15話 働かない店主、堂々と主張する
15話 働かない店主、堂々と主張する
午後の光が、店内の床にやわらかく伸びていた。
喫茶店「雪の庭」は、遅いながらも確かに営業中だった。
席はすべて埋まっているわけではないが、空席が出ればすぐに誰かが腰を下ろす。甘い香りと静かな話し声が、穏やかな空間を形作っていた。
忙しく動いているのは――忍と弥生の二人だけである。
「すみません、こちらのお皿お下げしますね」 「お水、足りますか?」
忍は店内を行き来し、弥生は厨房と客席を何度も往復していた。
プリンの追加を用意し、器具を洗い、次の提供に備える。
一方で。
カウンター席の中央に、まるで置物のように鎮座している人物がいた。
店主・雪乃である。
雪乃は、背筋を伸ばして椅子に座り、紅茶のカップを手にしていた。
視線は店内全体を穏やかに見渡し、時折、満足そうに小さく頷く。
――だが、動かない。
忍は、皿を抱えたまま一瞬立ち止まり、深く息を吸った。
「……お嬢様」
なるべく穏やかな声を選ぶ。
「お客様、増えてきています」
「ええ」
雪乃は当然のように答える。
「とてもいい流れね」
「……少しは、手伝っていただけませんか」
言葉を選んだつもりだったが、語尾には抑えきれない感情が滲んだ。
雪乃は、きょとんとした顔で忍を見る。
「どうして?」
忍は一瞬、言葉を失った。
「どうして、って……」
「だって、ちゃんと回ってるでしょう?」
雪乃は紅茶を一口含み、静かに続ける。
「忍も弥生も、とても優秀だもの」
それは事実だった。
だが、それとこれとは話が違う。
「お嬢様は……店主です」
「ええ」
「“店主”というのは、働く立場です」
「そうかしら?」
雪乃は、少し首を傾げる。
「私は、この店の“空気”を管理しているのよ」
「……空気?」
「ええ」
雪乃は、ゆっくりと店内を見渡した。
「皆、落ち着いているでしょう? 急かされていないし、騒がしくもない」
確かに、客たちは穏やかな表情で過ごしている。
「私がバタバタ動いたら、この雰囲気は壊れるわ」
忍は、反射的に言い返した。
「それは、ただ動きたくないだけでは……」
「違うわ」
即答だった。
「“働きすぎない”のも、仕事よ」
堂々と言い切られ、忍は思わず口を閉じた。
その様子を見て、弥生が厨房から声をかける。
「忍さん……お客様、追加のプリンです」
「……はい」
忍は返事をしながらも、内心ではぐらぐらしていた。
(理屈としては、納得できません……)
だが。
客の表情を見れば、完全に否定もできない。
「……不思議ですね」
忍は、弥生に小さく呟いた。
「お嬢様、何もしてないのに……」
「でも、皆さん楽しそうです」
弥生は苦笑しながら答える。
雪乃は、その会話を聞きながら、満足そうに頷いた。
「ほら。ちゃんと伝わってるわ」
忍は、額を押さえた。
(この人……本気で言ってる……)
それでも、店内は穏やかに回っている。
誰も怒らず、誰も急かされず、ただ甘味と茶を楽しんでいる。
雪乃は、紅茶を置き、静かに言った。
「喫茶店はね、“効率”より“居心地”よ」
その言葉に、忍は反論できなかった。
忙しさの中で忘れかけていた何かを、突きつけられた気がしたからだ。
店は、まだ開いている。
客も、まだいる。
そして――
この平穏が、どれほど続くのかは、誰にもわからない。
雪乃が、次に何を思いつくか次第なのだから。
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