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9話名を伏せる

名を伏せる


 船の甲板には、一定の揺れが続いていた。

 足元がわずかに傾くたび、身体は自然とその動きに慣れていく。航海が始まってから、すでにしばらくの時間が経っていた。


 雪乃は立ったまま、手にしていたカップを静かに下ろした。

 視線を上げると、すぐ傍に控えている二人の姿が目に入る。


 弥生と忍。

 いつもと変わらず、一定の距離を保ち、主の動きを見逃さぬよう注意を払っている。


 弥生が、わずかにためらうような間を置いてから口を開いた。


「雪姫様……」


 その呼びかけは、これまで何度も繰り返されてきたものだった。

 王城でも、外出の際でも、変わることのなかった呼称。


 雪乃は、すぐには振り向かなかった。

 一度、呼びかけを受け止めるように間を置き、それから静かに二人へ向き直る。


「弥生、忍」


 名を呼ぶ声は落ち着いていた。

 感情を強く乗せることもなく、しかしはっきりとしている。


「今日からは、“雪乃”よ」


 短い言葉だった。

 だが、その一言には、迷いがなかった。


 弥生は一瞬、言葉を失ったように見えた。

 忍もまた、わずかに視線を伏せる。


「旅先で“雪姫様”なんて呼ばれたら、目立って仕方ないわ」


 雪乃は理由を付け足す。

 命令というより、当然の判断を告げるような口調だった。


 弥生は、数拍の沈黙の後、ゆっくりと頭を下げた。


「……かしこまりました。雪乃様」


 声は少しだけ硬い。

 長く身についた呼び方を改めることへの戸惑いが、わずかに滲んでいた。


 忍も続いて一礼する。


「了解しました、雪乃様」


 簡潔な返答だった。

 余分な言葉はなく、意思だけが明確に示されている。


 二人が頭を下げる様子を見て、雪乃は小さく息を吐いた。

 それは安堵とも、確認ともつかない、短い息だった。


「ありがとう」


 そう言ってから、雪乃は視線を外す。

 それ以上、この話題を引き延ばすつもりはないようだった。


 弥生と忍も、すぐには言葉を続けなかった。

 新しい呼称を口に出すことなく、それぞれが胸の中で反復しているような沈黙だった。


 名が変わったわけではない。

 ただ、呼ばれ方が変わっただけだ。


 それでも、その違いは小さくなかった。

 雪姫という肩書きは、この船の上では使われない。

 ここにいるのは、ただ「雪乃」という名の人物である。


 船は変わらず進んでいる。

 その揺れの中で、立場と呼称だけが、静かに置き換えられた。

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