地の悪そうな笑顔だ。
「あの、何してるの? 森田さん」
彼女はペンケースを胸に抱え込むと、そっぽを向いてうつぶせになった。
「森田さん?」
「呼ばれた気がするけど、多分気のせいだなー」
うわ、面倒くさい人だ。このまま帰ろうか? でも家に帰ってから予習をしておきたい。
「咲乃、さん?」
「うーん、若干近付いたけど、やっぱり呼ばれてないなー」
実に面倒くさい。腕を引っ張ったりすればいいようなものだけど、私にそんな度胸はない。人に触れるのはあまり好きではないのだし。
「咲乃、ちゃん?」
「惜しいなぁ、実に惜しいなぁ、でも呼ばれてないのには変わりないなー」
もう帰ろうかな?
しばらく黙っていると、彼女がこっちに顔を向けてペンケースを見せてきた。やっと返してくれるのか。
しかし甘かった。彼女はペンケースを開けると、中からシャープペンシルの芯が入ったケースを取りだした。
イヤーな予感がしていると、予想通り芯をありったけ出してきた。
「シャーシン、全折りの刑であーる」
「分かった。分かりました」
かぐや姫が私に笑顔を見せる。実に美しい笑顔だ。美しいだけに、余計腹立たしい。しかし私は彼女の脅迫に屈する。
「咲乃。リピート・アフター・ミー」
「咲乃、返してください」
「ん、いいよ」
咲乃が平然とペンケースを手渡してくる。シャープペンシルの芯は出したままだが。
「さて、部活行かなくっちゃ。誰かさんのせいで時間取られたよ」
咲乃は自分のカバンを手に取ると、私に罪をなすりつけて走り去った。
森田咲乃、聞いていたとおり、厄介な人物である。
森田咲乃。通称、かぐや姫。
彼女は入学したその日のうちからそう呼ばれている。
つまりはこういう話である。
去年、入学初日を終えた彼女が昇降口を出たところで、一人の男子が立ち塞がった。
当時二年生の柊先輩だ。
後から知ったのだが、柊先輩は我が県立秋篠高校随一のモテ男なのだそうだ。
どうやって嗅ぎ付けたのか知らないが、新一年生随一の美人の存在を知って待ち伏せをしていたのだ。ちなみに去年も似たようなことをやらかしたらしい。
柊先輩はこう言った。
「君、この辺の案内してあげようか?」
咲乃は答えた。
「いいえ、お気遣いなく」
柊先輩は諦めなかった。
「穴場のお店があるんだよ」
咲乃は深いため息をついた。
「あの、これってナンパなんですか?」
「そうだよ」
「『燕の子安貝』(つばくらめのこやすがい)」
「は?」
「『燕の子安貝』。私とデートしたかったら、それ持って来てくださいね」
あっけに取られている柊先輩の横を、涼しい顔で通り過ぎていったのだった。
ちなみに私はこの場にいた。昇降口を出ようとしたら、ちょうど前に咲乃がいたのだ。
面倒ごとには関わりたくなかったので横に回り込もうとしたのだが、集まってきた野次馬に遮られて身動きが取れなくなった。
仕方なしに事の推移を眺めていた。『燕の子安貝』発言を受けた柊先輩の顔は、潰される一秒前のカエルみたいな顔だった。
これと同じことが少なくとも後三回あった。
次はサッカー部のエースだった。彼は『竜の首の珠』(りゅうのくびのたま)を要求された。
その次は大層なお金持ちだった。なぜお金持ちが県立高校にいるのか謎なのだが、とにかく彼の場合は東京の有名洋菓子店の限定品を、今日中に持って来いと要求された。
要求された時点で午後五時だった。高校から東京へは、新幹線を使っても四時間はかかる。彼は膝を屈した。
さらに次は身の程知らずだった。どう身の程知らずだったのかはよく知らないが、とにかくそう呼ばれている。彼は『蓬莱の珠の枝』(ほうらいのたまのえ)を要求された。
驚いたことに、一週間後、彼は『蓬莱の珠の枝』を持って現われた。当然、作り物である。後で咲乃が教室に飾ったのだが、かなりクオリティが高かったらしい。
その場でしげしげと眺めていた咲乃は、「その意気や良し!」と叫んで、彼とのデートを了承した。
そして週明け。例の彼は憔悴しきった姿で学校に現われた。反面、咲乃はツヤツヤといつも以上に輝いていた。以後、彼は決して咲乃に近寄ろうとはしなかった。
デートで何があったのか、彼は口を閉ざして何も語ろうとはしなかった。ただ一言、「彼女は悪魔だ」とつぶやいた。
一方で、違う目的を持って彼女に近付く人物がいた。
柔道部の青柳先輩だ。
彼は咲乃の前に滑り込むと、いきなり土下座をして叫んだ。
「犬と呼んで下さい!」
咲乃は答えた。
「犬」
以後、青柳先輩は咲乃の犬として仕えることとなった。いわゆるドMである。
ドMではあるものの、青柳先輩は県大会ベスト八の猛者であった。咲乃を何とかモノにしようと彼女の周りをうろちょろしていた連中は、自然にその数を減らしていった。ある時は、振られた逆恨みで突っかかろうとした男子を撃退したという話だ。
雲をも掴む大男である先輩を、咲乃はそれこそ下僕のようにこき使っているらしい。しかも青柳先輩は、こき使われると光輝く笑顔を見せるのだそうだ。よく分からない関係である。
一方で私は静かに暮らしていた。
彼女のことは、遠い世界のおとぎ話のように聞くのみだった。
そう、今までは。