21話 貸切営業後の“婚約申し込み”
21話 貸切営業後の“婚約申し込み”
貸切営業から三日後。
喫茶店「雪の庭」は、いつも通りの――
いや、雪乃にとって理想的な静けさに包まれていた。
開店しているかどうかは、看板を見なければ分からない。
今日はたまたま開いている日だったが、客はまだ一人も来ていない。
雪乃はカウンター席に腰掛け、紅茶をゆっくりと回しながら、満足そうに息を吐いた。
「……やっぱり、静かな午前って最高ね」
「その“静けさ”は、貸切営業の後に生まれた嵐の前触れの可能性があります」
忍が、新聞を畳みながら淡々と返す。
「縁起でもないこと言わないで。
貸切は一度きり、私は静かに喫茶店を続けるの」
「お嬢様が“静かに”という言葉を使うたび、不安になります」
弥生は苦笑しつつ、カップを磨いていた。
「でも、お嬢様。最近、お店の評判……さらに広がっているみたいです」
「え?」
雪乃の手が止まる。
「“広がる”って、どの程度?」
「貴族の間で、“上品で落ち着いた喫茶店”として話題になっているそうです」
「……それは、よくないわね」
即答だった。
「良いことでは?」
弥生が首をかしげる。
「良くないわ。
“話題になる”=“人が来る”=“静かじゃない”もの」
忍が静かにうなずく。
「お嬢様の論理は一貫しています」
そのときだった。
カラン、と鈴が鳴る。
忍が入口を見る。
「……郵便です」
忍は差し出された封筒を受け取り、表情を曇らせた。
「……オルヴィエ男爵家の紋章です」
その言葉を聞いた瞬間、雪乃は露骨に顔をしかめた。
「また男爵家……?
この前のお茶会に参加していた家よね?」
「はい。嫌な予感がします」
忍の声は低かった。
「同感よ」
雪乃は封筒を受け取り、渋々封を切る。
便箋を広げ、読み始める。
一行。
二行。
三行目で──
「……」
雪乃の動きが止まった。
さらに読み進め、
最後の一文を目にした瞬間──
「……はぁぁぁあああ!?」
店内に、悲鳴が響いた。
紅茶のカップが震え、
弥生が慌てて駆け寄る。
「お、お嬢様!? どうされました!?」
雪乃は便箋を握りしめ、震える声で叫ぶ。
「これ……これ、求婚よ!!」
「……は?」
忍が眉をひそめる。
「“あなたの気品と優雅さに一目惚れしました。
ぜひ私の妻として──”
……完全に、そういう手紙じゃない!!」
忍の目が、すっと細くなった。
「……最悪です」
弥生も顔を青くする。
「ど、どうしましょう……!?」
雪乃は頭を抱え、店内をぐるぐると歩き回る。
「私が異国の男爵と結婚!?
ありえない! 格とか身分とか以前に……」
足を止め、叫ぶ。
「父上が絶対に許さないわ!!」
忍が即座に補足する。
「そもそも、お嬢様の素性が知られれば、国際問題です」
「そうよ!
だから絶対に断らないと!」
雪乃は椅子に崩れ落ち、紅茶を一口飲む。
「はぁ……どうして私は、
静かな午後を求めているだけなのに、
こんな面倒ごとばかり呼び込むの……?」
忍が、紙とペンを差し出した。
「お嬢様。
最も安全なのは、“丁寧で礼儀正しい断りの手紙”です」
弥生も続く。
「感情を刺激せず、穏やかに距離を置くのが一番かと……」
雪乃は深くうなずいた。
「ええ……それしかないわね」
便箋に向かい、慎重に文字を綴る。
貴家のご厚意には心より感謝しております。
しかし私には、喫茶店の運営に専念すべき事情がございます。
つきましては、婚約のお申し出にはお応えいたしかねます。
何卒ご容赦くださいませ。
書き終え、雪乃は大きく息を吐いた。
「……よし。
これで、静かな午後が戻ってくるわよね……?」
忍と弥生は、互いに視線を交わす。
(……戻ってくるはずがない)
だが、その言葉を口にする者はいなかった。
雪乃はまだ知らない。
この“丁寧なお断りの手紙”が、
さらに多くの貴族の興味を引き、
喫茶店「雪の庭」を――
**「危険な婚活スポット」**へと変貌させる序章になることを。
雪乃は、今日も紅茶をすする。
「……明日は、静かだといいわね」
その願いが叶った日は、
まだ一度も訪れていなかった。




