第十二章 二藍の過去(一)
咲羅はあかあかと燃え盛る松明を見つめた。亮が置いていったものだ。わざと置いていったのか、忘れていったのか知らないが、咲羅は助かったと思った。沙智の傷の状態をみることができるから。
咲羅はズボンの裾を捲り、裏地に縫い付けていた布を引きちぎった。ズボンと布の間には、薬を隠していた。春風やウエストポーチは取られてしまったが、薬の存在はばれなかったらしい。
「これ、造血剤だから二錠飲んで」
PTP包装シートに入った真っ赤な錠剤を沙智に差し出した。
沙智が薬を飲んでいる間、咲羅は残った力を《治療》に当てる。
「もう、よせ」
しかし、沙智に止められた。
「でも……」
「あとは血が戻るのを待つだけだ」
咲羅は沙智の腹部を確認した。血にまみれて分かりにくいが、大きな傷は塞がっているようだった。
もう、大丈夫なのか。そう思った途端、力が抜けた。前に傾く咲羅の体を沙智が支える。
「ごめん」
沙智は血溜まりがない場所に咲羅を寝かせ、自分もその横に寝転がった。
「巻き込んで、ごめん」
咲羅は天井を見つめたまま言った。
「巻き込んだのは俺の方だ」
「でも、わたしが笛を吹いたから」
「正しい選択だ」
沈黙が続く。
「……委員長のお姉さんって」
「姉の恋人が風原を裏切った。だから俺はそいつを斬った。姉は恋人の後を追った」
「そうだったの」
咲羅は安堵した。やはり、沙智は無差別に人を殺めているわけではないと分かったから。命を奪わずにいられるならそれに越したことはない。でも、裏切り者を斬る。これが沙智なりの風原の守り方なのだ。
「沙智に助けてもらってばかりだね」
「それも逆だ」
「そんなことないよ。初任務の時も、今日も。そりゃあ《治療》はしたけどさ」
「あんたに命を救われるのは二度目だ」
「間山の時はそこまでじゃなかったでしょ」
「違う。もっと前」
「え?」
「昔、あんたに助けられたことがある」
沙智の目が遠くを見るように細められた。普段の鋭さを失い、どこか懐かしむような柔らかな表情に変わっている。咲羅はその様子に息を呑んだ。沙智がこんな表情を見せるのは初めてだった。
◆
七年前の八月十三日。この日、沙智は死にかけた。
港町に出現した魔物十体の討伐任務を受けた。最大三十体を一人で倒したことがある沙智にとっては造作もない、簡単な任務のはずだった。
愛刀を手に現場へ赴いた沙智。そんな彼を待ち受けていたのは、約五十体の魔物だった。調査不足だったのか、調査後に増えたのかは分からない。分かっているのは、目の前の敵を倒さなければいけないということだけだった。
鳩の《式神》を創り出し、現状を書き殴った紙を足に括りつける。そして、北東へ向けて飛び立たせた。《念話》は距離があると使えないため、これが最速の連絡手段であった。
帰ったら直接文句を言ってやる。そんな考えが頭に過ぎるものだから、沙智は口角を上げた。こんな状況だというのに生き延びる気満々でいる自分に気づいたからだ。
それなりの怪我は負うだろう。しかし、目の前に敵がいる以上、斬る。何体であろうと、この手で。
抜刀した沙智は風を体に纏い、魔物の群れに突撃した。
◯
学園から派遣された応援部隊が目にしたのは、砂浜に空いた複数の大穴と、切り裂かれ焼け焦げた五十二体の魔物の死骸、そして、立ち尽くす、泣き叫ぶ、好奇心に目の眩んでいる外人たちの姿だった。
これは後始末が大変だ、と応援部隊を率いていた男は思った。
魔物討伐後は、《幻覚》を使用し外人の記憶を塗り替えたり、情報端末から該当する写真や動画を削除したり、土の才を使用して地形を元に戻したり、魔物の死骸を解析班へ引き渡したりする必要がある。これらの作業を専門職としている後処理班が討伐任務後は常に動くが、今回は相当な人数を呼ばなければならない。
部隊長の男は、部下に後処理班への連絡を指示した後、魔物を討伐した少年の姿を探した。たった八歳の子どもがこれだけの魔物を相手にしたのだから手負いでないはずがない。現に砂浜にはところどころ血痕が落とされていた。
しかし、どこを探しても魔物狩りの少年は見当たらなかった。自力で帰る力が残っていたのか、それとも別の魔物を追って移動したのか。いずれにしろ行方を報告する義務があるため、これまた部下に、見つけ次第報告をするよう指示を出す。
さすがは、魔物狩りの名門・霧立家の嫡男に育てられた男、といったところか。
自分の息子と同世代の子どもが、こうも無残な屍の山を生み出しているという事実に男は身震いをした。
◯
ついに力尽きて降り立った――正確には、落ちた――場所は、海食崖に囲まれた小さな砂浜だった。
まだ昼間の熱を残した砂の上に沙智は横たわる。右頬に砂がまとわりついたが、腕を持ち上げて払う力さえ無かった。真紅の目には愛刀と、引いては寄せ打つ波、ゆらゆらと揺れる月が映っていた。
波の音を聞きながら、沙智はひどく眠気に襲われた。血を失いすぎている。ここで眠ってしまっては、次、夜空を見上げることはないだろうとは思うのだけれど、もはやなす術はなかった。
最後の一体を追って倒したはいいが、応援を呼んだ位置からかなり離れてしまった。手負いの、刀を持った状態で外人がいる場所に倒れるわけにもいかず、こうしてひと気のないところまで飛んできたが、失敗だっただろうか。
いや、どうせ生き延びたところで自分の最後は同じことかもしれない。そう思い、沙智はその目を閉じかけた。
すると――。
「大丈夫⁉︎ しっかりして!」
頭上から少女の高い声が聞こえた。聞き覚えのない声だった。外人がいないところを選んだはずだったのに、それさえ失敗していたのか。
ゆっくりと目蓋を開けると、栗色の髪と藍色の目を持った少女の姿が映った。
少女は自分と同い年くらいに見えた。彼女の他に近づいてくる気配はない。なぜこんなところに一人でいるのだろう。異色を持っているが、風人なのか、ただ外国の血を継いでいる外人なのか。
激しくうろたえている少女に沙智は尋ねた。
「あんたは、風人か?」
いつもより声量は出なかったが、膝をつき沙智の顔を覗き込んでいた少女の耳には届いたはずである。しかし少女は、きょとんとした顔で沙智をじっと見つめているだけだった。
違ったか。
沙智の最後の望みは絶たれた。風人の子どもであれば、近くに風人の親がいるはずだ。風人の大人がいれば助けを求めることができただろうが、外人にこの状態の自分を見せるわけにはいかない。この少女の口止めもしなければいけないが……。
「お、お父さ――」
沙智は父親を呼びにいこうとする少女の手に触れた。握るまでいかなかったが、少女は止まった。
「呼ぶな」
「でも!」
少女は困惑した様子だった。しかし、沙智の手を無理に振り払おうとはしなかった。
「お父さん、お医者さんなの。だから――」
「だめ、だ」
「でも、このままじゃ……」
少女の視線を追って眼球を下に動かすと、月明かりに照らされた砂に自分の体から流れた鮮血が染み込んでいるのが見えた。
さてどうしようか。このまま力尽きたとして、どうやって回収をしてもらえばいいだろう。どうやって少女の口止めをし、どうやって痕跡を消せばいいのか。
沙智は冷静だった。戦いを始めた時からずっと覚悟はしていた。悲しむ家族はいない。義兄はいるが、彼は自分以上に無茶な戦場へ身を投じて明日をも知れぬ身である。
後始末について沙智が思案していると、頭上から訳のわからぬ言葉が降ってきた。
「……人間にするのは、初めてなの。でも、ぜったい助ける」
藍の双眸が強く光った。
少女は沙智に体重をかけないように覆い被さり、そして緑色の気を発した。
沙智は短く息を吸った。全身が温かい気に包まれる。痛みがやわらぐ。流れていた血が止まるのを感じる。体温が戻ってくる。
すさまじい力である。ここら一帯すべての風の精霊が力を貸しているような、濃密な気である。同じ年頃の人間に圧倒されたのは、これが初めてだった。
時間にすると約十分。沙智の傷は修復され、起き上がれるだけの気力も戻った。起き上がり頬や右腕についた砂を払うと、腹に手を当てる。完全に塞がっていた。
「感謝する」
沙智がお礼を告げると、少女の体がこちらに傾いてきた。それを砂に落ちる前に受け止めると、上半身に熱が広がる。ぐにゃりと力なく沙智にもたれかかる少女の体は熱を帯びていた。才の使いすぎによる発熱だ。
「大丈夫か」
「うん……」
《治療》は他の才に比べて特に精神力を削られるものらしい。少女の小さな体では、沙智の傷を治すには限界を超えなければ不可能だったのだろう。
早いところ親元に返して休ませるのがいいと思い、沙智は立ち上がろうと愛刀に手を伸ばす。すると、少女の熱い手に両頬を挟まれた。
「さっき、あきらめるつもりだったでしょ」
熱のせいか、藍の目が潤んでいた。
「そまつにしちゃだめなんだよ、命は。自分であきらめたら、ぜったいにだめなの」
少女があまりにもまっすぐ見つめるから、込み上げてくるものがあった。
「……でも、今日か、明日か、一年後か、十年後か。いつになっても、終わり方はきっと変わらない。戦って、血にまみれて、倒れて……それなら、いつでもいいかと思ってしまう」
手が両頬から離れ、代わりに強く抱きしめられた。先ほどの力のない状態とは違う、少女の意志によるものだった。
「またたおれちゃったら、今日みたいにさくらが助ける。だから、終わりにはしないで。あきらめないで。ぜったい助けるから」
そう言って少女は意識を手放した。
重たくなった少女の体を支えながら、良かったと沙智は思った。自分の目尻から溢れ出すものを見られずに済んだから。
◆
「遅くなって、ごめん」
すべてを聞いた咲羅は、沙智の大きな体を抱きしめた。頭の中で記憶の欠片が次々と繋がっていく感覚に、咲羅は震えた。
「思い出したよ。……あれは夢だと思ってたの。気づいたら泊まってたコテージのテラスにいて、お父さんもお母さんも何も知らないって言うし、砂浜にもわたしの服にも血の跡は残ってなくて」
なんで忘れていたのか不思議だった。特別な出会いのはずなのに。あまりにも非現実的な体験だったから、夢だと思い込んでしまったのだろうか。それとも、誰かに封じられてしまったのだろうか。それでも今、咲羅はあの日のことをまるで昨日のように鮮明に思い出していた。
「諦めないでいてくれて、ありがとう」
今ほど自分の体が小さいことを悔やんだことはない。昔みたいにしっかりと沙智のことを包み込めたらいいのに。大きくなってしまった彼にしがみつくような形しか取れないことが咲羅は歯痒かった。
肩を掴まれ押される。離せという合図に胸が締め付けられるような切なさを覚えたが、上体を起こした沙智に体を強く引かれた。沙智の腕が背中に回され、その胸にすっぽりとおさまる。あたたかい。
心地よい拘束感に胸を高鳴らせる咲羅の耳元で、沙智が呟いた。
「遅い」




