「男同士の友情だ」と言い張る婚約者の浮気相手、実は男でした〜婚約破棄したら替え玉の弟に求婚されたので、幸せになります〜
伯爵家の令嬢であるアメリアは、ここ最近大きな不満がある。
それは、婚約者の侯爵子息ダミアンが白昼堂々と浮気しているからだ。
更に、それを追求すると、彼は悪びれもせずに「何が悪い?」と言う始末だった。
開き直りではない……いや、アメリアにとっては充分に開き直りではあったが。ダミアンは本当にそれが悪いとは思っておらず、むしろそうするのが常識と言わんばかりにアメリアを非難する始末だった。
「だから何度も言っているだろう。騎士団では男も女も関係ないんだ」
アメリアはこの日も改めてその点について咎めたのだが、ダミアンは困ったように眉を下げ、いつもの軽い調子で肩をすくめるだけだった。
久々に作った二人の時間、侯爵家の応接間にて。窓から差し込む午後の光が彼の整えられた鮮やかな金髪を照らす。容姿にも恵まれて仕草も洗練され、知識も富んでいるため、同年代の令嬢からの評判は良い。
……ただ一点、浮気にさえ目を瞑れば。
それが致命的でもあったのだが。
ダミアンは栄えある王国騎士団に所属し、国の治安維持に務めている。普段は王都内の警備や訓練などに従事するが、凶暴な魔物が暴れ出せば討伐しに派遣される。危険と隣り合わせの職場ではあるが、平和と安全を守るこの騎士団は、国中の貴族から民百姓に至るまで多くの者から尊敬の眼差しを向けられている。
王国騎士団には女性騎士も少ないながらも所属している。例えば年端も行かない王女の護衛騎士、国外からの女性の来賓の護衛役は女性騎士が務めることがある。他にも魔物の討伐を生業とする辺境伯の家の娘が騎士となる場合もある。
王国において、性別の違いで騎士として求められる違いは無い。過酷な任務に従事する騎士団においては団員全員が一蓮托生なのだ。苦楽を共にするうちに熱い友情が結ばれることも少なくなかった。
目下、アメリアが目の前にいる婚約者のダミアンについて悩ましく思っている事情は、このダミアンが騎士団内の同僚、つまり女性騎士のフランツィスカと必要以上に仲良くしていることだった。
子爵令嬢ながら女性騎士となったフランツィスカがダミアンと親密になったのは、少し前の時期だった。二人とも妙に距離感が近く、交わされる言葉も全く遠慮がないものだった。スキンシップと称してお互いに身体を触れることさえもあった。
あまりにも目に余るため、「浮気ではないのですか?」と疑問を投げかけたアメリアに対し、ダミアンは「自分たちの友情を阻害するのか」と逆に怒り出す始末だった。あくまでも共に国を平和を守る同僚に対しての友情であって、浮気などとは考えすぎだ、と一笑に付すだけだった。
アメリアはテーブルの下の膝の上で重ねた手に力を込める。
「関係ない、とおっしゃるなら、なぜ先日の夜会ではわたくしではく、フランツィスカ様を迎えにいらしたのですか。あなたはわたくしの婚約者なのですけれど」
「それは彼女の家の馬車が故障したからだってこの前も説明しただろう。いやいや、あのさ、アメリア」
ダミアンは身を乗り出し、我儘を言う子どもに言い聞かせるように声を和らげた。それが馬鹿にされているように聞こえてしまい、アメリアは唇を固く結ぶ。
「俺たち騎士団は治安維持で命を張ってるんだ。魔獣を討伐するために遠い所まで遠征しなきゃいけないんだ。背中を預ける仲間に向けて男だの女だのと気にしている余裕はない。釜の飯を食って、同じ天幕で雨をしのいで、そうやって結束を深めるんだよ。フランツィスカと仲がいいのは、任務を円滑にこなすためだ」
「……本当にそれだけですの?」
「ああ、アメリアが過敏に反応してるだけさ。何なら他の騎士に聞いてくれてもいい。俺たちの付き合いはいたって健全だ、ってね」
そう言って、ダミアンはにっこりと笑う。
悪気のかけらも感じられない笑顔だった。
あまりにも当然のようにいけしゃあしゃあと言うものだから、アメリアはまるで自分の常識の方がおかしいのか?と一瞬疑ってしまった。そしてダミアンの意見を変えさせる言葉が無いアメリアは、それ以上何も言えなかった。
アメリアはそれをおかしいと言えるほど騎士団の常識なんて知らない。知らないのに咎めた結果、騎士団の中で性別の違いで壁が出来てしまうような深刻な影響を及ぼし、後々騎士団が任務に失敗してしまうかもしれない。
しかし、だからと言って納得できるわけがない。
そして、不満を飲み込んだまま黙って現状を受け入れられない。
騎士団内でしか通用しない常識を外に持ち出されていいものだろうか?
帰りの馬車に揺られながら、アメリアは窓の外を流れる王都の景色をぼんやり眺める。まるで魚の小骨が喉の奥に引っかかっているような不快な感覚は、ここ数か月ずっと消えないままだった。
◇◇◇
「それ、絶対におかしいわよ!」
数日後。王都の目抜き通りに面した小さなカフェで、ドーリスはカップをソーサーに叩きつけんばかりの勢いで言った。直後、周囲の視線が集まってきていないかを窺い、ドーリスは恥ずかしそうに縮こまる。
ドーリスはアメリアの友人で、同じく伯爵家の令嬢だ。栗色の巻き毛を揺らし、歯に衣着せぬ物言いでアメリアの気持ちを何度も代弁してくれる、頼もしい友人である。彼女と友達になれたことは幸運だった、とアメリアは今でも感じている。
「婚約者がいる身で、異性の同僚とべたべたするなんて。常識の範囲内、なんて言葉で片づけるほうが非常識よ」
「でも、わたくしが騎士団の事情を知らないのは事実ですもの。言い返せなくて」
「そこが向こうの思うつぼなのよ。……ああもう、そんな浮気男にはわたしが直接ガツンと言ってやりたいわ」
「ドーリス、落ち着いて」
苦笑しながらアメリアは紅茶を口に運ぶ。気晴らしにと誘われた散策だったが、こうして話を聞いてもらえるだけで少し心が軽くなる気がした。
そんな穏やかな時間が流れている時だった。
通りを挟んだ向かい側。宝飾店の並ぶ石畳の道を、見覚えのある二人が並んで歩いていた。
一人は、金髪を軽やかに揺らす青年。婚約者のダミアン。
もう一人は、鮮やかな赤茶色の髪を高い位置で結んだ、すらりとした背の高い女性。
動きやすそうな私服姿とはいえ、スカートではなくズボンスタイル。非番の女性騎士が良くする格好だ。
見間違うはずもない。
彼女は子爵令嬢フランツィスカだった。
「……あれ、ダミアン様じゃない?」
ドーリスの声が低くなる。
ダミアンは身振り手振りを交えて何かを話し、フランツィスカの肩に馴れ馴れしく手を回そうとしては、さりげなく躱されている。その表情はだらしなく、鼻の下が伸びきっていた。
リラックスした様子からも任務や視察、巡視とはとても思えない。
どこからどう見ても男女の逢瀬だろう。
「アメリア、行くわよ。今すぐ問い詰めてやるわ!」
勢いよく立ち上がったドーリスの袖をアメリアはとっさに掴む。
「待って」
「どうして!」
「ここで声をかけても、きっとこう言われますわ。「仲間と買い物に来ただけだ」「常識の範囲内の交流だ」と」
うぐっ、と、ドーリスが言葉に詰まる。
冷静さを取り戻したドーリスは静かに椅子に座り直す。
「……確かに、あの人ならそう言いそうね」
「ええ」
「じゃあこのまま見逃すつもり? そして目撃したのを黙っておくの?」
「いえ。ですから、逃げ道のない決定的な場面を、この目で確かめたいのです」
アメリアの声は穏やかだったが、その瞳には静かな決意が宿っていた。数か月分のもやもやが、ようやく一つの形になった瞬間だった。
ドーリスはしばらくアメリアの顔を見つめ、やがてにやりと口の端を上げる。
「いいわね、それ。のったわ。尾行ね」
その表情は社交界で見せるものじゃないわ、とアメリアは内心では思ったものの、きっと今の自分を鏡で眺めたら同じ表情をしているのでしょうね、という確信もあった。
◇◇◇
二人は帽子を目深にかぶり、人混みに紛れながら距離を保ってダミアンたちの後を追った。見るものが見れば怪しい挙動ではあったが、多くの人が行き交う中では誰も気に留めなかった。
ダミアンとフランツィスカは人気の菓子店で焼き菓子を買った。買い食いはおろかダミアンと市街を散策などしたことはない。広場の噴水の縁に腰かけて談笑した。ダミアンとあんなに楽しく語り合ったことなど記憶に無い。
それから二人は通りの一角にある高級宝飾店へと入っていった。
「男と女なんて関係ない、ねえ。普通、男性の同僚と宝飾店に入る男がいるかしら」
物陰から店の様子をうかがいながら、ドーリスが吐き捨てる。アメリアは黙って、ガラス越しの二人を見つめた。
店員が恭しく差し出したのは、深い青の宝石をあしらった首飾りだった。窓越しにも分かるような上等な品だ。決して同僚への気軽な贈り物の価格ではない。ダミアンの騎士としての給料なら何ヶ月分だろうか?
ダミアンは得意げに首飾りを手に取り、フランツィスカの首元へ運ぼうとする。
しかし、ここでアメリアやドーリスが予想もしなかったことが起こる。
なんと、フランツィスカはその手をぴしりと押し返した。
「結構だ」
店の外にまで、凛とした声が響いた。
「受け取る理由がない。こういうものは、大切な人に贈るべきだろう」
ダミアンの笑顔が凍りつく。
「私は親しい女性への贈り物を一緒に選んでほしい、と言われたから同行したんだが。私が受け取るのはおかしくないか?」
「い、いや、ほら、日頃の感謝というか、その、仲間として――」
「仲間にこれほど高価な品を?」
フランツィスカがきっぱりと言い切ると、店内に気まずい沈黙が落ちる。
ダミアンは、はは、と乾いた笑いを漏らし、後頭部をかいてごまかした。その額にはうっすらと汗が浮かび、視線が若干彷徨っている。
物陰から見ていたアメリアは、深く、それこそドーリスから「幸せが逃げていくわよ」と言われかねないほど、深く息を吐いた。
(やはり……そういうことでしたのね)
失望が冷たい水のように胸に広がっていく。そしてこれまで婚約者だからと離さなかった相手への親愛、敬意が自分の手からこぼれ落ちていくのを実感する。
これが「仲間としての付き合い」だというなら、自分の目に狂いはない。
ドーリスは今にも飛び出しそうな顔で拳を握りしめていたが、アメリアの視線はもう一人のほうに向いていた。
ふと、違和感が頭をよぎる。
フランツィスカの様子がおかしい。
自分の記憶と照らし合わせても、どうも何かが違っていう。
アメリアの知る彼女は、もっと明るくて大らかに笑う人だった。ダミアンの冗談に大口を開けて笑い、肩を叩き合い、誰とでも異性だろうと分け隔てなく接する――その距離の近さこそが、アメリアの悩みの種だったのだ。
けれど、今日の彼女はダミアンの手が近づくたび、ほんのわずかに身を引いていた。表情は笑ってはいても目が笑っていない。まるで主人に下心から手を伸ばされるメイドのように、己の役目に徹しているようにも見える。
(彼女、どうしてあんなに居心地が悪そうなのかしら)
もはやダミアンに期待していないアメリアにとって、彼女の拒絶は別に安堵に結びつきやしない。だが、そんなダミアンとの間に一線を引いたフランツィスカに対して初めて興味が湧いた。
宝飾店から出てきた二人は、そのまま通りの向こうへ歩き去っていく。ダミアンは機嫌を取ろうとまだ何かを必死にまくしたてていたが、フランツィスカは取り合う様子もなく、当たり障りのない返答をしつつすたすたと前を歩いていた。
その背中を見送りながら、アメリアは小さくつぶやいた。
「明日、お話ししましょう。ダミアン様と」
「ええ。わたしも同席するわよ」
ドーリスが力強くうなずく。
夕暮れの王都に、時刻を知らせる教会の鐘の音が響いていた。
アメリアはまだ知らない。明日、彼女の目の前で、思いもよらない形で真実が暴かれることを。
そして、あの「フランツィスカ」への違和感の正体もまた――。
◇◇◇
翌日の昼下がり。王国騎士団の詰所に隣接する訓練場の脇で、アメリアはドーリスとともにダミアンを待っていた。無論、要件は昨日の逢瀬について話がある、と伝え、使いを出して呼び出してもらっている。
訓練場では、騎士たちが木剣を打ち合う乾いた音が響いている。ちらちらとこちらをうかがう視線は感じたが、アメリアは背筋を伸ばして動じなかった。ドーリスは隣で腕を組みながら騎士たちを睨みつけている。
やがて、ダミアンが小走りでやってきた。後ろには、赤茶色の髪を高く結んだ騎士服姿のフランツィスカが、ダミアンの斜め後ろで付き従っている。
「やあアメリア。わざわざこんなところまで来るなんてな。どうしたんだい? ドーリス嬢まで一緒とは、珍しい」
いつもの軽い調子。昨日のことなど何も気にしていないような笑顔に、アメリアは内心で毒づきつつ、自分を落ち着かせるよう小さく息を整える。
「昨日、王都の宝飾店街で、ダミアン様とフランツィスカ様をお見かけしました」
ダミアンの笑顔がほんの一瞬だけ引きつった。けれどわざとらしく咳払いし、いつものように饒舌に言葉を並べていく。
「ああ、あれか。買い物に付き合ってもらっただけさ。仲間同士の交流の一環だよ」
「宝石をあしらった首飾りを、そちらのフランツィスカ様に贈ろうとなさっていましたね」
「……見ていたのか」
「ええ、最初から最後まで」
ダミアンはしくじったとばかりに困った顔をしたが、すぐに不愉快さを表情に滲ませてきた。
あまりの開き直りに横でドーリスが苛立たしそうに自分の腕を指で叩き続ける。
「男の同僚に高価な首飾りを贈る騎士団の常識とやらを、ぜひご教示いただきたいものですわ」
「だから、死線を共にかいくぐってきた仲間への日頃の感謝だと言っているだろう! まったく、しつこいな。しかも関係ないお友達までつれてきちゃってさ」
ダミアンの声が、苛立ちを帯びて大きくなる。
「アメリア、君は疑い深すぎるんだ。俺はずっと説明してきたはずだ。騎士団には騎士団の流儀がある。部外者が口を出すことじゃない」
「わたくしは、あなたの婚約者ですのに、部外者ですか」
「そういう意味じゃ――ああもう、面倒だな!」
ダミアンは苛立ったように髪をかきあげ、それから何を思ったか、隣に立つフランツィスカの腰へ、ぐいと手を伸ばした。
「見ろよ。こうやって肩を組んだり、腰を抱いたりするのだって、俺たちにとっては絆を深める交流の一環、日常なんだ。な、フランツィスカ? 別に何でもないだろ?」
腰に回すつもりだった手を、そのまま抱き寄せる形に持っていこうとする。周囲で訓練をしていた騎士たちが、思わず手を止めて振り返った。
アメリアは目を見開いた。
(この期に及んで、まだそんなことを――)
けれど、次の瞬間に起こったことはアメリアには、そしておそらくダミアンにも、予想出来ないものだった。
ダミアンの手がフランツィスカの腰に触れる、まさに寸前だった。
フランツィスカの手が目にも留まらぬ速さで動き、ダミアンの腕をがっしりと掴んだ。そのまま背後へ、ぐるりと、捻り上げる。
「いっ、いだだだだだだだだっ!!」
訓練場に、ダミアンの絶叫が響き渡った。
腕をひねり上げられたダミアンは、爪先立ちになって悶絶している。アメリアは口を半開きにしたまま、何が起こったのか理解できずに立ち尽くした。ドーリスは「は? は?」と呟きながら、目を丸くして固まっている。
「――いい加減にしろ」
低く鋭い、まるで研ぎ澄まされた刃のような、静かな声が落ちた。
フランツィスカはダミアンの脚を跳ね、そのまま組み伏せる。片手で頭を、もう片手で腕を押さえ付け、ダミアンに馬乗りになった状態で、フランツィスカは冷え冷えとした眼差しで見下ろす。昨日の宝飾店で見せた、凛とした表情そのままに。
「婚約者がいる身で、これだけ人前で堂々と他の女に触れようとして、よくもまあ『騎士団の日常』などと言えたものだな」
「ま、待て、フランツィスカ、お前どうし……痛い痛い痛い!」
「どうしただと? どうもしない。むしろこれが正常だな。ここ数日、ずっと我慢していたが、もう限界だ」
フランツィスカは腕をひねる力を緩めず、ぐるりと周囲を見渡した。
「王宮騎士の諸君に問おう! この男が私に向けている視線が一体どういうものなのか、本当に気づかないのか? 男の同僚にこんな真似をする輩を騎士と呼べるのか?」
王国の誇る王宮騎士たちがばつが悪そうに顔を見合わせる。何人かは居心地が悪そうにそっと目を逸らす。数少ない女性騎士の反応は様々で、フランツィスカの行動に驚きっぱなしな者もいれば、拍手を送る者もいた。
そしてフランツィスカは、ダミアンから身を離すと、アメリアの方へ向く。
そして彼女……いや、「彼女」は、未だに困惑するアメリアに深々と頭を下げた。
「アメリア嬢。姉が、本当に申し訳なかった」
訓練場が、水を打ったように静まり返った。
「……姉?」
アメリアの声は、自分でも驚くほどか細かった。
「え、ええと、今、姉、と……?」
「はい。順を追って説明させてください」
「フランツィスカ」の顔をした人物は、頭を上げた。そして、おもむろに結んでいた髪紐を片手でほどき、髪を軽く振り払う。すると、さきほどまでの凛とした印象が不思議と少しだけ柔らいだように感じた。
「僕の名はギュンター。フランツィスカの二つ下の弟です」
「お、とうと……?」
ドーリスの口から、裏返った声が漏れる。
「姉は数日前から、重い風邪をこじらせて寝込んでいます。ですが、数日後に迫った騎士団の競技会を欠席するわけにはいかない。そこで、自分と瓜二つの僕に、替え玉になって騎士団に紛れ込めと命じたのです」
ギュンターは、遠い目をした。
フランツィスカという子爵令嬢ではなく、ギュンターという子爵令息。
姉弟とはいえ、ギュンターの容姿はあまりにもフランツィスカと似ていた。
何なら声までそっくりなので、確かに変装させるにはうってつけだろう。
「情けない話ですが、僕は姉の命令に逆らえた試しがありません。『どうせすぐにばれるに決まっている』と何度も訴えたのですが、聞き入れてもらえず……」
そこまで言って、ギュンターは小さくため息をつく。その仕草は確かにアメリアの知る「フランツィスカ」よりもずっと繊細だ。どうやら自由奔放な姉に振り回される、気苦労の多い弟のようだった。
アメリアは昨日の違和感をようやく理解する。
顔は笑っているのに目が笑っていない。ダミアンの手が近づくたびにわずかに身を引く。あれは、男同士のスキンシップを超える嫌悪感、そして近すぎる関係に対する居心地の悪さを必死に堪えていたのだ。
それもそうだろう。
男である彼が、姉の同僚の男にべたべたと触れられそうになっていたのだから。
男の同僚にもそうしているのならそれはそれで問題なのだが、ダミアンが男色家などといった噂は全く聞いていない。であるなら、ダミアンはフランツィスカを女性だと認識したうえで、あそこまで踏み込んでいたことになる。
「では昨日、宝飾品を断られたのは……」
「あんな高価なものを受け取る理由がありません。お断りして当然です」
ギュンターは、きっぱりと答えた。
「それ以前に、騎士団に入ってからこの数日で、僕は何度も『おかしい』と感じていました。姉が男の同僚と親しいのは昔から知っていましたが、肩を抱こうとする、髪に触れようとする、二人きりで飲みに行こうと誘う。……これを『男同士の友情と同じ』などと言う騎士が、複数いるのです」
「そ、そうだったのですか……」
てっきりダミアンだけが騎士団の常識だと言い逃れをするだけの常識外れだと思っていたアメリアは、騎士団に対する評価ががらがらと音を立てて崩れていくのを感じた。騎士団の風潮を悪用した騎士の風上にも置けない輩が在籍しているのだから。
「僕の出身地である辺境では王都ほど男女間の距離は離れていませんでしたが、それでも僕の常識に照らしてもあれは明らかにおかしい」
騎士たちの何人かが、気まずそうに咳払いをした。
女性騎士がそんな騎士たちに向けて汚物でも見るような眼差しを送る。
どうやら騎士団内でも非常識だと認めている者はいるようだ。
「お、おとうと……? 男……? ギュンター……?」
少し離れた場所でひねられた腕をさすりながらへたり込んでいたダミアンが、わなわなと唇を震わせる。
「はい。男です」
「う、嘘だろう……だって、フランツィスカだと、俺は……」
ダミアンの顔から、みるみる血の気が引いていく。
アメリアは、その情けない顔をじっと見つめた。
騎士団でのフランツィスカの隣には、いつもダミアンがいた。それはギュンターが姉に成り代わったここ数日前も変わらない。そう、いつものように鼻の下を伸ばして、満面の笑みで、「フランツィスカ」に馴れ馴れしくつきまとった。
つまり彼は姉と弟、つまり女と男の入れ替わりに最後まで気づかず、男のギュンターに対して肩を組み、距離を詰め、腰に手を回そうとし、あまつさえ宝石まで贈ろうとしていたことになる。
ここでダミアンが性別なんて関係ない、と言い切ったなら、いっそ清々しかったことだろう。しかし、残念ながら、ダミアンは下心からフランツィスカと付き合っていたようで、ここで開き直れるほどの器ではなかったようだ。
「……っぷ」
ダミアンが口元を押さえた。顔色は青を通り越して土気色になっている。
「うっ……嘘だろ……? 俺、男なんかと……マジかよ……」
「失礼な」
ギュンターが半眼で言い放った。
「それは僕の台詞です。この数日間、僕がどれだけ不快な思いをしたか」
アメリアはゆっくりと息を吸って、吐いた。
吐き出した息と一緒に、胸のなかでずっと絡まっていたもやもやが、身体から出ていくようだった。
あれだけ「男同士の友情と同じだ」と豪語していた人が、本物の男性相手に同じことをしようとしていたと分かった途端、吐き気をもよおす。
それはつまり、彼はフランツィスカを同僚として見ていたのではなく、「近づきすぎても拒絶しない、都合のいい女」としての価値しか見出していなかった、という動かぬ証拠ではないか。
自分を、彼女を、そして騎士団の絆さえも、何もかもを軽んじた人。
そんな彼が自分の婚約者だったことに、アメリアは自分を恥じてしまった。
「ダミアン様」
アメリアの声は驚くほど静かで、しかし今までダミアンやドーリスが聞いたことが無いほど底冷えしていた。
「ひとつだけ、確認させてください。昨日、宝飾店でフランツィスカ様……いえ、ギュンター様に首飾りを贈ろうとなさったのは、同僚としての感謝でしたか?」
「そ、それは……その……」
「お答えにならなくて結構です。もう、十分ですわ」
アメリアはまっすぐにダミアンを見下ろした。
つい先程、女性騎士が騎士に向けていた眼差しのように、軽蔑を込めて。
「あなたとの婚約を、解消させていただきます」
「え」
ダミアンが、間の抜けた声を漏らした。
「ま、待ってくれ、アメリア! 違うんだ、誤解だ! 俺は、ただ、仲間として……」
「同じ言い訳を繰り返すのも、お疲れでしょう。今後、あなたとお会いすることはありません。どうぞ、これからはフランツィスカ様との逢瀬をお楽しみください」
「そんな――」
「それから、二度と、わたくしの名を気安く呼ばないでくださいませ」
ぴしゃりと言い切ると、アメリアは優雅に礼をして踵を返した。ドーリスが慌ててその後を追い、去り際に、ダミアンに向かって思いきり舌を出した。
背後から、ダミアンの情けない声が聞こえてくるが、アメリアは振り向かなかった。
ようやく言いたいことを言えた。不満は解消出来た。
まるで今の空模様のように、アメリアの心境は晴れやかだった。
「アメリア嬢」
訓練場を出たところで、呼び止められる。
振り返ると、ギュンターが小走りで追いついてくるところだった。ほどけた髪が風に揺れ、先ほどまでの凛々しい騎士の面影はなく、どこか申し訳なさそうな青年の顔がそこにあった。
「重ね重ね、姉の浅はかな行動でご迷惑をおかけしました。あなたを、不要に傷つけてしまった。本当に、申し訳ありません」
もう一度、深々と頭を下げる。
アメリアは目の前の年下の男性を不思議な気持ちで見つめる。
(この方は、何も悪くないのに)
巻き込まれただけの殿方が心底から詫びている。
お互いに迷惑な二人の被害者なのに。
アメリアの方が申し訳なさを感じるが、この謝罪を否定してはいけないだろう。
「顔を上げてください、ギュンター様」
「ですが」
「謝罪は受け取りますわ。ですが、私の方からはお礼を言わせてください」
アメリアは、久しぶりに心からの笑みを浮かべた。
「真実を明らかにしてくださって、ありがとうございました」
ギュンターは、しばしの間アメリアを見つめ、それから、少し照れたように目を逸らした。
その耳が、ほんのり赤く染まっていたことに、アメリアはまだ気づいていなかった。
◇◇◇
「――そうか。よく話してくれた、アメリア」
伯爵家の書斎。執務机の向こうで、父は組んでいた指をゆっくりとほどく。
事の次第をすべて語り終えたアメリアは、膝の上で手を重ねたまま、静かに父の言葉を待っていた。
語っているあいだ、父は一度も口を挟まなかった。ただ、話が進むにつれて眉間の皺が深くなり、こめかみに青筋が浮いていくのを、アメリアは見て見ぬふりをした。
「婚約者を放っておいて、他家の令嬢にうつつを抜かし、あまつさえ本人かどうかも見分けられずに男に言い寄っていたと。……騎士としても、一人の男としても、救いようがないな」
「お父様……。ですが、この婚約は侯爵家と結ばれたものです。いくら非が向こうにあるからと、解消出来ますでしょうか?」
「安心しなさい。この婚約は私が責任を持って正式に破棄を申し入れる。小倅があれだけの醜態を晒したんだ、解消では済まされない。向こうの侯爵家には相応の説明をしてもらうし、違約金も払ってもらうつもりだ」
父は机を指先で叩き、それから表情を和らげた。
伯爵たる父が見せる父親としての一面、それがアメリアは好きだった。
「それにしても一人で証拠を掴みに行くとは、無茶をしたものだ。だが……よく、自分で確かめた。お前は立派だよ」
その言葉にアメリアの目頭が少し熱くなる。
数か月間、ずっと「気にしすぎ」「過敏」と言われ続けてきた。自分のほうがおかしいのではないかと、何度も思いかけた。けれど、そうではなかったのだと、ようやく誰かに認めてもらえたのだ、と実感できた。
「ありがとうございます、お父様」
こうして、アメリアとダミアンの婚約は、正式に解消された。
◇◇◇
一方、その頃。子爵家の屋敷では、嵐が吹き荒れていた。
「フランツィスカァァァッ!!」
雷のような怒声が、屋敷の隅々まで響き渡る。
家事仕事をしていた使用人たちがびくっと驚き、夕食の支度をする料理人が危うく調理器具を取り落としそうになる。
重い風邪からようやく熱が下がり、寝台から起き上がったばかりのフランツィスカは、居間の床に正座させられ、憤怒を煮え滾らせて仁王立ちする父である子爵の前で、肩をすぼめていた。
「お前は、自分が何をしたのか分かっているのか!」
「え、えっと……ギュンターに、替え玉を頼んだ……?」
「それだけではないわ! そもそも、年頃の令嬢でありながら、男の同僚と肩を組み、腰を抱かれ、二人で飲みに行き、その距離感を『さばさばしているから』などと当たり前のようにしていたこと自体が問題なのだ!」
「だからダミアンとは親友で、そういうのじゃ――」
「お前がそう思っていても向こうがどう思っていたか、まだ分からんのか! その『親友』とやらは、お前の弟に鼻の下を伸ばして、あまつさえ婚約者のいる身で宝石を贈ろうとしたのだぞ!」
「え?」
フランツィスカは、ぽかんと口を開けた。
「ダミアンがギュンターに?」
「そうだ」
「宝石を?」
「そうだ」
「うわ、キモ」
「気持ち悪いのはお前の性根の方だ! あの小僧はお前のことを同僚としてではなく、女として見ていたのだ!」
「……は?」
「辺境伯家に仕える子爵家の娘が女を武器にして名門の子息に取り入ろうとするなど……恥をしれ!」
「……あいつ、そんなこと考えてたの……?」
ようやく事態を飲み込んだ彼女の顔が、みるみる青ざめていく。まさか気づかなかったのか?と、子爵は一瞬だけ怒りを忘れて唖然となる。一方、部屋の隅に控えるギュンターは、「だから言ったのに」と言いたげな顔で静かに目を伏せる。
とはいえ、それほどまでに男からの視線に疎かったのには事情がある。
強力な魔物が跋扈する地域の平定を任された辺境伯家の分家筋にあたる子爵家では、男女問わず武器を取って魔物と戦うことが求められる。自然と男女の付き合いは王都のそれとは違い、仲間や家族のように親しくなった結果に結ばれるものだ。
フランツィスカの周りに同年代の女性がいなかったことも彼女の常識をおかしくした。フランツィスカと男性騎士の距離が近すぎたのは、フランツィスカにとっては辺境での日常と同じようなもの。王宮騎士団の悪しき習慣とフランツィスカの事情が重なり、問題はこれまで野放しになっていた。
「そもそも、フランツィスカは我が家の令嬢としての自覚と常識がなさすぎる。今日をもってお前を王宮騎士団を退団させるよう、既に団長殿には話を通してある」
「えええっ!? 競技会は!?」
「出られるわけがなかろう! 即日退団だ!」
「そんな、あたしの騎士人生が――!」
辺境より充実した王都生活の終焉に、フランツィスカは絶叫する。
「その代わりに、これから厳しい再教育を受けてもらう。礼儀作法、淑女の心得、ダンス、刺繍、その他諸々を一から叩き込む。覚悟しておけ!」
「刺繍なんていやああああ!」
悲鳴が、子爵邸の窓ガラスを震わせた。
ギュンターは、涙目の姉を眺めながらため息をついた。
(自業自得だよ、姉さん)
この後フランツィスカが、替え玉の件を含めて、アメリアにもきちんと頭を下げに行くことになるのは、また別の話である。
なお、再教育が始まってからしばらく経っても、彼女に縁談の話が舞い込んではこなかった。自分の常識は非常識なんだ、と誰か教えてくれればよかったのに、とフランツィスカは肩を落とした。
◇◇◇
そして元婚約者はどうなったかというと……、
ダミアンの不誠実さはあっという間に社交界を駆けめぐった。
「婚約者を蔑ろにして、他の令嬢に言い寄っていたそうよ」
「騎士同士では当たり前だ、とか言い訳してたらしいな」
「しかも、その令嬢が弟の変装だと最後まで気づかなかったとか」
「男に抱きつこうとしたと分かった途端、吐き気をもよおしたそうですわ」
噂話というものは尾ひれがつくほどに面白がられるものである。どこの夜会でも、お茶会でも、ダミアンの名前が出ない日はなかった。それほどまでにダミアンの醜態は社交界を賑わせるのにうってつけだった。
侯爵家は必死に火消しに回った。しかし、「目の節穴な息子」と「不誠実な婚約者」という二つの悪評はれっきとした事実。拭い去ることができなかった。やがて、その評判は侯爵家そのものの威信を傷つけ始める。
侯爵は、苦渋の決断を下した。
ダミアンを廃嫡とすることで、侯爵家を守ることにした。
ダミアンは侯爵家の跡継ぎの座を失い、騎士団での立場も失い、社交界から、あっという間に姿を消した。
その際の惨めな顛末も社交界では面白おかしく語られてはいた。屋敷からつまみ出されただの、侯爵の鉄拳が顔面にめり込んで鼻血が舞っただの、挙句には派遣先では本当に団員同士の絆を深めるために距離感が近すぎるだの。
が、アメリアはあえてそういった話題から距離を置いた。当事者の自分が見解を述べることでこれ以上事態があらぬ方向に転がらないように、との配慮もあったが、何より元婚約者の末路に興味が湧かなかった。
「ねえアメリア、聞いた? あの人の噂」
ある日の午後。
いつものカフェで、ドーリスが声をひそめて身を乗り出した。
アメリアにとって元婚約者は既に過去の人物。彼のその後など自分から知ろうとは全く思わなかったが、かと言って話題に出て無視出来るほど忘れてもいなかった。
「一兵卒として、国境の警備に就いているらしいわよ。しかも、一番辺鄙な砦だとか」
「そう……」
アメリアは、紅茶のカップを静かに置いた。
せいせいするかと思った。それか婚約期間を思い出して少しは悲しむかとも想像した。けれど、胸には何も去来しなかった。自分でも驚くほどに喜びも哀れみもない。ただ「そうなのですね」というだけの他人事なのだ、と自覚した。
「……もう、本当にどうでもいいのですわね、わたくし」
「そうね。それが一番の復讐よ」
ドーリスは満足げに笑い、焼き菓子をひとつ、アメリアの皿に載せた。
◇◇◇
完全に元婚約者に非があったとはいえ、婚約者を失ったことは事実。
アメリアの前に次の問題が立ちはだかる。
「では、次のお相手は、こちらの伯爵家のご三男で――」
「そろそろ、新しい縁談を考えなさい」と父に勧められ、アメリアはお見合いに臨むことになったのである。
けれど、これがなかなかうまくいかなかった。
一人目は、とにかく自分や自分が治める領地の自慢ばかりする青年だった。二時間のあいだ、アメリアが挟めた言葉は「まあ」と「それはすごいですわね」の二つだけだった。
二人目は、アメリアの顔を見るなり、「前の婚約者殿の件、本当ですか? ぜひ詳しくお聞かせ願いたい」と目を輝かせた。社交界の噂好き、と言えば聞こえが良かったが、アメリアへの思いやりは微塵も感じられなかった。
三人目は、悪い人ではなかった。けれど、終始、緊張のあまり、何を話しかけても「はい」としか返さなかった。気まずい沈黙のなかで、ただ時計の針が進んでいくのを眺めていた。きっと夫婦になってもこうなんだろうなぁ、との確信はあった。
四人目は――。
「アメリア、少し休憩したら?」
ある夕方。見合いの帰りに寄ったドーリスの屋敷の庭で、アメリアは長椅子にぐったりと身を預けていた。
「ええ……少し、疲れてしまいましたわ。これで、五人目の方でしたのに」
「そろそろ誰か一人くらい、まともな人がいてもいいのにね」
ドーリスが、ため息混じりに言う。
アメリアは、空を見上げた。夕焼けに染まった雲が、ゆっくりと流れていく。
ふと、頭に浮かんできたのは、あの訓練場での光景だった。
「――真実を明らかにしてくださって、ありがとうございました」
そう伝えたとき、照れたように目を逸らした青年の顔。
(どうして、今になって思い出すのかしら)
自分でも不思議だった。あの人とは、あれ以来、顔を合わせていない。名前と、替え玉をさせられた気の毒な弟だということ以外、ほとんど何も知らないのに。
「アメリア? どうしたの、ぼんやりして」
「いえ、何でもありませんわ」
アメリアは小さく首を振った。
その夜、屋敷に戻ったアメリアのもとに、父が一通の釣書を持ってきた。
今まで可もなく不可もなく、といった感じにアメリアへと渡していたのだが、今度ばかりは違った。どうやら今度のお相手は父のお眼鏡にかなった殿方らしい。
「次の見合いの相手だ。子爵家のご子息でな。先方から、ぜひにと熱心に申し入れがあった」
「子爵家、ですか。歳は?」
「お前より少し年下か、同い年くらいだったか。ほら、写しを見てみなさい」
差し出された釣書に、何気なく目を落とす。
そして、アメリアは、はっと息をのんだ。
そこに書かれていた名前は――あの時に姉に扮していた弟、ギュンターだった。
「お父様、この方は……」
「ああ、あの件のご子息だろう? 先方のご当主から詫びを兼ねて、ぜひ一度会ってほしいと手紙が来ていたのだ。無理にとは言わないが、どうだ?」
アメリアは、しばらく釣書を見つめていた。
自分でも心臓が高鳴るのを感じた。
「……はい。是非、お会いしてみます」
そう答えた自分の声がほんの少し弾んでいたことに、アメリア自身も気づいていなかった。
◇◇◇
見合いの席は、伯爵家の庭園に面したサロンに設けられた。
爽やかな風が開け放たれた窓から白いカーテンを揺らす。テーブルの上には、侍女が淹れたばかりの紅茶と、焼き菓子の皿。いつもと変わらない見合いの支度であるはずなのに、アメリアは朝から何度も鏡の前で髪型を確認し、髪飾りの位置を直していた。
「お嬢様、さきほどから三度目でございます」
「わ、分かっておりますわ」
侍女に苦笑され、アメリアは慌てて手を膝に戻した。
(どうして、こんなに緊張しているのかしら。これまで五人も会ってきたというのに)
答えは自分でも分かっているような気もした。けれど、認めてしまうのは少し気恥ずかしかった。
やがて、扉が軽く叩かれ、執事が来客を告げる。
「子爵家のギュンター様が、お見えになりました」
入ってきたのは、礼装に身を包んだ青年だった。
騎士服ではない。結んでいない短めの髪は、赤茶色で、少し癖がある。背筋はすっと伸びているのに、どこか落ち着きがあり、控えめな雰囲気をまとっていた。
アメリアは思わず立ち上がる。
「ご、ごきげんよう、ギュンター様」
声が上ずってしまった。
アメリアは恥ずかしさのあまりに思わず口元に手を持っていく。
「ごきげんよう、アメリア嬢。……お目にかかれて、光栄です」
ギュンターは、深くお辞儀をした。
そして、顔を上げてから彼は真正面からアメリアを見つめ、朗らかに笑う。
「その節は、本当に、とんだ茶番に巻き込んでしまいました」
「いいえ。巻き込まれたのは、ギュンター様のほうでしょう」
「それは、まあ、そうなのですが」
ギュンターは恥ずかしそうに頬をかいた。その仕草がなんだかおかしくて、アメリアは思わず吹き出してしまった。
「失礼いたしました」
「いえ。笑っていただけて胸をなでおろしました。……姉の所業があなたがどれほど傷つけたかと思うと、ずっと気がかりだったので」
その言葉にアメリアは息を呑んだ。
あの訓練場での出来事から、ずいぶんと時間が経っていた。けれど、この人は、その間ずっと、見知らぬ他人であるはずの自分を気にかけてくれていたのだ。
二人は向かい合って席に着く。
最初は互いに少しぎこちなかった。けれど、侍女が紅茶を注ぎ終え、サロンに二人きりになると、ギュンターはおもむろに切り出した。
「今日は勿論、お詫びだけで終わらせるつもりはありません」
「と、おっしゃいますと」
「ご縁談という形でお会いする機会をいただいたのですから。……僕自身のことも、アメリア嬢に知っていただきたくて」
そこから、ギュンターは、少しずつ自分のことを語りはじめた。
子爵家の次男として育ったこと。姉のフランツィスカに、幼いころから振り回されてきたこと。木登りの罠に落とされ、川に突き落とされ、気づけば姉の「子分」として、あらゆる遊びに付き合わされていたこと。
「それで、剣を?」
「ええ。姉に付き合わされているうちに、いつの間にか」
フランツィスカは騎士に憧れ、ギュンターは何度も姉の練習相手にされた。そう懐かしそうに語るギュンターの過去を、彼の表情から、アメリアが楽しかった思い出なのだろうと受け取った。
「ですが、僕自身は本当は争いごとよりも、本を読んだり、領地の収支を考えたりするほうが好きなのです」
「まあ。領地の運営に、ご興味が?」
「ええ。姉が騎士団に行ってしまったので、将来的には、僕が家を支えることになりそうですし。……それに、数字や帳簿を眺めているのが、案外、性に合っているのです」
アメリアは目を輝かせた。
「実は、わたくしも領地の帳簿を眺めるのが好きなのですわ」
「本当ですか? それは奇遇ですね」
「ええ。伯爵家では、女の趣味ではないと、ずいぶん笑われましたけれど」
伯爵家の後継ぎではないアメリアが他家に嫁いだところで、領地の統治に携わることは基本的には無い。金勘定などを覚えたところでほぼ使い道はなく、それなら刺繍の上達に時間を費やすほうが有意義、が貴族令嬢としての当たり前の考えだった。
無論、アメリアは侯爵家に嫁ぐにあたって必要な知識、教養は習得している。そのうえで自分の趣味の一環として帳簿を手に取った。
なお、元婚約者には黙っていた。どうせ女の仕事じゃない、と否定されるに決まっていたから。
「笑ったりしません。むしろ、素晴らしいと思います」
ギュンターは、前のめりになった。
「去年の不作のとき、どのように穀物の備蓄を調整されたのですか?」
「ええと、それは――」
気づけば二人は夢中になって語り合っていた。領地のこと、本のこと、好きな菓子のこと、苦手な社交界のこと。話題が途切れる暇もなく、飲まれなかった紅茶がすっかり冷めてしまっていることにも気づかなかった。
いつの間にか、窓の外では日が傾きはじめていた。
「――あ」
ギュンターが、はっとして柱時計を見た。
「申し訳ありません。ずいぶんと、長居をしてしまいました」
「いえ、わたくしこそ。こんなにお話しに熱中できたのは、久しぶりですわ」
アメリアは、本心からそう言った。
元婚約者との時間やこれまでの五人の見合いとは、まったく違っていた。
誰かと話していて時間が経つのを忘れたのは、いつ以来だろうか。
席を立ちかけたギュンターが、そこで、ふと動きを止めた。
そして、彼は緊張した面持ちでアメリアの前に立つ。
「アメリア嬢」
「はい」
「ひとつだけ、お伝えしたいことがあります」
ギュンターの声が、少しだけ緊張で固くなっていた。
耳が、うっすら赤く染まっている。
「あの日、訓練場で、あなたは僕に「ありがとう」と言ってくださいました」
「ええ」
「あの瞬間から、ずっと、あなたのことが頭から離れなかったのです」
アメリアは、息をのんだ。
「姉の替え玉として、散々な数日間を過ごしました。けれど、あの日、あなたとお会い出来たことだけは、僕にとっては思いがけない幸運でした。毅然と婚約を解消されたあなたの姿は、とても……美しかった」
ギュンターは、そっと、アメリアの手を取った。
「見合いの席でこんなことを言うのは、順序が逆かもしれません。ですが、どうか聞いて欲しいのです」
「……はい」
「僕はあなたのような方と、これからの人生を共に歩んでいきたい。……ほかの誰でもなく、あなたと」
迷いのない真剣な告白だった。
頼もしさ、誠実さ。上げればきりがなかったが、色々な想いが感じ取れた。
アメリアの胸の奥で喜びが満ち溢れる。
これまで決して感じたことのない想いがアメリアを包み込む。
(ああ、わたくし、ずっと、この言葉を待っていたのかもしれませんわね)
誰かの背中を見つめるだけで、疑って、問い詰めて。そうやって、胸にわだかまりを抱えたまま過ごしてきた日々。もう、そんな日々とはさようならだ。
目の前の殿方は、あんなに不当な目に遭いながら、真っ先に自分のことを案じてくれた。嘘をつかず、飾らず、真正面から向き合ってくれる。
「……ギュンター様」
「はい」
「わたくしの手を、離さないでいてくださいますか?」
ギュンターの目が、大きく見開かれた。
「――はい。一生、離しません」
アメリアは自然と微笑んだ。
「では、そのお話、謹んでお受けいたします」
ギュンターの顔が、喜びのあまりにくしゃりとほころんだ。ほっとしたような、泣き出しそうな、けれど心から嬉しそうな笑顔だった。
その後ろで、扉の隙間から覗いていた家族や侍女たちがこっそりと拳を握りしめていたことは、二人だけが知らない秘密である。
◇◇◇
婚約が成立すると、二人の付き合いは穏やかに、そして着実に深まっていった。
ギュンターは週に一度は必ず伯爵家を訪れ、アメリアとの交流を深めた。時には庭に植えられた花々を眺め、時には領地の帳簿を持ち寄って意見を交換した。また、ある日は二人で街に出かけて散策した。
夜会では、ギュンターはいつもアメリアの隣に立ち、不躾な噂話をする者がいれば、さりげなく話題を変えて守ってくれた。
「疑わなくてよいのは……いいことですわ」
ある夜会の帰り道、馬車の中で、アメリアがぽつりと言った。
「え?」
「ギュンター様のことを疑う必要がない、と思いまして。それがとても楽なのです」
ギュンターは少し考えて、それから優しくアメリアの手を握った。
ギュンターの手は温かく、頼りがいがあり、アメリアを安心させた。
「それは光栄です。もし不安になった時はいつでも言ってください。僕がアメリアを守りますし、力になりますから」
アメリアは握られた手を、ぎゅっと握り返した。
これを皆が幸福と呼ぶのだなぁ、とアメリアはしみじみと感じた。
そんなある日、子爵家の使いが一通の手紙を携えてきた。
差出人はフランツィスカだった。
ギュンター曰く再教育は進んでいるとのことだったので、アメリアはかつて元婚約者をたぶらかした彼女と会うことにした。
訪問すると、フランツィスカは見違えるほどおとなしい淑女の装いで、応接間に座っていた。アメリアの来訪を見て立ち上がり、ぎこちなくお辞儀をし、丁寧なドレスの裾さばきを披露してから、深々と頭を下げる。
「アメリア様。あたし……いえ、わたくしの軽率な行いで、多大なご迷惑をおかけしました。弟まで巻き込んで、本当に、申し訳ありませんでした」
「顔を上げてくださいませ、フランツィスカ様。もう、済んだことですわ」
「ですが……」
「それに」
アメリアは、いたずらっぽく微笑んだ。
「あの日のことがなければ、わたくしはフランツィスカ様の素敵な弟君、ギュンター様とお会いできませんでしたもの。さながらフランツィスカ様はわたくしの愛のキューピットだった、でしょうか」
フランツィスカは一瞬だけ目を丸くして、それから顔を真っ赤にした。
「そ、そんなの、結果論じゃない……いえ、ですわ」
「ふふ。ところで刺繍の方はいかがですか? 今度是非ご一緒にいかがですか?」
「……聞かないでくださる?」
横でギュンターが必死に笑いをこらえていた。
キッとギュンターを睨んだフランツィスカは慌てて視線を落として取り繕う。
それがおかしかったのか、今度はギュンターから笑い声が漏れてきた。
(世間知らずだったフランツィスカ様はあの方のような邪な男性騎士に利用されたのね。でも……今回を教訓として、きっとそんな『サバサバ系女性騎士』は二度と現れないことでしょう)
あの一件でギュンターの家族を崩壊させた、と少し負い目を感じていたが、どうやらそれなりに修復しつつあると分かり、アメリアは胸をなでおろした。
◇◇◇
それから、季節がいくつか巡った。
王都の大聖堂には白い花々が敷き詰められ、鐘の音が雲一つ無い透き通るような青空に響き渡った。
純白のドレスに身を包んだアメリアは父の腕を取り、ゆっくりと祭壇へ向かって歩いていく。その先で礼装姿のギュンターが、少し緊張した面持ちで待っていた。
目が合うと、彼は柔らかく笑った。アメリアも思わず笑みを返す。
最前列ではドーリスがすでにハンカチで目元を押さえていた。その隣では、すっかり淑女らしくなったフランツィスカが必死に涙をこらえている。
誓いの言葉を交わし、指輪を交換し、二人は、そっと唇を重ねた。
祝福の鐘が天までとどかんばかりに高らかに鳴り響く。
「アメリア」
大聖堂の石段を下りながら、ギュンターが小さな声で囁いた。
「はい、旦那様」
「幸せにします。必ず」
「もう、十分に幸せですわ。ですから……二人でこれからもっと幸せになりましょう」
アメリアは夫の腕にそっと寄り添った。
二人の婚姻を祝う歓声と大量の花びらが舞った。
ブーケトスはフランツィスカの手に渡った。ドーリスが悔しがっていた。
こうして伯爵令嬢アメリアは替え玉だった青年と結ばれた。
色々とあって子爵家を継ぐことになったギュンターの下に嫁ぐ形となり、アメリアは子爵夫人として夫を支え続けた。子宝にも恵まれ、子爵家は賑やかで楽しそうな家族だとの評判が囁かれるほどだった。
そして、いつまでも穏やかで幸せな日々を送りましたとさ。
お読みいただきありがとうございました。
今回はサバサバ系女子という題目で執筆してみました。自分では決して思いつかなかった題材だったので、楽しく書けました。
ご意見、ご感想お待ちしています。




