1話
世界の空気は、かくも甘く、そしてほろ苦いものだったのか。
休日の昼下がり。やわらかな秋の陽射しが差し込む、駅前の洒落たカフェ。
俺はテラス席に深く腰を掛け、テーブルに置かれた一杯六〇〇円のブレンドコーヒーを、まるで国宝の茶器でも愛でるかのように見つめていた。
指先には、五年間の労働でこびりついた分厚いタコがまだ残っている。だが、昨日まで俺の肩にのしかかっていた見えない重圧はもうない。十五歳の春から俺の青春のすべてを吸い尽くしたあの紙切れは、ついに昨日、最後の一枚となって消え去ったのだ。
二十歳。世間一般では大学生活を謳歌し、合コンだのサークルだのと浮かれている年齢。俺の人生は、今日この瞬間からようやくスタートラインに立ったと言っていい。
これからは休日にカフェで本を読み、ウィンドウショッピングを楽しみ、ふらりと映画館に入るような、そんな普通の人生を味わい尽くしてやる。
そう決意を新たにしながらコーヒーカップに口をつけた時、ふと、甘い香水、いや、高級なシャンプーだろうか。鼻腔をくすぐる上品な香りに気づいた。
視線を向けると、隣の席にひとりの少女が座っていた。
おそらく同年代だろう。切り揃えられた艶やかな黒髪のショートボブは、風に揺れるたびにシルクのような光沢を放っている。短い髪型特有のボーイッシュさは微塵もなく、むしろ細く長い首筋と相まって、息を呑むほどの優雅さを醸し出していた。
真っ白なブラウスに、質の良さそうな薄手のカーディガン。背筋をピンと伸ばして座るその姿は、俺がこれまで生きてきた泥臭い世界には絶対に存在しない、いわゆる深窓の令嬢そのものだった。
(こういう店には、あんなドラマみたいに綺麗なお嬢様が普通にいるんだな)
俺は少し見惚れながら、悟られないようにそっと観察を続けた。
彼女はテーブルの上に真新しいタブレット端末を立てかけ、その画面を食い入るように見つめている。
電子書籍で難しい学術書でも読んでいるのだろうか。それとも、海外のニュースサイトだろうか。彼女の知的な横顔には、そんな光景がよく似合う。
ただ、一つだけ違和感があった。
彼女の放つ空気が、あまりにも重いのだ。
端正な顔立ちは青白く、タブレットの縁を掴む両手は、指の関節が白くなるほど力が込められている。まるで、この後の数分間で自分の人生のすべてが決まってしまうかのような、尋常ではない緊迫感。
(何か、深い事情でも抱えてるのか……?)
俺がそう推測した、次の瞬間だった。
「……ッ!」
ビクゥッ! と。
静かなカフェのテラス席にはおよそ似つかわしくない、全身が跳ね上がるような痙攣。
彼女は唇を噛み締め、テーブルの下で両脚をバタつかせながら、地獄の底から絞り出すような低く押し殺した声を漏らした。
「な、なぜ……なぜ内を開けるの……ッ!開幕週よ!?馬鹿なの!?鞍上は馬鹿なの……!?」
あまりの奇行に、俺は持っていたコーヒーカップを落としかけた。
お嬢様?開幕週?内を開ける?
頭の中で情報が処理しきれず、思わず前のめりになった俺の視界に、彼女のタブレットの画面が飛び込んできた。
そこに映っていたのは、小難しい活字の羅列でも、お洒落な海外の映像でもなかった。
鮮やかな緑色の芝生。
土煙を上げて疾走する、十数頭の美しい獣たち。
そして、カラフルなヘルメットを被り、鞭を振るう騎手たちの姿。
十五の時から、俺が飯場で時々見せられてきた光景。
休憩時間になるたび、汗まみれの先輩たちが耳にペンを挟み、古びたスマートフォンの小さな画面に噛み付きながら、怒号と歓声を上げていたあの熱狂。
「競馬……?」
無意識のうちに、俺の口からその単語がこぼれ落ちていた。
ピタリ、と。
隣の席の時間が止まった。
タブレットの画面の中でゴール板を駆け抜ける馬群をよそに、彼女の肩がビクンと跳ねる。
そして、油の切れた機械のように、ギギギ……とゆっくり首がこちらへ向いた。
初めて真正面からその顔を見た俺は、思わず息を呑んだ。
透き通るような白い肌に、スッと通った鼻筋。薄紅色の唇は、まるで熟練の職人が精巧に作り上げたフランス人形のように整っている。風に揺れる艶やかなショートボブが、彼女の顔の小ささと輪郭の美しさをより一層際立たせていた。
もしここが夜のパーティー会場であれば、誰もが振り返り、ひざまずくような圧倒的な華がある。間違いなく、俺がこれまでの人生で一度もすれ違ったことすらない、絵画から抜け出してきたかのような絶世の美女だった。
ただし、その目さえ除けば。
優雅な前髪の隙間から覗く、大きく見開かれた黒曜石のような瞳。
そこには、見ず知らずの男に奇行を見られた恥ずかしさなどという、可愛らしい感情は一切なかった。
血走る一歩手前まで見開かれた両眼。緊張で青白くなった頬を伝う一筋の冷や汗。そして、獲物を逃すまいと薄く開かれた唇の隙間から漏れる、荒く熱を帯びた吐息。
それはまるで、最後の命綱が切れる寸前で、突如として目の前に現れた一縷の蜘蛛の糸を見つけたかのような……得体の知れない熱と、ギラギラとした執着が渦巻いていた。
「……もしかして、競馬にご興味が?」
彼女はタブレットを伏せ、探るような、それでいてどこか期待を含んだ声で尋ねてきた。
口調こそ品のある敬語だが、その顔には微かに笑みが張り付いており、眼光は完全に上空からウサギを狙う鷹のそれだ。
「いや……興味はあるというか、知ってはいるんですけど。俺は全然、何も分からなくて」
俺は本能的な危機感を覚え、無意識に少し身を引きながら正直に答えた。
競馬。飯場の先輩たちが血眼になって新聞を睨みつけ、給料袋を薄くしていたあの娯楽。俺の中では完全にガラの悪い男たちの趣味という認識だった。こんな、絵画から抜け出してきたような美人がやるものだとは、欠片も思っていなかった。
「そうですか……」
彼女は短く呟くと、なぜかテーブルの下で小さく、しかし力強くガッツポーズを作った。俺の気のせいでなければ、「よしっ」という微かな声も聞こえた気がする。
「あの、どうかされましたか?」
「いえ、なんでもありません。ただ、素晴らしい原石を見つけた喜びに震えているだけですわ。私にも、まだツキがあるようです」
「原石……?」
彼女はふわりと立ち上がると、俺に向かって優雅に微笑んだ。
「よろしければ、少しお付き合いいただけますか?場所を変えましょう。ここでは、少々会話しづらいですわ。すぐ近くの公園に、日当たりの良いベンチがございますのよ」
「えっ……?わ、わかりました……」
美しいが、有無を言わさぬ圧。俺はそれに瞬間的に敗北し、まだ半分残っていた一杯六〇〇円のコーヒーを慌てて飲み干し、彼女の後に続く羽目になった。普通の休日、早くも崩壊の危機である。
カフェから歩いて数分、少し開けた公園のベンチ。
春の陽気に包まれ、子供たちが遊具で遊ぶのどかな風景の中、俺たちは並んで座っていた。彼女の膝の上には、先ほどのタブレットが鎮座している。
「まもなく、私が勝負を賭けたレースが始まります」
彼女はそう言うと、画面に映し出された出走表とやらを指差した。
「この九番の馬。現在の単勝オッズは15倍、5番人気ですが……これは完全に過小評価です。世間の愚かなギャンブラーたちは、この馬の真の適性を見抜けていないのです」
そこから、彼女の独壇場が始まった。
「いいですか?この馬の本質は、間違いなく『小回り』です。これまで東京などの外回り、ギミックの少ない大箱コースばかりを使われてきました。それでも持ち前のポテンシャルの高さでなんとか馬券内に食い込んでいましたが、それは本来の走りではありませんの。血統表をご覧ください。父は米国型ミスプロ系。母父にはフォーティナイナー系の血が入り、さらに奥にはストームキャットのクロス……スピード要素にファピアノやシアトルスルーを盛り込んでいます。これほどまでに米国要素が豊富なこの馬は、むしろ適性がダートに寄ってもおかしくありません。しかし、芝に適性があるのであれば最大限能力が活きるのは、直線の長いコースでの瞬発力勝負ではなく、今日のような直線の短い内回りコースでの持続力勝負。きついコーナーで自ら動く競馬でこそ、この馬は輝くのです!」
「……は、はあ……?」
「他のギャンブラーたちは過去の着順や上がりタイムの数字しか見ていないから、重要性に気づいていない。だからこそ、こんなにも美味しいオッズがついているというわけです!私はこの時を待っていました!ありがとうございます陣営様!」
早口で捲し立てる彼女の熱量に、俺は完全に圧倒されていた。
大箱?ミスプロ?ライブの話か何かか。
何を言っているのかさっぱりわからない。ただ一つ理解できたのは、彼女がこの九番の馬に並々ならぬ執念を燃やしているということだけだ。
ファンファーレが鳴り、レースがスタートする。
前半は落ち着いていた彼女の様子が、中盤を過ぎたあたりから急変した。
「ええ、いい位置ですわ。そこから……そのままペースを上げて……!」
実況の声が大きくなるにつれ、彼女の声も比例して大きくなっていく。上品な佇まいはどこへやら、身を乗り出し、タブレットを握る手に青筋が立っている。
「さあ!ここからよ!外に出して!抜け出しなさい!……あ、ちょっと、何をしてるの!?」
最終コーナー。彼女の本命馬は、他の馬にブロックされるように馬群に沈んでいく。
「開けなさい!そこをこじ開けなさい!鞭を入れろ!ええええええッ!?」
「……」
……公園のベンチで、清楚な令嬢が絶叫した。現場の怒声と錯覚し、少し胃が痛くなった。
周囲の親子連れが一斉にこちらを振り返る。俺は顔から火が出る思いで、彼女の暴走が止まるのを待った。
しかし、非情にもレースは終わり、九番の馬は掲示板にも載らない大敗を喫した。
静寂。
彼女はしばらく画面を見つめた後、ゆっくりと顔を上げ、俺に向かって優しく微笑んだ。
「……失礼いたしました。少しばかり、喉に小鳥が迷い込んでしまったようですわ」
「どう取り繕っても早朝のニワトリだっただろ」
「鳥だけに、ということですね」
「お前かなり余裕だろ!」
俺の限界メーターが振り切れ、思わずタメ口でツッコミを入れてしまった。しかし彼女は動じる様子もなく、むしろスッと真顔になり、俺に向き直った。
「……先ほど、競馬については何も分からないと仰いましたね?」
「あ、ああ。言ったけど」
「素晴らしいですわ」
彼女はズイッと顔を近づけ、俺の両手をガシッと握りしめた。
「お願いします。次のメインレース、私の代わりに馬を選んでいただけませんか?」
「……は?」
「実は、今月の仕送りが……あと一万円しか残っていないのです。これを失えば、私は来週から公園の水をすすって生きるしかありません。しかし、先ほどの結果からわかる通り今日の私はもうダメです……」
「えっ、あんた学生!?」
彼女は潤んだ瞳で俺を見つめ、両手を取って懇願する。
「私を……信じてください。あなたのその『無知』こそが、今の私に必要な一筋の光なのです。私は、あなたを信じます」
「いやいやいや!出会って三十分の男に言うことじゃないだろ!だいたい、親からの仕送りを全部ギャンブルに溶かすヤツは一番信用しちゃダメな人種だろ!ちなみに俺も結構ロクでもないからな!」
「そんなことありません!感じます……この手から伝わる、安価な石鹸の香り……。これこそが、勝利の女神が好む無欲の証明ですのよ!」
「ハンドソープじゃなくて悪かったな!」
春のうららかな公園。
俺の休日は、出会ったばかりのギャンブル狂の令嬢によって、見事に粉砕されようとしていた。
周囲を通り過ぎる親子連れや散歩中の老夫婦が、奇異の目を向けてくる。
「あのカップル、彼女の方が泣きついてるわよ……」「男が借金でも作ったのかしら……」
ヒソヒソという囁き声が風に乗って聞こえてきた。違う、逆だ。俺は借金をちゃんと返しているのだ。
「お願いです!この通りですわ!」
ベンチに座ったまま、彼女は俺の上着の袖を力強く引っ張り、頭を下げた。手にはしっかりと、残高が示されたタブレットが握りしめられている。
これ以上目立つのはごめんだ。俺の思い描いていた「休日の公園でのんびり読書」という平和なビジョンが、音を立てて崩れていく。
「……あーもう、わかった!わかったよ!選べばいいんだろ!」
「ありがとうございます!さあ、こちらへ!」
彼女はパァッと花が咲いたような笑顔になり、タブレットの画面を俺の顔の前に突きつけてきた。
そこに並んでいたのは、数字と記号、そしてカタカナの羅列だった。
◎やら△やらの印、馬体重、過去の成績らしき細かい数字。見れば見るほど頭が痛くなる。
「こんなの見ても全然わかんねえよ……」
「直感で構いません。あなたのその濁りなきインスピレーションが重要なのですから」
彼女の熱い視線を横顔に浴びながら、俺はリストを上から下へとなぞった。数字は無視して、名前だけを見る。
強そうな名前、速そうな名前、よくわからない名前。
その中で、ふと一つの名前に目が止まった。
「……じゃあ、これでいいよ」
俺が指差したのは、リストの一番下の方にポツンと書かれていた馬だった。
「十五番……『メグリアイ』、ですわね」
彼女は画面を確認し、スッと目を細めた。
「現在の単勝オッズは22倍。7番人気の中穴……。ちなみに、どうしてこの馬を選ばれたのですか?」
「いや、理由なんてないけど……強いて言うなら、俺の名前に似てるから」
俺がそう答えた瞬間、彼女は大きく息を呑み、肩を震わせた。
「……素晴らしいです」
「えっ?」
「血統でもなく、過去のデータでもなく、実力比較でもない。己の名前というルーツとの共鳴……!なんという純真無垢、なんというエゴのなさ!これぞまさに、強欲なギャンブラーたちの思惑から最も遠い場所にある究極のサイン……素晴らしい理由です!」
彼女はタブレットを胸に抱きしめ、天を仰いで恍惚とした表情を浮かべた。
「ただの適当な思いつきを神格化するなよ……。絶対負けるだろ、そんな理由で選んだ馬」
「いいえ!信じますわ!知識という名の呪いから解放された、あなたのその清らかな選択を!」
彼女は力強く頷くと、素早い手つきでタブレットを操作し、最後の一万円を本当にその「メグリアイ」に全額賭けてしまった。
「知らないからな……。俺のせいにするなよ」
「ええ、全てはわたくしの自己責任ですわ。……ところで、名前に似ているとは?」
馬券の購入を終え、どこかスッキリした顔で彼女が首を傾げた。
「あ、俺……愛原メグリって言うんだ。メグリと『メグリアイ』で、ちょっと親近感湧いただけで」
「愛原、メグリ様……」
彼女はその響きを確かめるように口の中で転がすと、ベンチから立ち上がり、ワンピースの裾を軽くつまんで、中世の貴族のような優雅なお辞儀をした。
「メグリ様。素晴らしいお名前ですわ」
「……どうも」
「申し遅れました。わたくし、羽根野レイナと申します」
春の風が吹き抜け、彼女――羽根野レイナの艶やかな黒髪がふわりと揺れた。
見た目だけなら、本当に誰もが振り返るような深窓の令嬢だ。たった今、親からの仕送りの最後の一万円を、初対面の男が適当に選んだ馬に全額ブチ込んだ狂人には到底見えない。
「羽根野……さん」
「レイナで結構です、メグリ様。さあ、もうすぐファンファーレが鳴ります」
レイナは再びベンチに腰を下ろし、俺の隣にピタリと寄り添うようにしてタブレットを構えた。
「メグリ様と『メグリアイ』。二つの運命が交差する奇跡のレース……とくと拝見いたしましょう!」
「……負けても俺のせいにするなよ」
「いいえ、負けません。素人を一人競馬引き込んだことによる報酬で、今回は確実に勝てます。運営様はきっと、この善行を見てくださってるはずです」
「そんなねずみ講もどきのシステム採用してないだろ競馬は」
溜息をつく俺の耳に、華やかなトランペットの音が鳴り響いた。
俺の普通の人生の始まりを告げるはずだった休日は、こうしてよくわからない馬に託された最後の一万円と共に、ゲートを出発しようとしていた。
ファンファーレが鳴り終わり、タブレットの画面越しにゲートが開く音が響いた。
十数頭の馬が一斉に飛び出し、緑の芝生の上を駆け抜けていく。
「……ああっ、メグリアイ、少し出遅れましたわ!」
レイナが悲痛な声を上げる。画面の中の十五番は、集団のやや後ろの方を走っていた。
俺は競馬なんて全くわからない。だが、隣でレイナが両手を固く組み、祈るように画面を凝視しているせいで、嫌でも緊張感が伝染してくる。俺が適当に選んだせいで、このお嬢様の今月の生活費が消滅するかもしれないのだ。
「……頼む、少しでも前に……」
無意識のうちに、俺の口からも祈るような声が漏れていた。
レースは最終コーナーを回り、最後の直線へと差し掛かった。
馬群が横に広がり、先頭争いが激化する。その時だった。
『大外から一気に十五番、メグリアイが上がってくる!』
実況の声が一段と大きくなった。
画面の端から、俺の名前と似た名前の馬が、猛烈な勢いで他の馬をごぼう抜きにしていく。
「……っ!いけます!あああああ゛!!」
隣でレイナが立ち上がり、またしても軍鶏顔負けの絶叫を上げた。だが、今度は俺もそれをツッコむ余裕がなかった。
ズン、ズン、と。
自分の心臓の音が、やけに大きく聞こえる。
俺の選んだ馬が、一頭、また一頭と抜き去っていく。視界がタブレットの画面だけに極端に狭まり、手のひらにじわっと汗が滲む。
十五の時から五年間、泥にまみれて働き、ただ金を返すためだけに生きてきた俺の平坦な感情の波が、今、未知の熱量で大きく跳ね上がっていた。
『メグリアイ先頭!メグリアイ先頭でゴールイン!!見事な差し切り勝ちです!』
決着の瞬間。
俺は息を呑み、ベンチに背中を預けた。
なんだ、この感覚は。ただ百円玉を握りしめて自動販売機でジュースを買うのとは違う。自分の直感が、何倍にも膨れ上がって現実を突き動かしたような、得体の知れない高揚感。胸の奥が、ざわわざわわと波打っている。
「……あ、ああ……!」
隣を見ると、レイナがタブレットを抱きしめたまま、ワナワナと震えていた。
そして、ゆっくりと俺の方を向き、聖母のように神々しい微笑みを浮かべた。
「メグリ様……やりましたわ。22倍。これで……これでまた、今月も戦えますわ!私の正義を、証明できるのです!」
「生活費に充てろ!」
俺は即座に現実に引き戻され、全力でツッコミを入れた。
20万円以上の払い戻しだ。学生が普通に暮らすには十分すぎる額だろう。それなのに、この女の頭の中には「次のレースの軍資金ができた」という思考しかないらしい。
「ああ、なんて素晴らしいビギナーズラック……!私の目に狂いはありませんでした!」
レイナは興奮冷めやらぬ様子で俺に詰め寄ると、突然、俺の右腕を両手でガシッと掴んだ。
「……メグリ様。あなたのその腕には、まだ強大な運気が宿っておりますわ。……どうか、その右腕を私にいただけますか!?」
「怖いわお前!!」
どちらかというと闇のギャンブルで負けた時のペナルティだろそれは!
俺は全力で腕を引き剥がそうとしたが、火事場ならぬ鉄火場の馬鹿力によって、彼女のホールドはビクともしない。
「お願いです!防腐処理は私が手配いたしますから!次のG1レースまで、幸運のお守りとして玄関に飾らせていただきたいのです!」
「だから怖いんだよお前!俺をバラバラにするな!」
「では、せめて……せめて、小指だけでも!」
「生き辛くなるだろ!色んな意味で!」
「そんな……っ!」
「譲歩してるのになぜ……!?みたいな顔すんな!」
春のうららかな昼下がり。
公園のベンチで、深窓の令嬢と取っ組み合いの攻防を繰り広げながら、俺は確信した。
休日にカフェで本を読み、ウィンドウショッピングを楽しむような普通の人生。
今日から始まるはずだった俺の穏やかな日常は、たった一杯のコーヒーと、この美しきギャンブル狂の出現によって、もろくも崩れ去ってしまったのだと。
そして、俺の胸の奥に微かに残る、あのゴール前の焦燥と高揚感。
それが、これから始まる泥沼のような日々の、ほんの入り口に過ぎないということを……この時の俺は、まだ知る由もなかった。




