第十一章 敵の正体(三)
ホダじいこと保高稔は高等部のグラウンドに集まりつつある生徒たちを見渡し、額の汗を拭った。先刻、風子学園に魔物が侵入した。一部の《結界》が突然消失したのだ。空芽をはじめGクラスのメンバーが修復に当たっているが、すでに入り込んだ魔物は十どころではなかった。
保高はGクラスの担当教員である直隆の姿が見えないことを気がかりに思った。嫌な予感がする。
「ホダじい……」
目の前で蘭が金色の大きな目を震わせていた。普段、気が強い彼女も、たった十六の少女でしかない。
「大丈夫ですよ」
保高は努めて柔和な声を出した。もちろん生徒たちを落ち着かせるためだ。とはいえ、保高の背中にも冷や汗が伝っていた。三十年以上教師をやっても、こういう時の緊張感は慣れない。
生徒たちの中には訓練の成果を発揮して魔物と戦おうとする者もいるが、高等部一年生にはまだ早い。保高はクラス名簿に視線を落とし、出席番号順に生徒の名を読み上げていく。
途中、薄暗くなってきた空に稲妻が走り、閃光が保高の老いた顔を照らし出した。
生徒たちから悲鳴が上がった。教師陣や大学部生を中心に、魔物との戦闘が続いている。魔物は全部で何体いるのか。今どのくらい制圧できたのか。この場からでは何もわからなかった。
武闘派の風牙が全体指揮を取っているのだから問題ない。そう思う一方で、言い知れぬ不安を保高は感じていた。
名前の読み上げに戻る。
「尾崎俊介さん」
「はい」
「柿田春香さん」
「はい」
「春日夕希さん」
返事がない。保高は顔を上げ、生徒たちの顔を見回した。夕希の姿がない。それどころか、彼女といつもセットで行動している舞弥や咲羅の姿もなかった。
「あの」生徒の一人が手を挙げる。「委員長もまだ来てません」
保高の脳裏に舞弥との会話が蘇った。今いない四人は、今日はともに任務をすると言っていなかったか。
保高は大慌てで残りの生徒の点呼を取った。四人以外は揃っていた。それには安心したが、問題は四人の安否だ。魔物と遭遇していれば命の危険だってある。隣のクラスの教師に生徒たちを預けると、保高は高等部のグラウンドを後にした。
早歩きをしながら祥子に《念話》を送る。精霊たちも混乱しているのかしばらく繋がらなかったが、何度目かの呼びかけでようやく祥子から返事が来た。
現在地を聞くと、風原総合病院内で治療に当たっているという。保高はすぐに病院へ向かった。
病院の待合は負傷者でごった返していたが、よく見るとすでに治療を受けて済んでいるようだった。《念話》で到着を告げると、祥子が奥からやってきた。白衣の袖には血が付いていた。
「どうしたの、ホダじい」
「すみません。忙しい時に」
「ううん。ひと段落してきたところよ。魔物もだいぶ制圧されたんじゃないかしら」
それが事実ならば吉報だ。保高の予想よりも、侵入した魔物は少なかったのかもしれない。しかし――。
保高は眉をひそめながら言った。
「咲羅さん他四人の姿が見えません」
「何ですって?」
祥子の顔から血の気が引いた。
「咲羅さん、舞弥さん、夕希さん、それから亮くんです。合同で任務を行うと言っていましたから、成季くんも一緒だと思います」
「そんな話、私聞いてない……」
「咲羅さんに追尾香を持たせてはいませんでしたか」
一瞬表情に翳りを見せた祥子だったが、保高の問いかけで目に光を取り戻した。
「持たせているわ!」
祥子は腰に下げたポーチから桜色の液体が入ったガラス瓶を取り出し、中身を一気にあおった。追尾香を体内に取り入れた者だけがその香りを辿ることができる。
「こっちよ!」
保高は、走り出す祥子の後を追った。
追尾香が指し示す場所は学園の地下だった。暗い通路に魔物が潜んでいないとも限らない。保高と祥子は慎重に足を進めた。
「あたし、信頼されてなかったのかな」
前を歩く祥子が声をひそめて言った。咲羅のことだろう。
「単に報告漏れでしょう。咲羅さんはまだ人に頼ることに慣れていないように見受けられます」
「そうね」
「導いてあげてください。大丈夫。彼女はあなたを信頼していますよ」
「そうだといいけど」
祥子は自嘲的に笑った。
「時に祥子さん。追尾香は確かにこちらから香っていますか?」
「ええ。なんで?」
「いえ。方角的に学園の中心部へ向かっていると思うのですが、中心部には何もなかったはずです」
「地下牢があるじゃない」
「それはそうですが、案内なしに生徒がたどり着ける場所では――」
「ホダじい」
先に角を曲がった祥子が硬い声を出すので、保高は口を閉じた。祥子の隣に行き、瞠目する。飾りっ気のない壁に突然、荘厳な扉が出現していた。
「この中からよ」
保高は祥子とともに扉を押した。何か仕掛けが施されているかと警戒したが、扉は驚くほど滑らかに開いた。
中は書庫のようだった。一部の本棚は破壊され、床に本が散らばっている。壁の一部も崩れており、この場で戦闘があったことは明白だった。
「成季!」
祥子が倒れている人影に駆け寄った。
保高は乱れた心を必死に抑えながら、小部屋を見て回った。何番目かの部屋は室内がひどく荒れていた。その中に、舞弥と夕希の姿を発見した。二人を成季の《治療》をしている祥子の元へ運ぶ。
咲羅と亮はどこにいる?
保高は他の小部屋も見て回った。しかし、二人の姿が見当たらない。最後、一番奥の部屋に入った。そこにも二人の姿はなかった。ただ代わりに、作業机の上に広げられた古文書の中に「咲羅」の文字を見つけた。「翡靖」「風神」。古い紙に乗った新しいインク。前学園長である持之の字に見受けられた。
保高は古文書をひったくるようにして手に取り、祥子の元へ戻った。
ちょうど、成季の意識が戻ったようだった。
「成季、大丈夫?」
「祥子、さん……」
成季は起き上がろうとしたが、痛みに顔をゆがめた。
「ちょっと、まだ動かないで!」
「時間が……亮を、止めなきゃ」
「何がありましたか?」
保高の問いかけに、成季は苦しげに顔を歪めながら話しはじめた。
「亮と直隆先生が、裏切って……咲羅と霧立沙智を連れて行った……」
保高は一瞬固く目を瞑った。悪い予感が的中してしまった。直隆が裏切っていたとすれば、学園内に魔物を呼び込むことは容易だっただろう。
成季は独り言のように続けた。
「霧立沙智への恨みが、亮にはあって……俺も、風原に恨みはあるのに、亮みたいにはなれなかった……成子がかわいそうで、でも俺は……」
保高は成季の手を握った。
「成季くん、君は何も間違っていません。強くてやさしい選択をよくしましたね」
成季の目尻から涙が伝う。
「でも……止めることもできなくて、亮が心配で、ついてきたけど、咲羅を見殺しに……」
「ばか!」祥子が緑の気を発したまま、成季の頬をつねった。「縁起でもないこと言わないの」
「そうですよ。きっとまだ間に合います。咲羅さんたちが連れて行かれた場所について心当たりはありますか?」
「あります」
成季はゆっくりと上体を起こした。血が足りないのか青い顔をしているが、花色の目だけは燦然と輝いていた。
成季の意思を確認した保高は、即座に《念話》を送った。状況は予想以上に深刻だ。風牙を呼び出す必要があった。
数分後、風牙が到着すると、保高は簡潔にこれまでのことを説明した。
「成季くんが案内できると言っています」
風牙は頷き、成季に尋ねた。
「行先は?」
「五田村です……神社の奥社。そこに持之さんを死に追いやった者が封印されています」
風牙の翡翠色の目が凍りついたように冷たくなった。
「……そうか」
静寂が短く続いた後、後ろから声が聞こえた。
「僕も行きます」
振り返ると、空芽が立っていた。
「空芽。お前、学園の結界は――」
風牙の言葉を遮るように、空芽は「終わらせました」と報告した。
「僕も連れて行ってください」
復讐心に燃える空芽を説得している時間がもったいないと判断したのか、風牙は少し考えてから頷いた。
「よし。空芽、成季、私の三人で向かう。祥子さんとホダじいは学園を」
「任せてちょうだい」
「お気をつけて」
保高は書庫から出ていく三人の背を見送った。




