第十二章 二藍の過去(三)
沙智は燦々と降り注ぐ朝日に照らされ、目を眇めた。生命力に満ちた草木の香りが鼻を刺激する。《異空間》から放り出された沙智は、一人森の中に立っていた。近くには色褪せた丹塗りの壁を持つ住吉造の社殿が佇んでいた。
周りに人の気配はない。《異空間》に咲羅を置き去りにしてきた――その事実に気づいた瞬間、沙智の内側で何かが爆ぜた。理性を押し流そうとする激情を、彼は歯を食いしばって必死に抑え込んだ。
落ち着け、と自分に言い聞かせる。ここに放り出されたということは、近くに《異空間》への入り口が存在するはずだ。一ミリにも満たないその隙間を見つけ出すため、沙智は無数の水球を作って、手当たり次第、虚空へ飛ばした。
息が詰まるような焦燥感が沙智を襲った。やっと再会できた彼女を、今また失うことは、沙智にとっては自らの命を差し出すよりも遥かに恐ろしい地獄だった。
人殺し。
憎しみのこもったその言葉は、もう何度も聞いていて、ついには耳に入れても心が動かなくなった。そんな自分が、彼女のそばにいてもいいのだろうか。
あれから何度も、彼女の面影が残る海岸を訪れた。最初は一月後。波音だけが響く海岸には人影一つなく、彼女を送り届けたはずのコテージも冷たく閉ざされていた。季節が変わっても、コテージのテラスには埃が積もるばかりで、部屋に明かりが灯ることはない。
夏の休暇で来ていたのかと思い、翌年の夏を待って再び訪れたが、コテージに現れたのは他の家族だった。その翌年も、去年と同じ家族が夏の一時をそこで過ごしていた。彼女は、たまたまあの年、滞在していただけなのだ。
もう会えないと思うとひどく落胆したが、日常は変わらず、魔物狩りに明け暮れた。
最初に人を斬ったのは、十二の時だった。
持之が急逝し、里も学園も混乱を極めていた。そこで起こった「土守の裏切り」。Dクラスの俺たちに下されたのは、初めは里に侵入した魔物の討伐という単純な命令だった。しかし戦いの最中、さらに重い指令が降った――土守家当主の粛清だった。
偶然だった。偶然、俺は土守家のすぐそばで魔物と対峙していた。だから、誰よりも早く当主のところへ辿り着き、数多の魔物とともに斬った。得意の炎を纏った刀で裏切り者の首を落とした。魔物の躯より柔らかいそれに容易に刃は通った。斬ったそばから焼いたから血は出ていない。
もしかしたら自分は、吹き出す血を見たくなくて、閉ざされた屋内で炎を使ってしまったのかもしれない。その選択が、取り返しのつかない過ちへと繋がることになるとも知らずに。
消火作業が終わって、瓦礫と化した土守家から運び出された焼死体は二つ。一つは、討伐対象だった当主のもの。もう一つはひどく小さい、炭化した……。
胃の中で何かが渦巻いて、頭痛がして、肩がひどく重たくなった。何かがこみ上げてくるのに吐き出せなくて、足は無意識にあの海岸へと向かっていた。
あの日のように、砂浜に倒れ込んだ。頬に砂がまとわりつく。頭痛が止まない。外傷がないからか、彼女は来てくれない。いや、違う。外傷があっても、彼女はもういない。
波がこちらに寄っては離れていく。このまま波に飲まれてしまおうか。そんな誘惑が頭をよぎる。しかし、その思考が形になる前に、彼女の言葉が鮮明に浮かび上がってきた。あきらめるな、と。ぜったい助けるから、と。
罪を犯した自分を、果たして彼女は救ってくれるだろうか。
そんな無意味な空想に囚われながら意識を失い、次に目を開けると、いつものように太陽が昇っていた。
学園へ戻ってからは淡々と魔物狩りを続けた。裏切り者の粛清も続けた。二人目、いや、三人目の首を落とすころには、もはや頭痛すら感じなくなっていた。良心と呼ばれるものは、あの海にさらわれて消えた。
それから三年の時が流れ、十五の早春、自分と同い年の風人が新たに見つかった話を風牙から聞いた。栗色の髪に藍色の目、そして、咲羅という名を持った少女。会いに行くという風牙に、同行を願い出た。思えば、風牙に何かを頼むことなど、あれが最初で最後かもしれなかった。ただ世間話をしたつもりだったであろう風牙は不思議そうな顔をしていたが、特に理由も問わず同行を許した。
そして三月。風の精霊が多く集まる大桜の下で、彼女と再会した。
あのころから少しだけ背が伸びた彼女は自分のことを覚えていなかった。それでも十分だった。あの日から何度も思い描いた彼女が、今、確かに目の前に存在しているのだから。
人との距離を常に置いてきた俺は、彼女の前で初めて自分の言葉の貧しさを痛感した。伝えたい思いは胸に溢れているのに、それを形にする術を知らない。初めて、口下手な自分を恨んだ。
春になって、彼女は学園へやってきた。
自分の評判が救いようもなく悪いことを自覚していたから、彼女には近づかなかった。ただ、普段と違う俺の様子に気づいた風牙が、おもしろがって彼女の近況を頻繁に伝えてきた。
だから、初任務を間山でしていることも知っていた。間山だから問題ないだろうと思いながらも、いつもより無茶をして、早めに任務を終えて学園へ戻った。途切れ途切れの念話を感知して、洞窟の中に駆け込んで……あの時ばかりは、彼女のそばにいったことが正解だったと思う。
二回目の治療を受けて、恥ずかしながらも泣きそうになった。
それからも俺は影のように彼女を見守る日々を送った。持滝祥子という師匠を得た咲羅は日に日に力強さを増し、藍の目の輝きは増していった。外界の平和な暮らしをそのまま続けていればよかったのにと思わないではない。でも同じくらい、自分の視界の中に彼女がいることに密かな喜びを覚え、そんな自己中心的な感情を抱く自分を責めるという矛盾を抱えていた。
季節が移ろう中、風牙から意外な知らせを受けた――彼女が学園からの脱走を図ったというのだ。なぜ彼女がそこまで追い詰められていたのか。真意を問いたい思いに駆られながらも、いつものように言葉が喉に詰まり、何も聞けないままだった。しかし咲羅は、無愛想な俺に対しても臆することなく、まっすぐな目で話しかけてきた。彼女は心の奥底にある悩みを明かすことはなかったが、俺は少しでも彼女を守りたいという一心から、犬笛を手渡した。
使う時が来なければいい。そう思ったが、思いの外早く、甲高い笛の音色が頭に響いた。彼女を危険から守るという一心で駆けつけた先で、皮肉にも、この世界で最も対面したくなかった人の一人と向き合うことになった。
俺に深い恨みを秘めているはずの早瀬亮。亮の姉は、俺が斬った「三人目」の恋人だった。「土守の裏切り」の思想に影響され、風原の里で暴力の連鎖を生み出した男の命を、俺は容赦なく奪った。男を深く愛していた亮の姉は、恋人を追うように自ら命の灯火を消した。直接手はかけていない。そんな人々の周りからも恨まれ続けることを俺はしている。
咲羅を守ると誓った自分は、皮肉にも己の背負う因果の連鎖の中に彼女を引きずり込んでいるだけなのではないか。結局、自分こそが彼女に救われたいのではないか。自問自答を繰り返す。
しかし咲羅は、早瀬亮の口から俺の過去を聞かされても、その清らかな瞳に曇りを宿すことはなかった。優しさという名の強さを持つ彼女は、俺の罪を知っても、その手を離そうとはしなかった。
その無条件の受容に甘えた。過去の出会いを明かし、心の傷を晒し、彼女の温かな言葉と触れ合いに、再び癒してもらったのだ。
俺の罪の重さを知った咲羅が、もし離れることを望むなら、それを受け入れる覚悟をしていた。だからこそ、彼女の世界に踏み込むことを慎重に避けてきた。しかし、咲羅は予想に反して俺を非難することも、恐れることもなかった。むしろ彼女は、俺の胸の内に潜む闇さえも受け入れ、小さな腕で抱きしめてくれたのだ。その温もりは、長い間忘れていた感情を呼び覚ますには十分すぎるものだった。
長い時を経て、ようやく手の届く場所に温もりが戻ってきたのだ。もう二度と、一人で波の音を聞くあの日々には戻りたくない。
心に、揺るぎない決意が宿った。絶対に彼女を取り戻す。たとえどんな犠牲を払おうと、どんな手段を使おうと。やっと見つけた光を、誰にも消させはしない。




