10話 舟上に落ちる姉の影
舟上に落ちる姉の影
潮風がひとしきり吹き抜けたあと、甲板には一瞬だけ静けさが戻った。
船は変わらず進み、波の音も一定だったが、空気の張りだけが、わずかに変わる。
弥生が、小さく息を吸う音が聞こえた。
「雪乃様……一点だけ、お伝えしておきたいことがございます」
声は低く、慎重だった。
それだけで、この話題が軽いものではないと伝わってくる。
雪乃はカップを口元に運びながら、ちらりと弥生を見る。
「なに? あんまり深刻だと、紅茶がまずくなるわよ?」
冗談めかした言い方だったが、弥生の表情は崩れなかった。
言葉を選ぶように、間を置いてから続ける。
「壱姫様が……あの後、シンの国の始皇帝の首をはねられたそうです」
雪乃の手が、一瞬だけ止まる。
だが、驚きの声は上げなかった。
弥生はさらに言葉を重ねる。
「その首を、シンの国へ送り返し……そして、その日のうちに、シンの国そのものを滅ぼされたとか」
波の音だけが、二人の間を埋めた。
雪乃はゆっくりとカップを下ろし、短く息を吐く。
「……壱姉様」
苦笑が浮かぶ。
「あいかわらず、“やる時は容赦ない”わね……」
忍が、淡々と頷いた。
「はい」
雪乃は二人を見て、少しだけ声を落とす。
「忍、弥生。くれぐれも、姉様の機嫌を損ねないようにね?」
その忠告は冗談めいていたが、どこか本気だった。
忍は一拍置いてから、さらに情報を付け加える。
「他にも聞いております。
側近であった丹波の国の藤崎八衛門之守を……“顔が気に入らない”という理由で、斬り捨てたとか」
「ひっ……本当ですか?」
弥生は思わず息を呑んだ。
声がわずかに震えている。
忍は感情を乗せずに続けた。
「その後、八衛門之守が公金を横領していた事実が判明したそうです」
雪乃は額に手を当て、ため息をつく。
「ああ……壱姉様の持論ね。
“人の罪は顔に現れる”」
短く言い切り、肩を落とす。
「……ほんとうに、怖いわ」
弥生は小さく身を縮めるようにしながら言った。
「ですが、壱姫様は……姉妹には、とてもお優しいお方です」
その言葉に、忍が即座に訂正を入れる。
「……私たちは、姉妹ではありませんから」
一瞬、空気が固まった。
波音だけが、変わらず続いている。
雪乃は、照れ隠しのようにカップを持ち上げ、紅茶をすする。
「まあまあ……」
軽く笑って、場を和らげる。
「でもね、壱姉様が海賊団を潰したり、奴隷商人を一掃したりしているのは事実よ」
二人を見て、静かに続ける。
「やっていることは正しいの。
ただ……少し、豪快すぎるだけで」
「少し……ですかね……」
弥生と忍は、ほぼ同時に深いため息をついた。
船は進み続ける。
甲板の上にいる三人の足元で、海は何も知らぬ顔で揺れていた。
壱姫の影は、ここにはいない。
それでも、その存在感だけは、確かに舟上に落ちていた。




