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七回裏、仮面はほどける

掲載日:2026/06/30

 ナイター照明が白く燃え、スタンドを埋めた観客の声が波のように押し寄せていた。


「冷えたビール、いかがですかー!」


 通路に響いた声は、よく通った明るい声だった。三塁側内野席の客が振り返り、何人かが腕を上げる。白地に青いラインの入った売り子用ユニフォームを着た水城澪は、背中のタンクを支えるベルトを整え、笑顔のまま階段を上った。


 その笑顔を、彼は鏡の前で何百回も練習してきた。


 澪という名は借り物だった。本当の名は水城篤志、二十六歳。専門学校を中退してから、短期の仕事を転々としてきた。接客は嫌いではなかった。むしろ得意だった。声色を変えることも、初対面の人に好かれる距離を測ることも、誰かの望む姿を演じることも。


 ただし、彼はいつも少しだけ急ぎすぎた。


 今夜の澪は、落ち着いた栗色のウィッグに、淡い色のメイクを施し、制服の下には輪郭を整えるための補整ベルトと、厚手の布を畳んだパッドを入れていた。客の目に映るのは、清楚で愛想の良い二十代の女性売り子だった。


 それが篤志のつくった「商品」だった。


「お姉さん、こっち二つ!」


「ありがとうございます。お席までお持ちしますね」


 金銭の受け渡しは正確に、会話は短く、笑顔は一拍だけ長く。篤志は自分で決めた順序を崩さない。暑い夜には氷の音を聞かせ、勝ち試合の流れが来れば、少し足を速める。客席の空気を読むことが、売り子の売上を左右するのだと、彼は初日で理解していた。


 通路の向こうから、別の売り子が上がってきた。


 榎本優衣。二十五歳。濃紺のキャップの下から短めの黒髪をのぞかせ、背負ったタンクを片手で軽く支えている。売り子歴は三年。常連客からは「榎本さん」と名前で呼ばれ、球場のスタッフからも頼りにされていた。


 優衣は篤志に軽く会釈した。


「澪さん、三塁側は今日は早いね」


「試合展開がいいですから」


「そうだね。八回までに売り切れるかも」


 優衣の声は淡々としていた。愛想がないわけではない。必要なことだけを、すぐ相手に届く形で言う。その簡潔さが篤志には苦手だった。


 自分のような人間は、空白があると埋めたくなる。沈黙があると、そこに自分の嘘が響いていないか確かめたくなる。


「榎本さんは、今日はどれくらい出そうですか」


「数は気にしない。お客さんが困らないように回るだけ」


「それで上位なの、すごいですね」


「上位を狙う人がいるのも悪くないよ。ただ、焦ると足元を見る余裕がなくなる」


 言い残して、優衣は通路の反対側へ向かった。


 篤志は口元だけで笑った。


 足元を見る。あの女は、何を見ている。


 その夜、澪は売上ランキングの暫定三位に入った。


 休憩所の壁に貼られた電子掲示板には、売り子の番号と売上額が並ぶ。篤志の番号は、最初の週から不自然なほど伸びていた。売上上位者には試合ごとの報奨金があり、月間上位になれば契約更新の条件も良くなる。篤志はそこを目指していた。


 いや、正確には、そこから抜けるための金を目指していた。


 古いアパートの家賃は二か月遅れ、携帯電話会社からは何度も通知が来ていた。借りた金を返せという連絡は、知らない番号からもかかってきた。篤志は電話を取らなくなった。取らなければ、現実は一時的に止まる。


 球場で「澪」を演じているあいだだけは、自分の人生が止まっているように思えた。


 休憩所の隅で、優衣が水を飲んでいた。篤志が近づくと、彼女は掲示板ではなく、彼の足元を見た。


「澪さん」


「はい?」


「今日、階段で一度つまずいたでしょ。無理しないで」


「見てました?」


「見える位置にいたから」


「大丈夫です。慣れてなくて」


「売り子の仕事に?」


「……靴に」


 篤志はすぐに言い直した。彼が履いている靴は、規定品に見せかけて中敷きを入れたものだった。身長を少しだけ高く見せるための工夫。優衣の視線は、その不自然な歩き方を見逃していなかった。


「靴なら、倉庫の担当に言えば替えがあるよ。見栄を張って転ぶ方が危ない」


 優衣はそれだけ言って、売り場へ戻った。


 篤志は小さく舌打ちした。


 見栄を張っているのではない。これは仕事だ。演技だ。自分は客が望むものを提供しているだけだ。誰にも迷惑はかけていない。


 そう考えた直後、ポケットの中でスマートフォンが震えた。


 画面には、登録していない番号からの短いメッセージが表示された。


 ――今月中に払えないなら、こちらも考える。


 篤志は画面を伏せ、ロッカーへ押し込んだ。


 翌週の土曜日、球場は満員だった。


 首位争いの直接対決。夕方から客が入場し、試合開始前から売り場は慌ただしい。売り子たちは全員、通常より早く休憩所に集合して、責任者の谷口から注意事項を聞いていた。


「本日は混雑が予想されます。通路で立ち止まらない。客同士のトラブルがあれば、無理に入らずスタッフを呼ぶ。金銭管理もいつも以上に注意してください」


 谷口は二十九歳の男性で、売り子の運行管理を任されていた。疲れた顔をしていたが、誰かが困るとすぐ動く人だった。


「それから、最近、売り子の名札や勤務記録について問い合わせがありました。自分のカード以外は絶対に使わない。貸し借りも禁止です」


 篤志の背中が一瞬だけ強張った。


 優衣が、列の少し前で振り向いたように見えた。だが、彼女の表情はいつもどおりだった。


 篤志は薄く笑って、タンクを背負った。


 この日の彼には、焦りがあった。


 予定より早く報奨金を得るには、今夜の売上を伸ばさなければならない。売上は客数だけで決まらない。常連の多い区画、勝敗の流れ、応援団の温度、試合の間延び。篤志はここ数日で、売れる場所と時間を覚えていた。


 さらに、今夜は優衣の区画を一部横切って回るつもりだった。


 本来なら、売り子同士には暗黙の担当範囲がある。明確な線ではないが、長く働く者同士は、無用な競争を避けるために守っている。篤志はそれを知っていた。知ったうえで、越えるつもりだった。


 四回表、相手チームが連打で得点を重ねると、球場全体の空気が沈んだ。売上が落ちる時間帯だ。多くの売り子が休憩に戻るなか、篤志は一塁側から三塁側へ移動した。


「冷えたビール、いかがですかー!」


 明るく、少し高めに。客の感情を持ち上げる声。


 その声に反応して、通路の客が手を挙げた。篤志は笑顔を保ったまま近づいた。


「すみません、それ、こっちの区画なんだけど」


 背後から優衣の声がした。


 篤志は振り返らない。


「空いているので、対応しただけです」


「空いているならいい。でも、同じ列を逆から走ると危ない」


「走っていません」


「速く歩くのも、混んでいれば同じ」


 客の前で言い争うわけにはいかなかった。篤志は注文を処理し、会釈してから階段を下りた。優衣も少し離れてついてくる。


 通路の陰に入ったところで、篤志は低い声で言った。


「いちいち監視しないでください」


「監視じゃない。安全の話」


「あなたに言われる筋合いはない」


「あるよ。ここで誰かが転べば、全員の仕事が止まるから」


 優衣の言葉には、怒鳴り声よりも強い硬さがあった。


「澪さん、売上を追うのは自由。でも、他人の仕事を削ってまで取るなら、せめてその責任は考えて」


 篤志は返せなかった。


 責任という言葉を聞くと、胸の奥がひどく冷えた。自分が逃げてきたものの名前を、急に呼ばれたような気がした。


「失礼します」


 彼は優衣の横をすり抜けた。


 その瞬間、補整ベルトの内側が汗でずれた。制服の下の布パッドがわずかに動き、歩幅が乱れる。篤志は慌ててタンクのベルトを握り直した。


 優衣の目が、またそこへ落ちた。


 六回裏、ホームチームの若手選手が逆転の二塁打を放った。


 球場が揺れるほどの歓声が上がり、売り場は一気に動いた。篤志はその流れに乗った。笑って、声を張り、何度も階段を上り下りした。汗でメイクが崩れないよう、休憩ごとに手鏡を確認した。ウィッグの前髪を直し、名札の角度を直し、制服の下でずれた補整具を直した。


 演じることは、思っているより重労働だった。


 しかし、掲示板に表示された数字を見るたび、彼はやめられなかった。


 七回終了時点で、澪は一位だった。


 客席を回りながら、篤志はある男のグループに呼び止められた。


「澪ちゃん、今日はすごいね。ランキング一位なんだって?」


「たまたまです」


「たまたまでここまで来ないだろ。最後に一杯、頼むよ」


「ありがとうございます」


 会計を済ませようとしたとき、隣の男が笑いながら言った。


「新人なのに、ずいぶん慣れてる。前はどこで働いてたの?」


 篤志の指が止まった。


「いろいろです」


「接客系?」


「……そうですね」


「声、きれいだもんな」


 仲間内の軽い冗談に、篤志は笑ってみせた。だが、声のことを言われると、喉の奥が乾く。彼は客に背を向け、次の列へ急いだ。


 そこに優衣がいた。


「澪さん」


「今、忙しいんです」


「谷口さんが呼んでる」


「何の用ですか」


「勤務カードの確認」


 周囲の歓声が遠のいたように感じた。


「私は何もしていません」


「それは谷口さんに言って」


 優衣の目はまっすぐだった。疑っているのか。もう知っているのか。篤志には分からなかった。


 彼は笑顔をつくった。


「あとで行きます。今、注文が――」


「今」


 優衣は短く言った。


 篤志はその声を聞いて、初めて逃げ道を探した。


 通路の奥には、業務用の扉がある。スタッフだけが使う細い通路。休憩所へ向かうならそこを通る必要がある。篤志は優衣の横を抜け、扉を押した。


 内側は冷房が強く、観客の熱気が急に遠のいた。コンクリートの壁、古い掲示、床に伸びる配線。売り場の華やかさとは別の、球場の裏側だった。


 篤志は歩く速度を上げた。


「待って」


 優衣が後ろから呼ぶ。


「何ですか」


「逃げるつもり?」


「逃げていません」


「なら、止まって」


 篤志は止まらなかった。


 そのとき、前方の扉が開き、谷口が出てきた。手にはタブレット端末と、勤務カードの束がある。


「澪さん。少し確認したいことがある」


 篤志は左右を見た。後ろには優衣。前には谷口。壁際には清掃用の台車。逃げ道はなかった。


「何の確認ですか」


「提出されている本人確認書類と、登録情報にいくつか不一致がある。まず、ここでタンクを下ろして」


「私は、仕事中です」


「今は業務を止める。安全上の確認だから」


 谷口の声は落ち着いていた。怒鳴らない。その落ち着きが、篤志にはいっそう恐ろしかった。


「私だけですか。ほかの人は」


「澪さんだけだ」


 篤志の頭の中で、借金の通知、家賃の督促、夜のアパート、鏡の中の自分が一斉に浮かんだ。


 ここで認めたら終わる。


 だから彼は、最後まで演じることにした。


「不一致って、何ですか。名前も住所も出しました。勤務もちゃんとしました。売上も――」


「売上があることと、登録が正しいことは別だ」


 谷口が答えた。


「それに、売上の処理に不自然な点がある。詳しい話は責任者同席で聞く」


 篤志は唇を噛んだ。


 優衣が一歩前に出た。


「澪さん、ここで変なことをしないで。タンクを下ろして」


「あなたは黙って」


 声が低くなった。


 空気が変わった。


 篤志は自分でも分かるほど、普段の声を保てなくなっていた。優衣は一瞬だけ眉を動かしたが、何も言わなかった。


「私は……私は、働いただけです」


「働いた。そこは否定しないよ」


 谷口は言った。


「でも、別人の登録で入って、確認を避けて、売上も自分だけで処理していたなら、それは会社に説明しないといけない」


 篤志はタンクのベルトを外した。金具が硬い音を立てた。


 背中の重さがなくなると、急に立っていられなくなる気がした。


「もういいでしょう」


「名札と、業務用端末を返して」


 谷口が手を出す。


 篤志は名札に触れた。小さなプラスチック板に「水城 澪」と印刷されている。その文字を見ていると、ここ数週間のすべてが、その板一枚に閉じ込められているようだった。


 返したくなかった。


「返してください」


 優衣が言う。


「あなたに関係ない」


「ある。私の区画を勝手に回って、私たちの名前で働いて、今もまだ嘘を重ねてる」


「私たち?」


「売り子全員」


 篤志は、ふいに笑った。


「あなたたちはいいですよね。最初から名前も顔も、何も隠さずに仕事ができて」


 優衣の顔が少しだけ動いた。


「そう見えるだけ」


「何が分かるんですか」


「全部は分からない。でも、隠したいことがあるなら、他人の身分を使っていい理由にはならない」


 その言葉で、篤志の中の何かが切れた。


 彼は名札を握ったまま、横をすり抜けようとした。谷口が腕を伸ばし、止める。篤志は振りほどこうとして身体をひねった。


 その拍子に、ウィッグの固定が外れた。


 栗色の髪が大きくずれ、視界の片側を覆う。篤志はとっさに手を上げたが、指先が空をつかんだ。ウィッグは床に落ち、乾いた音を立てた。


 短く整えた地毛が、冷房の風にさらされた。


 誰もすぐには声を出さなかった。


 篤志はしゃがみ込んでウィッグを拾おうとした。だが、優衣が先にそれを拾い上げた。


「返せ」


 篤志の声は、もう作った声ではなかった。


「返して」


 優衣は答えない。彼女はウィッグを谷口に渡し、篤志の前へ戻った。


「顔も、拭いて」


「嫌だ」


「確認が必要」


「嫌だと言ってるだろ」


 篤志は顔を背けた。汗でメイクの一部がにじみ、頬には薄い筋ができていた。優衣は台車の上にあった未使用の清拭シートを取り、谷口に目で確認した。谷口が頷く。


「無理に押さえつけない。自分で落として」


「……」


「自分で終わらせて」


 優衣の言葉に、篤志はしばらく動かなかった。


 やがて、彼は清拭シートを奪うように受け取った。目元、頬、口元。数回こするたび、鏡の中でつくってきた「澪」の輪郭が消えていく。薄いファンデーションがシートに移り、整えた眉の線がぼやけ、汗と混ざった色が指先に残った。


 それは露出ではない。ただ、偽っていた顔が、少しずつ元の顔に戻るだけだった。


 それでも篤志には、服を剥がされるよりも恥ずかしかった。


 優衣は黙って見ていた。


「これでいいですか」


 篤志が言うと、谷口は短く答えた。


「次に、制服の下の補整具も確認させて。別室で、同性のスタッフを呼んで対応する」


「今ここでやれって言うんですか」


「今ここではやらない。人のいない確認室へ移る」


 谷口の言い方は事務的だった。篤志はそれが救いであることを、認めたくなかった。


 確認室は、スタッフ通路の奥にある小さな部屋だった。壁際に机が一つ、折りたたみ椅子が二つ、鍵付きロッカーが一列。谷口が女性スタッフの柏木を呼び、優衣は扉の外に残った。


 篤志は制服の上着を脱ぎ、補整ベルトを外した。長時間の勤務で締めつけていたベルトがゆるむと、胸元や腰回りの形を整えていた厚手のタオル束が、制服の内側からずれて床に落ちた。袋に詰めた替えのパッドも、足元へ転がる。


 柏木はそれを一瞥して、記録用の袋に入れた。


「衣装の品は、あとで返却手続きをします。今は確認のために預かります」


 篤志は何も答えなかった。


 鏡のない部屋だった。だから、どんな顔をしているのか分からなかった。


 谷口は資料を机に並べた。


「勤務登録の氏名と、提出書類の番号が一致していない。さらに、申請のメールアドレスが本人名義ではないことも確認した」


「……」


「それだけじゃない。売上処理の一部に、同じ決済番号が繰り返し入っている。今の段階では、意図的か入力ミスかを調べる必要がある」


 篤志は顔を上げた。


「盗んでない」


「そういう話はしていない。調査中だ」


「盗んでないんだ」


 今度は、喉が震えた。


「報奨金が欲しかっただけだ。売上を増やせば、契約が伸びると思った。だから……」


 そこから先を言葉にできなかった。


 谷口はしばらく待ってから、静かに尋ねた。


「本人の名前で応募できなかった理由は?」


「前の職場で、やらかしたからです」


「何を」


「客のクレームを放置した。遅刻もした。仕事を辞めた。次が決まらなくて……それで」


「別人をつくった」


 篤志は頷いた。


 誰かが「悪い人間」と呼ぶなら、それでいいと思った。悪いから、こんなことをしている。悪いから、誰かの名前を借りた。悪いから、終わっている。


 けれど、口に出してみると、それは言い訳にしか聞こえなかった。


 調査が終わるまで、篤志はその日の業務から外された。


 警察を呼ぶかどうか、会社としてどのような処分にするかは、後日決めることになった。谷口は、まず登録情報の不正と売上記録について正式に報告すると告げた。篤志は、名札を机に置いた。


 「水城 澪」と書かれた板は、ひどく軽かった。


 確認室を出ると、通路の向こうから試合終了の歓声が聞こえた。ホームチームが勝ったらしい。スタンドでは花火が上がり、壁越しに鈍い音がした。


 優衣が扉のそばに立っていた。


「まだいたんですか」


 篤志は言った。


「谷口さんに呼ばれたら入ることになってた」


「説教ですか」


「違う」


 優衣は少し迷ってから言った。


「さっきのこと。ウィッグを取ったのは、悪かったと思ってる。止めようとして、結果的にそうなった」


 篤志は答えなかった。


「でも、あなたが何を着て、どう見せたいかとは別に、仕事の登録を偽ったことは問題だよ。そこを一緒にしないでほしい」


 篤志は、初めて優衣の言葉を正面から聞いた。


「一緒にしてない」


「してたよ。『見た目を隠すしかなかった』って顔をしてた。でも、今のあなたが困っている原因は、それだけじゃない」


「分かったようなことを言うな」


「分かってないから、言い切らない。でも、球場で働く人間として言う。売り子は一人で立ってるようで、一人じゃない。客が通路で転べば、近くの売り子が助ける。機械が壊れたら、別の人が売り場を回る。誰かが休めば、残りの人が埋める。だから、名前を借りたまま入ってくると、いつか誰かにしわ寄せが行く」


 優衣は少しだけ息を吐いた。


「私は、あなたが女装して働きたかったことを責めてるわけじゃない。そこを見世物みたいに扱う人がいたら、私も止める。でも、嘘で入って、誰かの信頼を使って稼ごうとしたことは、責める」


 篤志は壁にもたれた。


 言い返せなかった。


 それが一番苦しかった。


 翌週、篤志は球場の管理会社に呼び出された。


 調査の結果、売上データには入力上の不整合があったものの、客から不正に金を取った事実は確認されなかった。だが、他人名義を使った不正な就労と、登録情報の虚偽は明らかだった。報奨金は支給されず、即日で契約解除。今後、系列施設への就労も当面は認められない。


 谷口は紙を差し出した。


「今回のことは、記録に残る。簡単には戻れない」


「はい」


「ただ、あなたが返金すべき金額があるなら、分割の相談はできる。逃げないで連絡を取って」


 篤志は署名した。


 名前欄には、「水城篤志」と書いた。


 自分の字なのに、どこか見慣れなかった。


 アパートへ帰ると、狭い部屋の隅に、ウィッグ用のスタンドが並んでいた。化粧道具、衣装の袋、補整具の替え、使いかけのテープ。どれも、誰かになるためのものだった。


 篤志はしばらく、何も片づけなかった。


 捨てる気にはなれなかった。女装そのものが悪かったわけではないと、優衣が言ったからではない。もっと前から、篤志は鏡の前で別の自分になる時間を嫌いではなかった。誰かになれる気がした。自分ではない顔で、知らない街を歩ける気がした。


 ただ、その「別の自分」を、他人をだます道具にしたのは自分だった。


 そのことだけは、捨てても消えなかった。


 数日後、携帯電話に谷口から連絡が来た。


 ――未払い分の相談について、面談の日程を決めたい。


 篤志は長い間、画面を見つめた。


 これまでなら、無視しただろう。通知を消して、別の名前でまた働ける場所を探しただろう。


 だが、その日は電話に出た。


「水城です」


 自分の声が、ひどく平らに聞こえた。


「ご連絡ありがとうございます」


 谷口の声がした。


 それだけのやりとりだった。


 それでも、篤志には難しかった。


 夏が終わりかけたころ、篤志は小さな配送会社で短期の仕分け作業を始めた。面接では、前の職場のことを聞かれた。彼は全部を細かくは話さなかったが、勤務登録で虚偽があったこと、契約を切られたこと、今は返金の相談を進めていることを言った。


 面接官は困った顔をした。


「正直に言うんだね」


「隠すと、また同じことになるので」


 採用されたのは、繁忙期だけの契約だった。


 時給は球場より低い。客の歓声もない。冷えた飲み物を背負って階段を上ることもない。段ボールを分け、伝票を確認し、時間までに終える。それだけの仕事だった。


 だが、名前を呼ばれたとき、振り返るのに迷わなくなった。


 秋のある日、帰宅途中の駅前で、優衣を見かけた。


 球場の制服ではなく、黒いパーカーにジーンズ姿だった。コンビニの前で、何かをスマートフォンで確認している。


 篤志は通り過ぎようとした。


「水城さん」


 呼ばれて、足が止まった。


 優衣は彼を見て、少しだけ驚いたようだった。


「……榎本さん」


「元気そうではないね」


「元気そうに見せるのは、前の仕事でやめました」


 優衣は小さく笑った。


「それは、まあ、そうだね」


 気まずい沈黙が落ちた。


 篤志は自分から言った。


「返金は、少しずつしてます。仕事も、いまは別のところで」


「聞いてる。谷口さんから」


「聞いてるんですか」


「売り子の仲間だから。あの人、心配してた」


「俺のことを?」


「逃げると思ってたんじゃないかな」


 篤志は苦笑した。


「俺も、逃げると思ってました」


 優衣は頷いた。


「それでも、逃げなかった」


 篤志は、それを褒め言葉とは受け取れなかった。逃げなかったことは、ようやく最低限のことをしただけだ。


「榎本さん」


「何」


「俺、女装すること自体は、やめないと思います」


「うん」


「でも、もう誰かの名前は使わない」


「それでいいと思う」


 優衣は即答した。


「自分で決めた服を着て、自分の名前で働けばいい。ほかの人に説明する必要まで、いつもあるわけじゃないけど」


 駅前の信号が変わった。人の流れが動き出す。


 優衣はバッグを肩にかけ直した。


「そういえば、来週、球場の近くでイベントがある。売り子じゃなくて、公式の案内スタッフを短期募集してるらしい。本人確認は厳しいけど」


「推薦してくれるんですか」


「しない。自分で応募して。落ちたら、それまで」


「厳しいですね」


「仕事だから」


 そう言って、優衣は歩き出した。


 篤志はその背中を見送った。


 球場に戻れるかどうかは分からない。戻れたとしても、同じ場所ではないだろう。白い照明の下で、観客の歓声に包まれながら、別人として階段を上り下りしていた日々は、もう終わった。


 だが、終わったからといって、すべてがなくなるわけではない。


 夜、自宅の鏡の前に立ち、篤志は机の引き出しからウィッグを取り出した。丁寧にブラシを通す。化粧道具も並べる。ただし、名札は置かなかった。


 鏡の中には、まだ何者にもなりきれていない顔があった。


 それでいい、と彼は思った。


 次に誰かになるなら、逃げるためではなく、自分で選んだ姿として名乗るために。


 そして、誰の名前も借りずに、七回裏の歓声のなかへ戻るために。


## 追章 名前のある場所


 十月の終わり、篤志は管理会社から届いた封筒を机の上に置いたまま、三日間開けられずにいた。


 中には、返還すべき報奨金相当額の明細と、勤務記録の訂正に関する書類が入っていた。金額そのものは、篤志が恐れていたほど大きくはなかった。だが、少ないからといって軽くはない。自分が手に入れようとした金が、誰かに支払われるはずだった金と同じ棚に並び、記号と数字に変えられている。


 篤志は郵便物を前にして、しばらく動けなかった。


 「あとでやる」は、彼の人生を壊した言葉だった。


 家賃の支払いも、友人への返信も、次の仕事探しも、病院へ行くことも。あとでやると言っているうちに、相手は待たなくなり、自分だけが古い場所に取り残された。


 だから彼は、その夜、封筒を開けた。


 書類の最後には、今後の面談日が書かれていた。球場の近くにある管理会社の会議室。時間は午前十時。篤志はカレンダーに書き込み、アラームを三つ設定した。


 翌朝、配送会社の仕分け作業で、同じ列にいた年上の男性が言った。


「水城くん、今日は静かだね」


「寝不足で」


「無理するなよ。年末は物量が増える。遅刻しないことだけ守ってくれればいいから」


「はい」


 それは、以前の篤志なら軽く見たかもしれない言葉だった。遅刻しない。それだけ守ればいい。


 だが、守れることを守るのは、思ったより難しい。


 仕事が終わったあと、篤志は駅前のコインランドリーへ寄った。洗濯機が回る音のなかで、スマートフォンに保存していた「澪」の写真を見返した。ユニフォーム姿の自分。明るい表情。背中のタンク。客席に向けた手。


 写真は、誰かが撮ってくれたものだった。初出勤の日、別の売り子が「新人さん、記念に」と言って撮ってくれた。篤志はそのとき、名前を聞かれて、迷いなく「水城澪です」と答えた。


 あの一言を口にした瞬間、自分の本名に傷がついたような気がした。


 けれど、今になって思えば、傷つけたのは名前ではなかった。名前を使う人間のほうだった。


 洗濯機が止まるまでの間、篤志は求人情報を見た。球場近くのイベント運営会社が、冬のファン感謝イベントの短期スタッフを募集している。業務内容は案内、列整理、会場設営補助。応募条件には、本人確認書類の提出と、過去の勤務歴の申告が明記されていた。


 篤志は画面を閉じた。


 優衣が言ったことを思い出した。


 ――自分で応募して。落ちたら、それまで。


 あれは励ましではなかった。可能性だけを示して、選ぶ責任を自分に返したのだ。


 篤志は応募フォームを開いた。


 氏名欄に、本名を打ち込む。


 水城篤志。


 その五文字を入力しただけで、指が止まった。


 過去の勤務歴を記す欄には、球場の売り子としての短い勤務も書かなければならない。書けば落ちるかもしれない。書かなければ、また同じことになる。


 篤志は、事実だけを書いた。


 「球場売店スタッフとして勤務。登録情報の不備により契約終了。現在、関係先と精算および面談を継続中。」


 送信ボタンを押したあと、画面には「受付しました」とだけ表示された。


 返事は、二日後に来た。


 書類選考の結果、一次面談に進んでほしいという通知だった。


 篤志は驚いた。もちろん、採用ではない。だが、はじめから門前払いされなかったことに、かえって怖くなった。


 面談の日、会場となった小さなオフィスには、若い担当者と、現場責任者らしい女性がいた。女性は名刺を差し出した。


「運営部の三宅です。今日は、応募書類の記載について確認します」


「はい」


「球場の件、なぜ書いたんですか」


 篤志は答えを用意していなかった。


「隠して採用されても、また途中で問題になると思ったからです」


「問題の内容は?」


 彼は深く息を吸った。


「別人名義で働きました。職場の登録を偽りました。売上の扱いについても調査になりました。ただ、金銭を抜き取った事実はありません」


「それは確認済みですか」


「管理会社からは、そう説明を受けています」


 三宅は手元の資料を見た。


「こちらでも、応募先の管理会社に確認する可能性があります」


「構いません」


「あなたは、なぜ別人名義を使ったのですか」


 篤志は、少しだけ考えた。


「自分の過去を消したかった。今の自分のままだと、働かせてもらえないと思っていた」


「そして、別人の見た目をつくった」


「はい」


「その見た目をつくること自体が、あなたにとって問題ですか」


 篤志は顔を上げた。


 三宅の問いは、責める調子ではなかった。だからこそ、正確に答えなければならないと思った。


「問題ではないと思います。少なくとも、他人に害を与えないなら。自分の服装や表現の選び方としては、今も嫌いじゃないです」


「では、何が問題だった?」


「自分がそう見えることを、他人の名前を使う言い訳にしたことです」


 三宅は黙って、数秒ほど篤志を見た。


「分かりました。今日の面談はここまでです。採否は後日連絡します」


 帰り道、篤志は落ちると思った。


 しかし、その予想は半分だけ外れた。


 翌週、三宅から電話があり、設営補助のみの短期契約であれば受け入れると伝えられた。客の前に立つ案内業務は、まず実績を見てから判断するという。


「条件を飲めますか」


「はい」


「本人確認と出退勤の記録は、毎日確認します」


「はい」


「何か困ったことがあれば、逃げずに報告してください」


「はい」


 三回目の返事をしたとき、篤志の声が少し震えた。


 冬のファン感謝イベントは、球場の外周広場とコンコースを使って行われた。


 篤志の担当は、会場設営だった。テントの脚を固定し、椅子を運び、案内板を並べ、資材を倉庫から運ぶ。売り子の仕事とは何もかも違う。観客の歓声ではなく、台車の車輪の音がする。ユニフォームではなく、灰色の作業着を着る。誰も「お姉さん」とは呼ばない。


 最初の二日間、篤志は人目を避けるように働いた。


 球場を見るのが怖かった。


 スタンドへ続く階段、休憩所へ向かう通路、見覚えのあるスタッフ用扉。どこも、以前の自分が嘘を抱えたまま走っていた場所だった。


 三日目の午後、資材置き場で作業をしていると、聞き覚えのある声がした。


「その段ボール、そっちじゃない。雨が来たら濡れる」


 優衣だった。


 彼女はイベントの応援スタッフとして来ていた。球場の売り子仲間の一部が、ファン感謝イベントにも入るらしい。優衣は篤志を見つけると、少しだけ目を細めた。


「本当に応募したんだ」


「落ちませんでした」


「設営?」


「はい」


「ちゃんと自分の名前で?」


「はい」


 優衣は頷いた。


「なら、段ボールを濡れる場所に置かないで」


「すみません」


「怒ってない。ただ、そこに置くと怒られる」


 以前と同じだ、と篤志は思った。優衣はいつでも、感情より先に現場のことを言う。


 その日の夕方、急に雨が降り出した。


 屋外ステージの近くにいた客が、雨宿りのためコンコースへ流れ込んだ。案内板が倒れ、子どもが泣き、列が崩れた。篤志は作業を中断して、三宅の指示を待った。


 無線から声が飛ぶ。


「設営班、北側通路の案内補助に回って。立入禁止のテープを持って」


 篤志はテープと看板を抱えて走った。


 北側通路には、予想以上の人が集まっていた。雨を避ける人、トイレへ向かう人、出口を探す人。スタッフが足りない。優衣も、数人の売り子と一緒に人の流れを整えていた。


「水城さん、そっちの階段を止めて!」


 優衣が叫ぶ。


 篤志はすぐに動いた。段差の前に立ち、濡れた床を指して声を出す。


「足元が滑りやすくなっています。こちらは一時通行を止めます。出口は反対側をご利用ください」


 声は、以前の「澪」の声ではなかった。普段の自分の声で、必要なだけ大きく出した。


 最初は、誰も聞かない。


 だが、同じ言葉を繰り返し、看板を見せ、近くのスタッフに合図すると、人の流れが少しずつ変わった。


 そのとき、泣いていた小学生くらいの子どもが、通路の端に立ち尽くしているのが見えた。周囲を見回しても、保護者らしい人はいない。


 篤志は不用意に手を引かなかった。少し距離を取り、しゃがんで目線を合わせた。


「誰かと一緒に来た?」


 子どもは頷く。


「お母さん?」


「……おばあちゃん」


「名前、言える?」


 子どもは小さな声で答えた。


 篤志は無線で迷子対応を要請し、子どものそばに立った。雨音と人の声で、返事が聞き取りにくい。だから、何度も聞き返した。


「大丈夫。探すから。ここから動かないで待とう」


 五分ほどして、青ざめた祖母がスタッフに連れられてきた。再会した二人を見て、篤志は胸の奥が少し緩んだ。


 優衣が、少し離れたところからその様子を見ていた。


 混乱が収まったあと、彼女は篤志のそばに来た。


「さっき、よかった」


「何がですか」


「子どもに触らなかったこと。慌てると、引っ張って連れて行こうとする人がいるから」


「勝手に触るのは違うと思ったので」


「そうだね」


 優衣は短く言った。


「前より、周りを見てる」


 篤志は返事をしなかった。


 褒められると、また演じたくなる。期待に応える顔をつくりたくなる。その癖が、自分の中にまだある。


 だが、彼は笑顔をつくらず、「ありがとうございます」とだけ言った。


 その夜、設営班の作業が終わるころには、雨は止んでいた。


 濡れたコンコースに、照明の光が長く反射していた。球場のスタンドは空だったが、遠くでスタッフが片づけをする音がした。


 篤志は作業着のポケットから、小さな紙を取り出した。管理会社への返金計画。今月分はすでに振り込んだ。額はわずかだったが、ゼロではない。


 優衣が横を通りかかった。


「まだ帰らないの?」


「このあと、倉庫の鍵を返します」


「じゃあ、一緒に行く。私も備品を戻すから」


 二人は並んで歩いた。


 以前なら、篤志は沈黙が怖くて、何か話題を探しただろう。今は、濡れた床を踏む靴音だけを聞いていた。


「水城さん」


「はい」


「球場の仕事に、また戻りたい?」


 篤志はすぐには答えなかった。


「戻りたい、というより……ちゃんと働ける人になりたいです。ここでも、どこでも」


「それでいいと思う」


「でも、売り子の仕事は好きでした」


「それも、否定しなくていい」


 優衣は言った。


「好きだった仕事に戻るために、必要な時間があるだけ」


 倉庫の前で、二人は足を止めた。


 優衣は鍵を取り出しながら、ふと思い出したように言った。


「今度の春、売り子の新人募集があるかもしれない」


「俺は応募できないでしょう」


「今すぐは無理だと思う。系列の記録もあるし」


「ですよね」


「でも、何年後かは分からない。もし応募するなら、最初に谷口さんに相談して。勝手に入らない」


「絶対にしません」


 その言葉を聞いて、優衣は初めて笑った。


「うん。それならいい」


 春が来るまでに、篤志は配送会社の契約を更新した。


 イベント運営会社からは、次の繁忙期にも声がかかった。最初は設営だけだった仕事が、二度目には受付補助を任され、三度目には来場者の案内も担当した。どの仕事でも、本人確認は必要だった。勤務表には、毎回同じ名前を書いた。


 水城篤志。


 ある夜、帰宅後に鏡の前へ座った。机の上には、以前使っていた化粧道具と、新しく買った控えめなウィッグがある。


 篤志は少し迷ったあと、鏡に向かって髪を整えた。


 誰かをだますためではない。何かを隠すためだけでもない。


 自分が選んだ姿で外へ出て、自分の名前で帰ってくるために。


 次の週、彼は休日に球場の近くまで行った。試合のある日ではなかった。外壁には新しいポスターが貼られ、広場には親子連れが歩いている。


 入場口の前で、篤志は立ち止まった。


 以前なら、ここから先に入るためには別の名前が必要だと思っていた。


 今は違う。


 まだ中へ入る資格があるわけではない。過去が消えたわけでもない。優衣の言ったとおり、好きだった場所に戻るには時間がかかる。


 それでも、立ち止まっていられる。


 入口のガラスに、今の自分が映っていた。


 澪でもない。

 誰かの名札を借りた人間でもない。

 ただ、水城篤志だった。


 彼は一度、深く息を吸った。


 そして、球場から背を向けるのではなく、ゆっくりと正面の道を歩き出した。


## 終章 八回表の名前


 一年が過ぎた。


 篤志は二十七歳になっていた。


 配送会社の仕事は、短期契約から契約社員になった。派手な変化ではない。朝に出勤し、伝票を確認し、荷物を分け、遅れが出れば報告する。雨の日も、暑い日も、同じ時間に作業場へ行く。


 だが、同じことを続けるには、以前の彼に足りなかった力が必要だった。


 約束を忘れないこと。

 困ったときに連絡すること。

 失敗を隠す前に、まず報告すること。


 返金の手続きも、最終月を迎えていた。


 管理会社への最後の振込を済ませた夜、篤志は通帳の明細を見た。数字だけなら、何の感慨もない。けれど、一年かけて払った額は、彼が最初に手に入れようとした報奨金より重かった。


 それでも、払えてよかったと思った。


 その週末、篤志のスマートフォンに、知らない番号から電話がかかってきた。


「水城さんですか。球場管理会社の谷口です」


 篤志は、しばらく声を出せなかった。


「……はい。水城です」


「急な連絡で申し訳ない。最後の精算が完了したので、書類の受領について確認したくて」


「分かりました」


「それと、余計な話かもしれないが」


 谷口は少し言いにくそうに続けた。


「来月、球場の地域交流イベントがある。正式な売り子の採用ではない。物販ブースの補助スタッフを、外部運営会社経由で募集するらしい。応募資格は先方が決める。こちらから推薦することはできない」


「はい」


「ただ、応募するなら、最初に事情を伝えるように。何もなかったふりをするのが、一番まずい」


「分かっています」


「……そうか」


 電話はそれで終わった。


 篤志は、しばらく机の前に座っていた。


 過去に関係した場所から連絡が来るだけで、心臓は早くなる。許されたわけではない。谷口も、そう言っていない。ただ、閉じられていた扉の前に、もう一度立つことができるかもしれないという話だった。


 篤志は、地域交流イベントの募集要項を探した。


 今回は、応募フォームの最初の項目に「本人確認書類の提出」「過去の関連就労歴の申告」「接客時の服装規定への同意」があった。篤志はそれを何度も読んだ。


 服装規定は、以前より細かくなっていた。スタッフ全員が統一された上着と帽子を着用すること。化粧や髪型については禁止事項を設けないが、安全を妨げないこと。個人を特定する名札は、本人確認済みの氏名と一致させること。


 篤志は、そこを読んで少し驚いた。


 以前の自分なら、規定の隙を探したかもしれない。どうすれば、自分に都合よく見せられるかを考えたかもしれない。


 今は、規定が先にあり、その中で自分がどう働くかを考えた。


 応募時、篤志は自己申告欄に次のように書いた。


 「過去に当球場で不正な登録による就労を行い、契約解除となりました。精算および所定の対応は完了しています。現在は外部の運営・物流業務で勤務し、本人名義での就労を継続しています。採否判断に必要であれば、関係先への確認を承諾します。」


 書き終えると、胃のあたりが重くなった。


 それでも送信した。


 面談では、以前と同じように、過去のことを聞かれた。


 担当者は、球場管理会社の人間ではなく、イベント運営会社の若い男性だった。彼は資料を見ながら言った。


「当社としては、事実を隠さずに申告した点は確認しました。一方で、来場者が多いイベントです。信用上の懸念がゼロになるわけではありません」


「はい」


「今回の採用は見送るべきだという意見もありました」


 篤志は頷いた。


 当然だと思った。


「ただ、設営補助とバックヤードの在庫管理に限定するなら、採用してもよいという結論になりました。現場での評価次第で、業務範囲を広げるかは判断します」


「ありがとうございます」


「感謝は、勤務で示してください」


「はい」


 イベント当日、篤志は指定されたスタッフ用の上着を着た。


 髪は自分で選んだ短めのウィッグに整え、メイクは控えめにした。事前に運営担当へ相談し、安全上問題がないことを確認している。名札には、はっきりと「水城篤志」と書かれていた。


 名札をつける瞬間、手が止まった。


 以前の「水城澪」という名札を返した日、篤志は自分の名前を使うことが罰のように感じていた。


 今は違う。


 名前は、逃げ場をなくすための鎖ではない。

 約束を引き受けるための印だった。


 イベント開始後、広場はすぐに人でいっぱいになった。地元の小学生チームによる野球体験、選手のトークショー、グッズ販売。篤志はバックヤードで在庫を数え、補充用の箱を台車に積み、必要な場所へ運んだ。


 正午近く、物販ブースの一つでレジ端末が止まった。


 列が伸び、来場者の苛立ちが広がる。担当スタッフが焦っているのを見て、篤志は勝手に操作を始めなかった。まず責任者に無線で報告し、指示を仰いだ。


「レジの予備端末を持っていく。列の誘導を頼む」


 返ってきた指示はそれだけだった。


 篤志はすぐに動いた。


「ただいま機器の不具合が発生しています。こちらの列は順番にご案内しますので、前へ詰めずにお待ちください」


 声は大きく、しかし必要以上に愛想をつくらなかった。


 列の中に、見覚えのある中年の男がいた。去年、篤志から何度かビールを買った常連客の一人だった。男は篤志の名札を見て、首をかしげた。


「君、前に売り子やってなかった?」


 篤志の肩が固くなる。


「以前、球場で働いていました」


「名前、違わない? あのときは女の子だったよな」


 周囲の何人かが振り向いた。


 以前の篤志なら、笑ってごまかしただろう。別の話題に逃げただろう。あるいは、客の態度を責めて、その場を壊したかもしれない。


 今は、列を止めないことを最優先にした。


「以前、登録に不備があり、現在は本人名義で勤務しています。ご迷惑をおかけしました。レジの復旧まで、少々お待ちください」


 男は一瞬、言葉を失った。


「そうか。まあ……大変だったな」


「ありがとうございます」


 篤志はそれ以上、説明しなかった。


 近くで見ていた優衣が、別の列の案内をしながら小さく頷いた。


 その日、篤志は最後まで裏方の仕事を終えた。


 終了後、運営会社の担当者から呼ばれた。篤志はまた何か問題があったのかと思ったが、担当者は作業報告書を見ながら言った。


「在庫数、合っています。急なレジ停止への対応も、指示どおりでした」


「はい」


「前の勤務歴を聞いていたので、正直、現場が混乱しないか心配していました」


「当然です」


「でも、今日は余計なことをしなかった。勝手に判断しなかった。必要なときに報告した。それは評価します」


 篤志は頭を下げた。


「ありがとうございます」


「次回も募集があれば連絡します。ただし、今回の評価が次回の採用を保証するわけではありません」


「分かっています」


 担当者が去ったあと、優衣が倉庫の入口に現れた。


「お疲れさま」


「お疲れさまです」


「さっきの客、面倒だったね」


「前なら、もっと面倒にしてました」


「それはそう」


 優衣は笑った。


 篤志も少し笑った。


「でも、今日の服装、似合ってたよ」


 優衣は何でもないことのように言った。


 篤志は一瞬だけ、どう返せばいいか分からなくなった。


「……ありがとうございます」


「ただ、段ボールは相変わらず置く場所を間違える」


「そこは、まだ直りません」


「直して」


「はい」


 二人は、使い終えた台車を倉庫へ戻した。


 外では、イベントの撤収が始まっている。夕方の空は淡く、照明の点く前の球場は、いつもより静かだった。


 篤志は、スタンドへ続く階段を見上げた。


 あの階段を、かつては別人として上った。

 今は、仕事が終わったスタッフとして横を通る。


 距離はほんの数メートルなのに、そこへ戻るまでに一年かかった。


 優衣が言った。


「水城さん」


「はい」


「来年の夏、もし売り子の募集が出ても、私は何も約束しないから」


「分かってます」


「でも、応募するかどうかは、あなたが決めればいい」


 篤志は頷いた。


「今度は、最初から俺の名前で応募します」


「うん」


 優衣はそれ以上言わなかった。


 球場の外へ出ると、風が少し冷たかった。


 篤志は名札を外さずに歩いた。隠す必要はない。外すのは、勤務が終わってからでいい。


 胸元の名札には、自分の名がある。


 水城篤志。


 それはもう、罰ではなかった。


 誰かの期待を奪うための仮面でもなかった。


 自分がしたことを引き受け、次の仕事へ向かうための、たった一つの正しい表示だった。


 帰宅してから、篤志は机の引き出しを開けた。


 そこには、かつて球場で使っていた「水城澪」の名札が、返却後に発行された処分通知の控えと一緒に入っている。実物の名札は会社へ返した。ここにあるのは、写真に写った名札を印刷した小さな紙片だけだった。


 捨てようと思えば、いつでも捨てられる。


 けれど篤志は、その紙片を破らなかった。


 過去を飾るためではない。

 忘れたふりをしないためだった。


 彼は紙片を封筒へ戻し、その上に、今日のイベントスタッフ用の名札を置いた。二つの名前を並べるのではなく、一方を過去としてしまい込み、もう一方を明日の勤務のために整える。


 翌朝、篤志はいつもどおり配送会社へ向かった。


 作業場の扉を開けると、先輩が手を上げた。


「水城くん、こっちの便、今日多いぞ」


「分かりました」


 篤志は返事をして、伝票を受け取った。


 声は、作ったものではなかった。


 仕事の一日は、派手な歓声も、劇的な幕引きもなく始まる。段ボールを運び、確認し、間違えたら直す。その繰り返しのなかでしか、失った信頼は戻らないのだろう。


 それでも彼は、前を向いた。


 いつかまた、夏の球場で冷えたタンクを背負う日が来るかもしれない。来ないかもしれない。


 だが、どちらでもいい。


 その日が来たとき、彼は誰かの名を借りず、自分の名札を胸につける。

 そして、客席の歓声に向かって、嘘のためではない声を出す。


「ありがとうございました」


 その一言を、今度は最後まで自分のものとして言えるように。


 窓の外では、冬の空が少しずつ明るくなっていた。


 篤志は鞄を持ち、玄関の鏡を見た。そこにいるのは、完璧に整った誰かではない。寝不足の跡が残り、少し緊張した顔をした、ただの二十七歳の男だった。


 それで足りる。


 扉を閉める前に、彼は小さく息を吐いた。


 今日も、自分の名前で働く。


 その積み重ねだけが、仮面を外したあとに残るものを、少しずつ形にしていくのだった。


 名札は、誰かに見せるためだけのものではない。

 自分がどこに立ち、何を引き受けるのかを、毎朝、自分自身に確かめるためのものだ。


 篤志はそのことを、遠回りをして覚えた。


 そして彼は、もう一度だけ前を見て、駅へ向かった。


 朝の風は、静かだった。

 空は澄んでいた。

 行こう。


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