はつひので(中)1
次の日の朝、視治は松下松政のもとへ戻ることにした。
「ほんまに戻るがか」
兼通が静かに問う。
「はい……先生のおかげで、私は『美しい』というものを少し感じられた気がします。しかし、先生との旅を通して、私はまだ、その美しさをより深く感じるための知識が足りないのだと思いました」
視治は空を見上げた。
一月二日の空は、青く澄み渡り、雲ひとつない。
両手を広げ、大きく息を吸い込む。
冷たい空気が胸いっぱいに満ちる。
胸の奥の迷いを吐き出すように、ゆっくりと息を吐いた。
そして、兼通の方を向く。
「先生。私は必ずここに戻ってきます。その時……また一緒に旅をしてくれますか」
にかっと笑う。
だが、その笑みはどこか引きつっていた。
強くあろうとする、少し無理をした笑顔。
兼通はそれを見て、目を細めた。
「当たり前ながや」
ゆっくりと視治の肩を叩く。
「わしは逃げも隠れもせん。おまんが戻ってくるがを、ちゃんと待っちゅうき」
少し間を置く。
「大いに松政先生んとこで学んでこんか。悩んで、考えて、わしに食ってかかれるくらいになって帰ってこんか」
「はい!」
視治の声は、今度はまっすぐだった。
二人は笑い合う。
新年、三ヶ日。
町はまだ華やぎに満ち、人々の笑い声があちこちから聞こえる。
この穏やかな朝が、
これが最後の会話になるとは、
その空の下の誰ひとりとして、知らなかった。
それから1ヶ月した頃である。
松政の下に一通の文が届いた。
「先生!今、文が届きましたよー」
そう言って持ってきたのは塾生の楠朔弥であった。
「ありがとうございます。朔弥君。そういえば、昨日隣町の友人から菓子を頂いてたんです。台所の下の棚に置いてありますから、皆さんで食べていてください。私はこの手紙を読み終えたら行きます。」
「やった!ありがとうございます!先生も早くきてくださいね!」
「はい」
朔弥はウキウキしながら駆け足で台所へ向かった。
松政はにこりと優しく笑い、文を開いた。
少しして、朔弥が松政のところへ戻って来た。
「松政先生〜。この菓子なんですが、みんなに分けようとしたんですけど、数が合わな…」
両手に木箱を持ち、松政へと話しかけにきた朔弥は、手紙を読む松政の顔を見て息を呑んだ。
松政の手は震え、瞬き一切していなかった。瞳は文へと向けられているはずなのに、その瞳は一切動かない。
まるで呼吸の仕方を忘れたかのように、小さく刻み刻み息を吸い込み、息を振るわせながら吐いている。
「せ、せんせえ…?」
朔弥が呼びかけても全く反応はない。
「先生…どうしたんですか!どこかお体でも悪いんですか!手紙にはどんな!?誰からですか!」
朔弥が慌てて松政の元へと駆け寄り膝を下ろす。
そうしてやっと気づいたかのように、ゆっくりと朔弥の方を向いた。
「さ、朔弥君…と、遠井さんが…遠井さんが…」
松政は朔弥の肩を強く握り必死に話し出した。
彼の目には涙が滲み、歯を強く食いしばっている。
朔弥は一体何が起きているのか分からなかった。
「と、とおい…?あ!兼通さんですか!彼は何と…」
朔弥が恐る恐る聞く。
松政は息をふーっと吐く。
「遠井兼通さん…。彼の死刑が決まりました…」
手に持っていた木箱が落ちる。
中身の菓子は箱からこぼれ落ち、粉が畳の上に散乱する。
先ほどまで聞こえていた鳥の囀りや風の音が一瞬で聞こえなくなった。
朔弥の頭は真っ白になり、目を見開いて動かなくなった。
「あの…兼通さんですよね…?先生のお友達の…」
「はい…」
2人はそれからしばらく何も語らなかった。
夕方になるまで、2人はその場でただ呆然とするばかりだった。
しばらく経った頃、一人の学生が松政を訪ねにきた。
「先生こんにちは〜!この前の本なんですがー…」
ドンッ
松政が畳の上に拳を叩きつけた。
朔弥と学生はびっくりしたようで動かない。
「あぁ…すみません…。驚かせてしまって。」
松政はゆっくりと立ち上がり少し上を向いた。
「すみません、明日の塾、私は欠席させていただきます。朔弥君、よろしくお願いします。」
「はい。先生…どうするんですか?」
「申し訳ありません。私ごとではあるのですが、遠井さんに会ってきます。」
「わかりました。」
次の日の朝、朔弥が塾の門前で松政を見送った。
「先生、道中はお気をつけて。」
「はい、ありがとうございます。」
「兼通先生によろしくお伝えください。どうか…」
「もちろんです!塾をお願いします!…そして、視治君に…」
「はい…」
松政はにこりと笑い、朔弥に塾の番を任せて兼通の囚われている牢屋へと向かった。
牢屋は隣国のとある町中にあり、あたりは閑散としていた。
獄門の前には棒を持った門番が二人、左右に分かれて警備をしている。
門番の一人が、近づく松政に気づき、じろりと目を向けた。
もう一人も無言で棒を持ち直す。
松政が門の前まで来たとき、二人はゆっくりと棒を交差させた。
「……止まれ」
低い声だった。
「ここは罪人の収監所だ。用のない者は通せぬ」
少し間を置き、
「誰に会いに来た」
「遠井兼通さんに会いに参りました」
松政は静かにそう告げた。
右手で菅笠の縁をくい、と持ち上げる。
影の奥に隠れていた瞳が、ゆっくりと現れた。
冷たいわけではない。
怒っているわけでもない。
だが――
底が見えない。
深く澄んだ水の底に、刃を沈めたような目だった。
門番は、その視線を受けた瞬間、言葉を失う。
ぞくり、と背筋に寒気が走る。
棒を交差させたまま、門番は無意識に半歩下がっていた。
松政は動かない。
「友として参りました」
穏やかな声音。
だがそこに揺らぎはない。
門番の喉が鳴る。
この男を、ここで退けてよいのか。
一瞬の迷いが生まれる。
そしてそれを、松政は見逃さない。
ほんのわずか、視線を細める。
圧が増す。
「……確認を取る」
門番は棒を下ろした。
しばらくして、門番が戻ってくると
「……許可が出た。半刻だけだ」
「わかりました。取り次いでいただきまりがとうございます。」
松政は軽くお辞儀をし、中へと入った。
門番はそんな松政を横目で追いながら、ごくりと唾を飲み込んだ。
牢屋の中は静かで、昨晩の雨だろうか、壁からぽつりぽつりと水が滴っている。
牢の中にはこの国特有の長い耳の者やそうでない者、目が血走って今にも松政に襲いかかりそうな者がいた。
歩き続けると、奥に兼通の入っている部屋があった。
「お久しぶりです。遠井さん…」
兼通は壁に寄りかかり、左脚を折り曲げ右足を伸ばしたまま座り込んでいる。
髪と髭は伸び切っており、何度も暴行を受けたのだろう、素肌が黒ずんでおり、身体中に傷跡があった。
しかし、彼は笑っていた。
兼通は松政の声を聞くと目を見開いて驚き嬉しそうに格子のそばに駆け寄った。
「おぉ!松政先生!久しいのう!わざわざ会いに来てくれたんか!ホントに嬉しいのう…嬉しいのう…」
兼通は涙を流しながら笑った。
松政の手を取り、強く握りしめ
「ありがとう…ありがとう…」
そう呟いた。
松政が口を開く
「こんな時でも、あなたは笑っているのですね…恨んでもいいのですよ。」
兼通は小さく笑った。
「ははっ、恨むか……。それができんのじゃ。
自分がこんな状況になってしもうても、どういても、わしは人の所業いうもんを美しい思うてしまうがよ。」
兼通は、遠くを見るように目を細めた。
「この神秘的な自然も、人が作った建物も、たとえ朽ちて見にくうなってしもうても、それを美しい、尊いもんやと感じてしまうんじゃ。」
松政は、かすかに目を伏せ、胸の奥で何かが軋むのを押し殺した。
「たぶん、わしは死刑になるじゃろう。……けんどな、それでもわしは、彼らを、この国を、心の底から許してしまうがよ。」
松政は、しばらく何も言わなかった。
格子を握る兼通の手に、自分の手を重ねたまま、ただその顔を見つめている。
「……あなたは」
かすれた声だった。
「あなたは、最後まで、そうなのですね」
兼通は肩をすくめる。
「性分やきな」
二人は互いの肩を掴み、目に涙を浮かべながら笑い合った。
「視治を頼む…」
兼通の目は優しく笑っていた
「はい…!」
松政も彼に見せるだろう最後の笑顔を送った。
5日後…兼通の処刑が近くの河原で行われることとなった
松政が塾の門前に着くと、誰かが言い争っている声がした。
「おい!何でそれを早く言ってくれなかったんだよ!松政先生はどこにいるんだよ!」
「落ち着け!俺だって数日前に知ったんだよ!しかも、お前はその時外に行っていただろ!松政先生は真っ先にお前に伝えようとしたよ!」
松政が門をくぐる。
「やめて下さい。視治君、朔弥君。」
松政が声を低くして真面目な顔で話す。
「先生…」
朔弥はぽつりと言った。
松政が菅笠を取り部屋に上がる。
「二人とも部屋に来て下さい。話をしましょう。」




