第十章 隠された部屋(三)
咲羅は本棚の間を進みながら、ひっそりと広がる書庫の全貌を探っていた。タイルの床に足音が響く。天井に届かんばかりの本棚には、埃をかぶった古文書や革表紙の本が所狭しと並んでいた。
書庫は想像以上に広く、入り口と通じる広間を中心に複数の小部屋に分かれているようだった。夕希はすでに小部屋の一つに入り、舞弥も後に続いていた。後ろを振り返ると、入り口あたりで亮と成季が何かを話している。突然見つけた秘密の空間をどう報告するか相談しているのかもしれない。
本棚の背表紙を目で追いながら、咲羅は奥の小部屋へと足を踏み入れた。
部屋には一際古びた書物が並ぶ棚があり、中央には木製の作業机が置かれている。机の上には、積み上げられた古書と乱雑に広げられた紙束が残されていた。それらを覗き込み、目を見開いた。
くずし字で書かれた古文書は大部分が判読困難だったが、誰かが書き足したいくつかの単語だけは正確に読み取れた。「風神」「翡靖」、その横には「咲羅」の名が記されていた。
咲羅はか細い声を上げた。怖い。なぜ自分の名前がここにあるのだろう。この風原で、三月より前から私の名前を知っていたのは、きっと一人だけ……。
咲羅は呼吸を整えながら、さらに紙をめくった。風神と人間の関係について書かれているようだが、難解な表現が多く、理解することは難しい。風人の書き間違いではないかと最初疑ったが、何回も「風神」という単語は出現していた。
どういうこと?
背筋に悪寒が走り、咲羅は自分の体を抱きしめた。背後で軽い足音がする。咲羅が勢いよく振り返ると、成季が部屋に入ってきていた。一瞬、緊張が走る。
成季はゆっくりと近づいて尋ねた。
「何か見つけたの?」
「いえ……」
なんと説明すればいいのか。最適な言葉が見つからなかった。
成季は咲羅の隣で紙束を覗き込んだ。
「これは……」
成季が何かを言いかけたとき、入り口の方から大きな音がした。本棚が倒れたような音だ。
「何?」
咲羅は小部屋を出ようとする。しかし、成季に腕を掴まれた。
「待って」
「離してください!」
咲羅は腕を振り解き、音のした方へ向かった。
広間の本棚は先ほどとなんら変わりなく整然と並んでいる。とすると、音がしたのはどこかの小部屋だ。
「夕希! 舞弥! 委員長!」
声をかけてみるが、返答はない。咲羅は小部屋を一つ一つ見て回った。右の部屋、左の部屋、さらに入り口側の右の部屋。どこにも三人の姿はない。次は、夕希と舞弥が入っていった部屋だった。
嫌な予感がして、咲羅は飛び込むように部屋に入った。この部屋にもいくつもの本棚があったが、そのうち二つが倒れていた。先ほどの物音はここからしたに違いない。
咲羅は倒れた本棚の隙間から、白い足が伸びているのを見つけた。
「夕希! 舞弥!」
火の才|《増力》を使って、本棚を退かす。散乱した本を掻き分けると、二人の顔が見えた。意識は失っているが、呼吸は正常にしていた。
「委員長は?」
部屋を見渡すが、亮の姿はなかった。
背後で足音がする。成季だった。
咲羅は身構えた。
「あなたがこれを?」
成季は答えない。代わりに咲羅に向かって手を伸ばしてくる。
「こないで!」
咲羅は春風の柄を握って牽制した。これ以上近づいたら斬るという脅しだった。もっとも、人を斬る覚悟はできていなかったし、その覚悟のなさは震える手にも現れていた。
成季は困ったように眉尻を下げた。
なんでそんな顔をするのだろう。彼がしたわけではないのか。まずは話を聞くべきではないか。咲羅がそう思った次の瞬間、体が何者かに持ち上げられていることに気づいた。
小部屋の入り口から亮の声が響いた。
「なにすんの?」
亮はこちらを指差し、体には黄色の気を纏わせている。彼の視線は、咲羅を脇に抱えた成季に向けられていた。
成季は咲羅を下ろすと、前に立ち塞がった。まるで咲羅を守るように。
咲羅は混乱して呟いた。
「どういうこと……?」
亮の指先から稲妻が走る。成季が土の壁で防ぐ。床から盛り上がった土はタイルを粉砕した。破片が咲羅の頬を掠める。痛みや熱さが咲羅に覚醒を促すのに、目の前で起こっていることがどうしても理解できなかった。
なぜ、亮と成季が戦っているのか。なぜ、亮が攻撃を仕掛け、成季が守っているのか。
呆然と立ち尽くす咲羅だったが、ふと首にかけられた犬笛の存在を思い出す。咄嗟にそれを口に当て、吹いた。しかし音は鳴らない。何度も試すが、効果がない。
そうしている間に、成季が吹き飛ばされ、書棚に叩きつけられた。
「成季さん!」
「邪魔するからだよ」
亮は平然としている。仲間が傷ついても何も思わないのか。入学以来、親切にしてくれた亮の顔が歪んでいく。
咲羅は決意を固め、春風を抜刀した。
「いったい、どういうこと?」
咲羅が強く睨んでも、亮は薄く笑うだけだった。
「抵抗しないでよ」
亮は鞘付きの刀を腰から抜き、構えた。咲羅ごときに抜刀するまでもないということだろうか。
それなら――。
咲羅は地を強く蹴った。先手必勝。どうせ相手は《結界》で身を守っている。臆さず進めという師匠の声を思い出した咲羅は、上段の構えから思いっきり振りおろした。
が、春風が鞘に当たった瞬間、亮は鞘の角度を変え軌道をずらした。
体勢を崩した咲羅の腹に、亮の膝が入り込む。咲羅は小部屋の入り口から広間の反対側の壁まで吹き飛ばされた。咄嗟に風を纏って衝撃を和らげたが、激しく咳き込む。
「あーあ、無傷で連れて行きたいんだから、暴れないでよ」
「なんで、委員長が」
喋りながら、咲羅は血の味が口内に広がるのを感じていた。血液混じりの唾を吐き出す。頬の内側が切れている。血はどんどんと溢れているようで気持ち悪かった。
亮は何も答えず、追撃をしてきた。
咲羅は腰のポーチから、祥子にもらった麻痺香を取り出す。素早く蓋を開け、迫ってくる亮に向かって投げた。ガラスの小瓶が亮の体に触れる……はずだったのに、その一歩手前で止まる。
「ちゃんと使い方も教えてもらわなきゃ」
亮はにやりと口元を歪め、風とともに咲羅に投げ返してきた。小瓶が割れ、香りが広がる。咲羅は身体が急速に重たくなっていくのを感じた。手にも力が入らなくなり、春風を床に落とす。転がった春風を亮が蹴り飛ばした。
亮は能面のような顔で咲羅を見下ろしていた。
「なん、で」
「なんでって、そりゃあ――」
亮は広間の入り口に目を向けた。
「奴に聞いてみなよ」
入り口には、息を切らした沙智が立っていた。犬笛が届いたのだ。咲羅は胸が熱くなった。
「意外と早かったね。瞬炎のシャチ」
亮の菜種油色の目が憎悪で燃え上がった。
一瞬咲羅と目を合わせた沙智は、弾かれるように動いた。いつの間にか抜刀している。無駄のない動きが美しい。それをどこか羨ましく思っていると、咲羅の首元に冷たい何かが押し当てられた。
沙智の動きが急停止する。
亮が咲羅の首に刀の刃を当てていた。亮が腕を引けば、咲羅の首は簡単に切れる。咲羅は初めて感じる死の恐怖に、吐き気がした。亮は先ほど、無傷で連れて行きたいと言っていた。これが沙智を静止させるためのハッタリだと理解していても、体はいうことが聞かず、目で見てわかるくらい震えた。
沙智は見たこともないほど怒りに満ちた顔で亮を睨みながらも、間合いを詰められずにいる。そんな沙智を、亮は嘲笑った。
「人を守ることに慣れていない。傷つけることしかできない。それがお前の弱さだよ」
亮が左手で飛苦無を一個投げた。沙智は難なく弾き落とすが、
「よけるな!」
亮の刀が咲羅の薄皮を斬る。血が首を伝っていく感覚がした。
「や、めて」
咲羅の悲痛な訴えも虚しく、亮は立て続けに飛苦無を投げ、そのうち二つが沙智の左肩と太ももに突き刺さった。亮はひとり悦に入っていた。
「あは、ははははは! 弱い、弱すぎるよ!」
欣然として再び飛苦無を投げようとする亮を、誰かの声が制止した。
「そこまで」
男の声だと思った瞬間、後ろから手が伸びてきて口元を布で塞がれた。睡眠香の甘い香りが咲羅の鼻腔を満たす。ずきんと頭に痛みが走った。すでに麻痺香で緩んでいた神経に睡眠香が重なり、体の内側から引き裂かれるような感覚が広がった。二つの香薬の相性が悪いのかもしれない。
意識が遠のいていく。闇に落ちる直前、「そいつも連れて行く」という男の声が聞こえた。




