8話旅立ち ― 舟の上にて
旅立ち ― 舟の上にて
波の音が、船体を静かに揺らしていた。
寄せては返す波は荒れることなく、一定の間隔で船腹に触れ、そのたびに低い音を立てる。木の船はその動きに逆らうことなく、海の流れに身を任せるように進んでいた。
ジパングを離れ、雪乃一行を乗せた船は、ラルベニアへ向けて航海を続けている。
すでに陸影は見えず、振り返っても、そこにあるのは果てしなく広がる海原だけだった。
片道三週間。
それは、王族にとって異例の旅程であり、雪乃にとっては初めての「自由な旅」でもあった。
護衛に囲まれ、定められた道を進む移動ではない。
決められた時間に決められた場所へ向かうだけの移動でもない。
船はただ前へ進み、時間は波の揺れとともに流れていく。
雪乃はデッキの端に腰を下ろしていた。
背もたれのない場所だったが、不思議と落ち着く。甲板の木の感触が、じかに伝わってくる。
潮風が吹き抜け、髪を揺らした。
その感触を、雪乃は目を細めて受け止める。
手には、小さなカップがあった。
中には温かい茶が注がれており、船の揺れに合わせて、表面がわずかに波打っている。
雪乃は、ゆっくりと一口含んだ。
「……ふぅ」
息を吐くと、胸の奥まで空気が通り抜けるような気がした。
「海の香り、いいわね。王城では味わえないわ」
言葉は、誰に向けるでもなく、自然とこぼれ落ちた。
王城では、庭園が整えられ、香は選ばれ、空気さえ管理されていた。だが、ここでは、ただ海の匂いがそのまま漂っている。
塩を含んだ風が、頬に触れる。
少しだけ強く、少しだけ冷たい。
雪乃は、もう一度カップに口をつけた。
茶の温かさが、海風と対照的で、心地よい。
船は一定の速さで進み続ける。
誰かに急かされることもなく、合図を待つ必要もない。ただ、波と風に導かれて、前へ進んでいく。
この海の先に、ラルベニアがある。
その事実だけが、静かに胸の中にあった。
雪乃は、海を見つめたまま、しばらく動かなかった。
旅は、確かに始まっていた。




