みえないもの
からっと暑かった昼間と違い、心地よい風がさらりと吹く夏の夜。ぺら、と本を捲る音。寝巻用の着流しを着た衛仁は行燈で照らされた部屋で、机に向かい一人古い本を読んでいた。
久しぶりに休暇を貰って瀧二郎の家に来たのは正解だったな、と一人思いながらまた一頁本を捲る。箱庭での生活に飽きた訳ではないが、昔から幼馴染である瀧二郎やその家族の顔を久しく見てないな、と思い前から行くと伝えてはあったものの西軍の急襲やら色々な事があり大幅に来るのが遅れてしまったのだ。やっと顔を見せに来れた衛仁を瀧二郎もその両親も、兄弟も家族総出で歓迎してくれて話が弾みに弾んだ。
それはよかったのだが、そのうち瀧二郎の両親が「こんな時間になって帰すのもなんだ、泊まっていきなさい。」と言いだした。迷惑をかける訳にはいかないのでと最初は断ったのだが家族全員に催促されてから強引に断る訳にもいかず、その優しさに甘え泊まる事になった。
部屋は神社の本殿から離れた部屋、庭がありわびさびを感じる心地いい空間だな。と思った。澄んだ空気が流れているのが感じられる。改めてこの家は広い、と思う。
ぷっ、と昼間の出来事につい思い出し笑いをしてしまった。「優しい人達だな。」と一人心の中で思いながら次の頁に手をかけようとしたその時。
ぱたぱたぱた
足音が、聞こえた。気の所為かと思ったのだがその音はあまりにもはっきり聞こえ、耳の中に余韻さえも残している。そしてまた同じような音が聞こえてきた。
誰かが廊下を走った音。しかも木でできてるのだから軋みなども多少はあるはずなのにほとんど聞こえない、とすれば大人ではない。しかしこの家に子どもはいない。こんな夜中に遊びに出歩く子どもだっているはずがなかった。
最終的に浮かび上がった答えはあまり考えたくないものだった。「…無視するか…?」と思い、その考えを拭い去るように再び本へと意識を戻そうとした瞬間。
明るい声と同時に、いきなり後ろから抱きつかれた衝撃を感じた。
「わっ!!」
「…っ!?っぎゃああぁぁぁあ!!!」
決して家中に響き渡るような声ではなかったものの、ついに衛仁は悲鳴をあげた。
「あれ?水面こんな所にいたの?」
暫くして、黒の着流しを着た瀧二郎が騒ぎを聞きつけたのか灯りを持って部屋に入ってきた。しかし背中に抱きついてる「少女」を見てもなんら驚く様子が無い。
「うん!このおじちゃんと遊びたかったの!」
「………っ」
『水面』と呼ばれた少女は楽しそうに言った。当の衛仁はと言うとあまりの驚きに心拍数が最大にまで跳ね上がり、机にしがみ付き爪を立て小さく震えながら言葉すら一言も発することができないままでいた。
それを見かねた瀧二郎が助け船を出してくれた。
「ほらほら、おじちゃん吃驚しちゃってるでしょう?遊びたいのは分かるけど落ちつかせてあげようね。」
「…はーい。」
瀧二郎がゆっくり諭すと水面は名残惜しそうに衛仁の着流しから手を離す。衛仁はそのまま大きく息を吐き出し冷や汗を拭った。瀧二郎がどこから持ってきたか、コップに入った水を差し出してきたので受け取り、一気に飲み下す。塩が少量入ったその理由はなんとなくわかったので聞かない事にした。
「はあ……お、どろいた…瀧二郎、この子は…?」
身も心も憔悴しきったような衛仁が尋ねる。瀧二郎は隣に座る水面の頭を撫でながら言った。
「水面っていう子なんだけど、うーん…最近ここに住み着いた子なんだけど何処から来たのかもよく分からないんだって。どうにもできないからここに居させてあげてるんだよ。」
よく見てみるとその子の姿は紅葉の映える綺麗な赤の着物を着ていて、髪は肩に付くくらいの黒髪で瞳も髪の色と同じ美しい漆黒に染まっていた。
「びっくりさせるつもりはなかったんだよ?」
不思議そうに首をかしげながら尋ねる水面に瀧二郎は「普通の人はびっくりしちゃうんだよ。」と優しく言った。
「さあ、謝ろう?」
瀧二郎から言われて水面は改めて衛仁の方をまっすぐ向き、眉を八の字に歪め言った。
「びっくりさせてごめんなさい…。」
少女にこんな表情をさせて謝らせてしまった事に何故か罪悪感を感じた衛仁は焦る。
「あ、いや大丈夫だよ俺が勝手に驚いただけだし…ちょっとびっくりしちゃっただけだから。」
と未だ青ざめた顔で言われてもあまり説得力が無いように見えたが少女はぱあ、と顔を綻ばせた。「じゃあ、」と話を続けようとする水面に瀧二郎が柔らかく制した。
「今日はもうだめだよ、ほらこんなにも遅い。おじちゃんももう寝なきゃいけない時間なんだから水面も早く休もう。」
そう言うと残念そうな表情を見せたが、すぐに「じゃああしたはあそぼう!」と衛仁の方を振り返り言った。
「あ、ああ。もちろん。」
突然話しかけられ少し驚いたものの、最後には笑顔を見せる事ができた。いつまでも強張った表情のままでは少女も不安になるだけだろうと思った故に、だ。
「じゃああしたね!おやすみなさいまたあした!」
先程とは打って変わって明るい笑顔を見せながら少女は姿を消した。ぴょん、と縁側へ飛び出したかと思うとすう、と消えてしまったのだ。
それを暫くぼおっと見ていた衛仁の肩を瀧二郎が叩く。振り返ってみると困ったような笑顔で「大丈夫かい?」と聞いてきた。すぐには答えられず乾いた笑い声が漏れてしまう。
「いや…吃驚した、あんな霊もいるんだな。」
「そうだね、此岸の世界に残る者が皆悪い訳じゃないから。」
言ってから「私が相手にするみたいなね。」と付け足す。つまり悪霊の類だけが見えざる者の全てではない、と言いたいのだろう。
回数こそ少ないものの、今までそういう類のしか見たことがなかったので今回は本当に驚いたのだ。また負の感情に釣れられたのか、と思ったらパニックを起こしそうになっていた。
「あー…恥ずかしいとこ見られたなー…。」
そう言いながら後ろに倒れ込み頭を抱える。
「慣れだよ慣れ、仕方ないさ。」
その日常生活でよく聞くフォローは今の状況でも通じるものなのか、と密かにツッコミを入れながら開け放たれた庭から見える夜空を見上げた。よく見ると満月が輝いており灯りが無くてもほとんどが月灯りに照らされて見える程である。
「明日、遊んであげなきゃな。」
と呟くと「そうだね。」と瀧二郎が相槌を打った。
「いっぱい遊んであげて。彼女みたいな存在に残された時間は、いくらか分からないから。」
「…………。」
その言葉に、何を言い返せばいいのか分からなくて思わず口を噤む。「何にでも終わりは来るんだよ」と教えてくれたのは誰だったか。ああ、それも幼いころ瀧二郎から教えてもらったんじゃないか。と、ふと思いだした。
小さい頃から常人には見えざるものを見てきた彼の目は、それと同時に幾度となく見てきたであろう見えざるものの終わりを逃げることなく正面から見据えているように感じた。
幼いころから見知っていた幼馴染を眺めながらそう思っていた衛仁は色々な意味で「かなわない」と小さく溜息を吐き、仰向けの身体を起こして再び月を見上げる。
太陽の光を反射した死んだ光を浴びながらあの無邪気な少女のことを思い出す。
開け放たれた襖から入る夏の夜長の心地よい風が頬を撫でていった。