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濁った水  作者: 真月 一蓮


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7/7

最終話

 長い日々がようやく終わる。国境で連行されてから、二年と五十日もの歳月が経過していた。身柄引き渡し交渉が一旦の幕を閉じた。裏では政治的な駆け引きの応酬が続く。


 だがそんな事とは遠い距離にいるロペスは、感慨深げに目を細めている。車窓には人々の日常が映る。


 ロペスは収容所の外に出ていた。


 これから車で国境へ護送される。収容所の道を挟んで向こう側で、水を飲もうとしている女の子がいた。

 護送車が出てくるのが稀なのだろう。珍しげにこっちを見ている。


 くるくるとした癖のある茶色く長い髪。無造作に垂らしたその髪と、緑色が鮮やかなワンピースの裾が風に吹かれてたなびく。サンダルで軒先に立つ彼女の傍らには空になった洗濯籠と、横の空き地には干された服があった。竿が満足げにたゆんでいる。


 平然と水を飲む姿から目を離せなかった――。


 持っていたボトルは、収容所でロペスが飲んでいた水と同じように淡く濁っている。


 国境近くの都市部では当たり前のように、透明な水が出されていた。ロペスの泊まったホテルもそうだ。自分が囚人だから、あんな水を飲まされている。そう勘違いしていた。調べようとすれば、簡単に調べられることだ。だがしなかった。想像できなかったからだ。


 打ちのめされた。


 現実はもっと酷かった。


 やるせない気持ちに襲われた。


 ここは田舎で、B国全体で見ればどうなのかは、ロペスには知りようもない。

 衝撃の受け入れる場所を定められないまま、あの日越えられなかった国境を通過した。


 空は青く、雲は白かった。遠くに山の緑も見える。風が吹くと湿った土の匂いを微かに感じる。目が潤んだ。ちゃんと現実だ。


 記者が出迎え、その奥で医師が待機しているのが見える。歩くのが辛くて、車椅子が用意されていて助かった。向けられたカメラにロペスが疲れた笑顔で応える。悲劇の英雄の凱旋だ。

 道端のカフェでは人々がグラスを向け、盛大に乾杯した。鮮やかな黄色いビールが陽光を反射する。網膜に焦げ付くようなその眩しさに、ロペスは目を奪われる。


「まだビールはいけませんよ?」


 その反応を勘違いしたのか、車椅子を押す看護婦が耳元でからかう。


「そうですね――。では、白ワインにしておこうかな」


「あらあら」


「好きなんです」


「じゃあ白ワインの差し入れをしておきますね。でも約束してください。もう少し体が元気になったら開けましょう」


 看護師に分かるよう頷いた。今はただゆっくりと、眠りたい。




 退院してから一か月後。最後の経過観察を終え、病院を出る。

 ロータリには見覚えのある人物が待っていた。年のいった男と、女だ。ロペスはこの二人に、レストランで勧誘された。


「まだ痩せてるな」


「お久しぶりですね」


「……どうぞこちらへ」


 女性が車のドアを開けてくれる。ロペスは素直に乗った。


「私に姉が居たとは知りませんでした」


「連絡をつけるのに、ああするしかなかったの。両親も御存命じゃなかったし」


「助かりました。あの手紙がなかったら自白していたかもしれない」


「君が折れなかったお陰で、少し良い方向にはなったよ。A国は技術供与の代わりにB国から鉱山開発の資金を援助される。金も人も寄越せと吹っ掛けられていたところからの前進だ」


 新聞によると、地震による古い地層の露出が原因との報告がどちらの政府にも上がっているそうだ。上流の一部でそれが見られた。地層に含まれる鉱石が水の流れにより削られ、シャーヌ河が濁る。詳しい調査結果は一月後に発表予定らしい。


「B国にとっては安く技術を買えたというところでしょうね」


 女性が補足するように言った。供与するのがどんな技術かは教えて貰えなさそうだ。

 ただ鉱石と聞けば、関連する技術や知見はA国が抜きん出ている。製錬するつもりかもしれない。


「C国は?」


「彼らはだんまりだ。自分たちの国境に接している河なのだがな」


 頭の中で整理する。ロペスは中心にいるが、本人を蚊帳の外にして回っていた。




 C国はロペスをB国に捕まえさせることで、金も人も出さずに済んだ。あとは見守っていれば勝手にシャーヌ河は治る。


 B国はロペスを捕まえたことで技術を得た。自国だけでやるより遥かに効率的だろう。


 A国はロペスがスパイだと自白しなかったことで国際問題を回避し、金を得た。




「ドナ河を使われた時点で、こちらから技術者を派遣すれば、それだけで済んだ話かもしれないですね」


「……」


「私が向かってもいい。いくら山岳地帯が峻険でも、牢屋よりはマシでしょうし」


 聞こえない振りをする彼らの胸の内を覗きたいが、答えてくれるとは思えない。


「着きましたよ」


 二人に会った時から、ずっと嫌な予感がしていた。そしてここからがロペスにとって、本当の「長い日々」の始まりだった。

 通された部屋では後ろに一人、前にはテーブルを挟んで男が座っていた。

 慣れ親しんだレイアウトだ。


「ではまず、B国では何を聞かれましたか?」


「はい?」


 テーブルを挟んだ彼がタバコに火を点ける。密閉した空間で煙は行き場を失い、天井に当たると部屋の隅へ沈んでいった。


「聞かれたことに答えてください」


 頭の奥が痛くなった。それでもなんとか喋りだす。


「スパイかどうか聞かれました」


「それで貴方は?」


「もちろん、違うと。そうだと言っていたら、生きて出られないですよね」


「そうですね。――あるいは二重スパイになれと言われませんでしたか?」


「あ……?」


「捕まった時点で作戦は漏れたと我々は考えていました。ですのでもう大丈夫ですよ」


 本当のことを言え。と目が強く光る。


「ちょっと待ってくれ。作戦は漏れたと考えていたって?」


「当たり前ですが、いたずらな情報で兵士を危険に晒すわけにはいきません」


 いたずらな情報?

 兵士を危険に晒す?


 そもそもはB国の強行策を封じるためにミサイル施設の情報を集めていた。まずはB国自身でシャーヌ河の源泉調査、問題の処理をしっかりと行い、それでも解決出来なければA国が手助けしてもいいという流れだったはずだ。

 捕まった時点で作戦を中止したということは、もし若い科学者による水の浄化がうまくいかなかったら、泥沼にはまっていたかもしれない。


 ――だったら最初から隣国へ手を貸せばいい。もっと早くに解決策が判明しただろうに。


 B国の人々は未だに濁った水を飲み続けているんだぞ。病院で使う水だって慢性的に不足している。

 バーレの顔が思い浮かんで、眩暈がした。


「何もしていなかったのか……」


 テーブル越しの男が呆れた顔で首を振る。ロペスはまだ彼の名前も知らない。


「なにを言ってるんですか、こっちは大変だったんですよ。貴方一人の身柄引き渡しでどれだけ奔走したことか。少しは国に感謝する姿勢を見せて欲しいものですね」


 お前が失敗したせいだと暗に責めていた。

 牢屋での日々が去来したロペスは激怒する。どれだけ屈辱的なことをされても、まずは耐えたがこの時ばかりは爆発した。


「お前ら、……ふざけるなよ!」


 胸ぐらを掴む。すぐに後ろから抑えつけられた。


「あ、暴れてるぞっ。早く連れていけ」


「来い、この裏切り者が!」


 部屋の中へ放り込まれ、外から鍵を掛けられる。鉄格子ではないけれど牢屋だ。トイレの横にバケツを見つけた。――バケツの使い方は知っている。


 夕方になるとぼそぼそのパンと水が出る。澄んだ水を口に含むと、濁った水を飲む少女がロペスの脳裏に浮かんだ。

 それは、帰国してから考えないようにしていたことだった。



 分け与えることを知らない世の中で、いったい私は何者と戦っていたのだろう?



 数年後、ロペスは秘密裏に刑に処されるまでそのことを考え続けた。答えは思いつかなかった。ないのかもしれない。

 銃声からほんの少し遅れて、弾がロペスの胸を貫く。


 背中が地面に当たる。自分が倒れたと分かった。


 バーレと違い、ロペスはもうなにも喚きたいことがなくなっていた。

 真相を調べようともせず、ただ「正義」に邁進した。後悔ばかりだが、シャーヌ河の浄水が上手く運んでいることは救いだった。

 B国は山岳地帯に三段の浄水設備を作ることに成功している。その基幹部分の設計に携わることが出来ただけ、報われた。幼い頃から山で川を見ていたお陰か、浄水設備が起こすトラブルを予想できたのだ。皮肉にも表で英雄として祭り上げられなければ話も聞いてくれなかったところだ。


 もう一度、銃声が響いた。





 ロペスの死から半年後。ロペス式と名付けられた三段の浄水システムは今のところ問題なく作動している。堰き止めるような壁があり、大河の水量を調節する「ダム」と呼ばれるようになる機能も加えられていた。

 記念すべき第一回目の定期放流を見届けようと、物好きな人々が道路に集まった。


 少し離れた場所、群衆を眺める位置にゲリラの女性がいた。彼女は思い出したように、抱えている花束を道端の岩にそっと置く。 

 花束の傍には白ワインのボトルがあった。二脚あるグラスは片方が空だ。空のグラスの壁面を、飲み口から伝った雫がすじを作る。


 歓声に遅れて、轟音が下から吹き上がってきた。


 もう一杯注ごうとグラスを持った腕を、導かれるように放流の勢いで飛沫が跳ねた方へ伸ばしてみる。水が少しだけ貯まった。

 水の色を確かめる。

 掲げたグラス越しの空は青く、雲は白かった。透明な水には女性の笑顔が反射する。

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