第十二章 二藍の過去(二)
何時間くらい経ったのだろうか。ずいぶん前に松明の火は消え、牢屋内は再び暗闇に包まれていた。
この間に少し体力を回復することができた咲羅だったが、また才が使えなくなっていた。《治療》ができたのは奇跡だと言っていいかもしれない。才も武器もない状態では、頑丈な格子を壊すことは不可能だった。
咲羅は壁を背もたれとして、立てた膝を両腕で抱えていた。その横で沙智は胡座を組み、瞑想している。最大限、体力と風力を戻そうとしているらしい。
ここから無事に出られるだろうか。不安になるたび、咲羅は隣にいる沙智を一瞥した。もし一人だったら……。咲羅はありえた未来に身を震わした。
そうしているうちに、ふと視界が明るくなった。
茶色の気が牢屋内に広がったかと思うと、目の前で予想外のことが起こった。
牢屋の外の無機質な壁や床が、瞬く間に大正ロマン風の洋館の廊下に変わったのだ。臙脂色のカーペット。白い漆喰の壁に張られた焦茶色の腰壁。チューリップ型のランプがいくつも天井からぶら下がり、咲羅の顔はオレンジ色のやさしい光で照らされた。
続いて格子が壁とドアに変わり、牢の中も広い応接間へと変貌した。固い床に座っていたはずが、咲羅はいつの間にか柔らかいソファの上に座っていた。
「なに、これ?」
咲羅はぽかんと口を開いた。
「《異空間》は使用者の意思によって自由に空間を変えられる」
中腰の姿勢で構えた沙智が言った。
咲羅はホダじいの補講を思い返した。《異空間》は個人能力が土の人だけが使える特殊能力だ。でも、直隆の個人能力は水、亮は雷だったはず。別の誰かがいるのか。それが、直隆が口にしたジンという人物なのか。
廊下側から男たちの話し声が聞こえてきた。扉から入ってきたのは直隆と亮だった。
しかし、亮に違和感があった。色が違う。顔も背格好も亮なのに、目と髪がネズミのような灰色だった。服装も、古代中国人が着ていたような黒橡色の長袍に変わっていた。
咲羅はぞくりと身を震わせた。亮に別の人間が入り込んでいる。
「塵様。こちらの娘です」
直隆は亮の体に向かって「ジン」と呼びかけた。
「おお、この娘か!」
塵は顔を綻ばせたが、すぐに真顔になる。
「……直隆よ。おまえ、四年経ったと言わなかったか?」
「はい」
「随分と小さいままではないか」
「小さくとも可能と思ったから四年前襲われたのでは?」
「まあな」
塵は舌舐めずりをする。
咲羅は鳥肌が立った。吐き気を催すほどの不快感が襲ってくる。
「前にいる男は?」
「最初はあの男に塵様を宿すつもりだったのですが、思わぬ深手を負いましたので」
「元気そうだが?」
「娘の愛の力が勝ったようです」
塵は感嘆の声を上げる。
「もしや我の支配する空間で才を使ったと? ふっ、はは、あっはははは! それでこそ我が番よ!」
「なんだと?」
沙智が低い声を出した。
「ふっ、直隆め。体だけでも好きあった者と、とでも思ったか。その能面に似合わぬ甘美な空想家だな」
「抵抗が少ない方が塵様のご負担が少ないかと思いまして」
「要らぬ気遣いよ」
塵は指を鳴らした。
また空間が変わる。
応接間は寝室に、咲羅がいたソファは天蓋付きのベッドになっていた。
沙智と直隆の姿が消えている。部屋には亮の姿をした塵だけが残り、怪しく笑っていた。ようやく手に入った珍味をどう調理しようか悩む、欲に満ちた顔だった。
咲羅は頭の血が下がっていくのを感じた。これから何をされるか、なんとなくわかってしまった。
下手に動いてはいけない。距離を詰められれば終わりだ。
ベッドに座ったまま、咲羅は固く拳を握った。手のひらに爪が食い込むが、さらに力を込めた。痛みで震えを止めたかった。
「なんで、わたしを狙うんですか」
塵は愉快そうに笑みを深めた。獲物が話しかけてきたことがおもしろいらしい。壁に背を預けた塵はゆったりと腕を組んだ。咲羅は塵の舐めきった態度が気に食わなかった。
「そなたが、この世でもっとも神の血が濃いからだ」
「神?」
「そうだ。そなたの父は風の神、風神だ」
咲羅は耳を疑った。
「それだけじゃない。そなたの母方の祖父も風神なのだ。つまりそなたには、四分の三も神の血が流れている。これは憎らしいことだが、二分の一の我よりも濃い。血統だけは超一流の娘よ。我とそなたが番えば、もっとも高貴な子が生まれる。何人でも産むがいい。小隊を作れるくらいな。さすれば、下等な外人どもに隠れて生きる必要はなくなる。風人の世界がやってくる。我々でこの世を治めるのだ!」
塵は自分の演説に酔いしれていた。
反対に、咲羅は冷静になった。風原でも外人を侮蔑する人がいたが、目の前の男はその最たるものだと思った。外人の両親に育てられた咲羅にとって、塵の語る理想は許しがたいものだった。
咲羅はベッドから飛び降りると、半身の構えで塵と向き合った。
塵は真顔になった。
「我は従順なやつが好きでな。害にならぬ羽虫であろうと、歯向かうやつは許せぬのよ」
塵が消えた。次の瞬間、咲羅は背中に強い衝撃を受けた。
息が詰まった。反射的に閉じた目を開けると、臙脂色のカーペットが眼前に迫っていた。背中に回された両腕が骨張った塵の膝によって押さえつけられている。蹴飛ばされた背中と、床に打ち付けた右肩が痺れるような痛みを持っていた。
上から何かが猛烈な勢いで落ちてくる。音もなくカーペットに刺さった刀身に、藍の双眸が映った。
咲羅は自分と目が合った。想像以上に恐怖に苛まれていた。これは良くない。目の前の自分は明らかに弱っている。藍の双眸は潤み、決壊寸前である。必死に強い自分を演じようとしているのに、視神経が伝えてくる情報と噛み合わず、うまくいかなかった。
塵は咲羅のズボンに手をかけた。
咲羅は細く息を呑む。バタ足をするように両足を大きく動かすが、塵から逃れられない。
「早く子種を宿せ」
耳元で囁かれ、ついに咲羅の涙腺は崩壊した。
「いやっ! たすけて、沙智!」




