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婚約破棄破棄されたので流行らない喫茶店をはじめました  作者: みずとき かたくり子


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27話 疲労の朝と「静かに過ごしたい」店主

疲労の朝と「静かに過ごしたい」店主


 朝の柔らかな光が、喫茶店「雪の庭」の窓から差し込んでいた。

 白いカーテンを通した光はやさしく、店内の木製カウンターや棚に並ぶティーカップを淡く照らしている。外の通りはまだ静かで、馬車の音も人の話し声もほとんど聞こえない。


 その静けさの中で、雪乃はゆっくりと紅茶を注いでいた。


「……はぁ……」


 思わず漏れた溜息は、紅茶の湯気に溶けるように消えていく。


 王宮晩餐会。

 貴族の貸切営業。

 ここ数日の出来事を思い返すだけで、肩の奥がずしりと重くなる。


(……私、よく倒れなかったわね)


 雪乃は心の中で自分を褒めながら、カウンター奥の特等席に腰を下ろした。ここは彼女のお気に入りの場所で、客席全体を見渡せる上に、外の様子もほどよく目に入る。何より、紅茶を飲みながらぼんやりするのに最適だった。


 ――本当なら、今日は休みにしてもよかった。


 いや、むしろ休むべきだったのだ。


 それでも彼女は、いつも通り鍵を開け、看板を出し、店を開けてしまった。


「……今日は、静かに過ごしたいわ」


 ぽつりと漏らした本音は、誰に向けたものでもない独り言だった。


「できれば……本当に、誰も来ないでほしい……」


 その言葉を聞き逃さなかったのは、厨房から顔を出した弥生だった。


「お嬢様」


 半眼になったまま、呆れたような声が飛ぶ。


「それなら、最初から店を休みにすればよかったのでは?」


 正論だった。あまりにも正論すぎた。


 雪乃は一瞬だけ視線を泳がせ、それから胸を張る。


「それとこれとは別よ」


「どこが別なんですか」


「私は店長なの。店を開ける責任があるのよ」


 きっぱりと言い切るその姿は、どこか誇らしげですらあった。


 弥生は思わず、額に手を当てる。


「責任感があるのは立派ですけど……その責任の上で“誰も来ないでいい”と願うのは矛盾していませんか?」


「してないわ」


 雪乃は即答した。


「店は開ける。でも、静かであってほしい。それだけよ」


「それだけ、が通るなら苦労しません……」


 弥生の小さな呟きを、雪乃は都合よく聞かなかったことにする。


 そのやり取りを、忍は少し離れた場所から静かに見ていた。

 彼女はすでに掃除を始めており、テーブルの脚や床の隅まで丁寧に整えている。無駄のない動き、感情を感じさせない表情――いつも通りだ。


「……」


 忍は何も言わなかったが、心の中では確実に一言浮かべていた。


(営業する意味とは……)


 しかし、それを口に出すほど、彼女も野暮ではない。


 雪乃は紅茶を一口含み、ほうっと息をついた。


「静かな朝って、それだけで贅沢なのよ」


 カップを両手で包み込み、目を細める。


「紅茶の香りがちゃんと分かって、音がなくて、誰にも呼ばれなくて……最高だわ」


「お嬢様」


 弥生が少し声の調子を変える。


「その理想、“営業中”である必要はありますか?」


「あるわ」


 雪乃は即座に答えた。


「だって、営業してるのに誰も来ない、っていう状況が一番平和じゃない?」


「その発想がもう……」


 弥生は言葉を失った。


 忍は静かに窓の外へ視線を向ける。

 朝の通りは相変わらず静かで、誰かがこちらへ向かってくる気配もない。


「……お嬢様」


 忍が、控えめに声を出す。


「現時点では、来客の兆しはありません」


 その報告に、雪乃の表情が一気に明るくなった。


「本当!?」


「はい。少なくとも、今は」


 雪乃は小さくガッツポーズを作った。


「素晴らしいわ……今日は、いける気がする……!」


「何が、ですか?」


「“何も起きない一日”よ」


 堂々と宣言する雪乃に、弥生と忍は同時に思った。


(……それが一番起きないやつだ)


 だが、そんな二人の内心など知らぬ顔で、雪乃は再び紅茶を啜る。


「昨日まで、あんなに頑張ったんだもの」


 ぽつりと、珍しく弱音の混じった声。


「今日は、静かでいいのよ。何もなくていい。誰も来なくていい」


 その言葉には、冗談ではない本気が込められていた。


 弥生はそれを聞いて、少しだけ表情を緩める。


「……お嬢様も、お疲れなんですね」


「当たり前じゃない」


 雪乃は肩をすくめた。


「人前に出て、笑って、働いて……私は基本、昼下がりに紅茶を飲む生き物なのよ」


「店長として、それはどうかと思いますけど」


「でも、事実だもの」


 くすっと笑いながら、雪乃はカップを置いた。


「だから今日は、静かに過ごすの。奇跡的に誰も来なかったら……それはもう、ご褒美よ」


 その時点で、彼女はまだ知らなかった。


 この“奇跡的な静けさ”が、本当に訪れることを。


 そしてそれが、別の意味での騒動の前触れになることを。


 だが、今はただ――

 朝の光と紅茶の香りに包まれた、穏やかな時間が流れていた。


 雪乃の願いが、ひとときだけ叶っていることを、誰もまだ疑っていなかった。



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