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ウィンド・マスターズ 異色の風使いたち  作者: 駿河晴星
第七章 特訓

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第七章 特訓(二)

 第六訓練場を後にした咲羅と祥子は、学園の北東エリアにある風原総合病院に戻ってきた。病院の地下には祥子専用の研究室があり、現在はMクラスの教室としても利用している。


 Mクラスとは医学メディカルクラスのことで、風の個人能力を持つ風人が現れた時だけ復活する幻の特別能力クラスである。祥子はMクラスの講師となるため、外界にある研究所を退職して学園へ戻ってきてくれたらしい。


 シャワー室で汗を流した後、制服の上に白衣を纏った咲羅は、研究室に入った。嗅ぎ慣れた消毒液の匂いを感じながら、室内を見渡す。


 研究室の広さは二十帖ほど。蛍光灯の白い光が部屋全体を照らしている。中央には黒い天板がついた耐薬品性の大きな実験台。その中央には、高さ百八十センチメートルほどの棚が設けられており、ピペットやさまざまな大きさのビーカー、フラスコ、カラフルな液体の入った小瓶などが整然と並んでいた。


 壁際には小ぶりな実験台や冷蔵庫、流し台、試薬棚、分析機器、遠心分離機などが所狭しと設置され、部屋を圧迫している。それでいて、不思議と秩序立った雰囲気が漂っていた。


 祥子は、左奥の小ぶりな実験台の前に立っていた。白衣姿の背中が、何かに集中している。咲羅に気がついていない様子だった。


 声を掛ければいいのだろうが、なぜかためらわれた。驚かさぬよう、咲羅は中央の実験台の右側を、忍び足で通り抜ける。祥子に近づくにつれ、彼女が両手で何かを持っていることが分かった。


 祥子が咲羅の方を向く。しかし、咲羅はまだ声を掛けることができなかった。なぜなら、強くて明るい師匠の、憂いに満ちた表情を目にしてしまったから。


「早かったね」


 いつもより沈んだ声で祥子が言った。手に持っていた物を実験台の上に置く。


「写真、ですか」


 咲羅がようやく発した言葉は物に関することだった。他のセリフも頭をよぎったが、声にならなかった。


 祥子は実験台の上にある写真を右にスライドさせる。見せてくれるらしい。


 咲羅は身を乗り出すようにして写真を覗き込んだ。少し黄ばんだそれは、一人の男性のバストショットだった。淡藤色の髪と桔梗色の目を持ったスーツ姿のその男性は、柔和な笑みを浮かべている。


「的場持之。風牙の一つ前の学園長よ」


 祥子の声には、温もりが混じっていた。


 咲羅は学園長室で見た写真を思い出した。咲羅の脳裏に、その後、耳にした持之の噂がよみがえる。みな口を揃えて「温厚な人だった」と言っていた。誰に対しても敬語を使い、礼儀正しく、歴代最高の結界師でみなから慕われていた、と。


 祥子はわずかに微笑んで、付け足す。


「あと、あたしの婚約者だったひと」


「え⁉︎」


「あら、あたしに色恋沙汰があることがそんなに意外?」


「あ、いや、そういうわけじゃあ……」


 大げさにリアクションをしてしまった分、強く否定することもできず、しどろもどろになってしまう。そんな咲羅の反応を最後に、研究室は静まり返った。


 沈黙が長く続いた後、咲羅は勇気を振り絞るように口を開いた。


「……病気だったんですか」


 写真の中の持之は二十代後半くらいに見える。彼を惜しむ人々の言葉の中に「若くして」という表現があったことを思い出した。それ以上のことを咲羅は知らなかったが、ずっと気になっていた。


 前学園長の死因は一体何だったのか。


 身近だった祥子に聞くのは酷かもしれない。しかし、人の噂で知るより、祥子の口から直接聞きたかった。


 そんな咲羅の気持ちを察したのか、祥子は小さく口を開いた。


「病気だったらあたしが治してやったわよ。怪我でも、隣にさえいればね……。学園も通さず、任務でもなく、独自に動いていたものがあったらしくてね。学園に帰ってきたときにはもう手遅れだったわ。二、三言話してあっという間にあの世に行っちゃうんだから、ほんと、ばか。一人時間を止めちゃって、ついに同い年になっちゃったわよ」


 眉尻は下がっているのに、口角は上がっている。祥子は悲痛な笑顔を見せた。


「ごめんごめん、湿っぽくなっちゃったわね。あたしもシャワー浴びてくるわ。そしたら授業にするから、休憩しといて」


 軽く手を振り研究室を出ていく祥子の背に何も言うことができないまま、咲羅は一人立ち尽くす。冷蔵庫の低く唸る音だけが、研究室に響いていた。


 咲羅は丸椅子にどさりと腰を下ろして、祥子の言葉を反芻した。祥子の無力感、そして今も続く喪失感。それらが咲羅の胸に重くのしかかる。いつのまにか、目頭が熱くなっていた。師匠の悲しみに共感し、その痛みを少しでも分かち合いたいと思った。


 そういえば、なんで風牙さんは、持之さんの名前をわたしに聞いてきたんだろう。





 三十分ほどして、祥子がシャワー室から帰ってくる。その時には彼女は背筋をピンと伸ばし、いつもの強くて明るい姿に戻っていた。


「さあ、今日も香薬こうやくについて授業していくわよ」


 祥子の声には、先ほどの影は微塵もない。


 部屋中央の実験台に近づいた祥子は、その上部の棚に手を伸ばした。何回かに分けて、高さ十五センチほどの小瓶を次々と取り出し、実験台の上に並べていく。


 祥子は「ポイズン・マスター」という異名を持っているらしい。その名の由来は、これらの小瓶・香薬だった。


「今日はちょっと実践的なものについて教えるわ。安心して。致死性のものは省くから」


 さらりと恐ろしいことを言う師匠に、咲羅は頬を引きつらせた。


「怖がらない、怖がらない」


 祥子は軽く咲羅の肩を叩く。


「まずは、そうね。樟脳香について学んでもらおうかしら」


 祥子が手に取ったのは、無色透明な液体が入った小瓶だった。蛍光灯の光を受けて、小瓶の縁がキラリと光った。


「樟脳って、防虫剤のですか?」


「そうそう、その樟脳よ。クスノキを水蒸気蒸留すると、結晶状の天然樟脳が得られるの。血行促進作用や鎮痛作用があって局所麻酔にも使えるわ」


「へえ、樟脳にそんな効果があったんですね。麻酔ってことは治療に使えるってことですよね」


「そうよ」


「こういう香薬ばかりだったらいいのに」


 祥子は昔、香薬を使って魔物を討伐していたそうだ。だから、彼女が扱う香薬の中には、身体に害を与えるものも多い。


 咲羅の発言に、祥子は口の両端を持ち上げ、茶目っ気のある笑みを浮かべた。


「あら、これだって飲み込むと精神錯乱や、神経や筋肉への障害をきたすわよ」


「安全なものはないんですか……」


 咲羅はげんなりした顔で、棚に並ぶ小瓶を見つめる。


「薬と毒は紙一重。使い方次第なの。あ、でもこれとかは臆病なあんたにいいんじゃない?」


 祥子が次に手に取ったのは、桜色の液体が入った小瓶だった。


「追尾香って言うんだけどね」


 祥子は小瓶の蓋を開け、咲羅に匂いをかがせる。


「無臭ですね」


「でしょ。じゃあ、ちょっと飲んでみて」


「え⁉︎」


 咲羅は差し出された小瓶を前に思わず後ずさりした。冷や汗が背中を伝う。先ほど飲むと有毒だという香薬の説明を聞いたばかりだ。きれいな桜色が、獲物を誘う美しくも危険な花のように思えてならなかった。


「ふふっ、ばかねえ。これは大丈夫よ」


 祥子は咲羅の手を取り、その甲に桜色の液体を数滴落とした。


 咲羅は恐る恐るそれを舐める。


「よし。じゃあ、もう一度嗅いでみて」


 咲羅は小瓶を受け取り、鼻に近づけた。ふわりと桜の塩漬けの香りが鼻腔をくすぐった。


「匂いがある!」


「これはね、どこかに潜入したり攫われたりした時に、仲間に居場所を知らせるためのものなの。敵には気がつかれず、追尾香を飲んだ仲間にだけ伝えることができる。使う場面は限られるけれど、持っていて損はないわ」


「やっぱり祥子さんってすごいんだ」


 咲羅の純粋な賞賛に機嫌を良くしたのか、祥子は豪快に笑った。


「こんなもんじゃないわよ、あたしの香薬は。咲羅にはすべてを伝授してあげるから、しっかり学びなさい」


「はい!」


 それから数時間が過ぎた。祥子から膨大な知識を叩き込まれた咲羅が、ふらふらしながら地上へ出ると、しっとりとした濃紺色の夜空に満天の星が輝いていた。

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