第9話:【目醒めの残響と鋼の貌】
迷宮の最下層から地上へと続く「審判の回廊」は、静寂に包まれていた。 だが、その静寂は平和を意味しない。出口を目前にした二人の前に、回廊の守護者である「石像の番人」が、巨躯を震わせて動き出す。
「……下がってろ。今の俺なら、こいつの動きが見える」
高橋が静かに告げた。 彼の視界には、石像が振り下ろす巨大な槌の軌道が、スローモーションのように青い光の線となって描写されている。
[パッシブスキル:『感覚共有』が発動中。] [対象の行動予測を完了。迎撃態勢に移行します。]
石像の槌が床を粉砕する寸前、高橋の姿が消えた。 否、消えたのではない。爆発的な脚力が、石畳を蹴り抜いて最短距離を突き進んだのだ。 女魔法使いが瞬きをする間に、高橋は石像の懐へと潜り込んでいた。
「これで……終わりだ」
重力を一点に集中させた拳が、石像の胸部を叩く。 轟音。 岩が砕ける乾いた音と共に、巨大な石像が背後の壁まで吹き飛び、粉々に霧散した。
女魔法使いは、呆然とその光景を見つめるしかなかった。 かつては一歩歩くだけで息を切らしていた男の、無駄のない、あまりに美しい暴力。 彼女の胸に去来したのは、安堵だけではない。 自分を蔑んでいた者たちを圧倒する彼の背中に、名前のつかない「畏怖」と、それ以上に強い「希望」を感じていた。
「行きましょう。……外へ」
彼女がそっと、高橋の服の裾を掴んだ。 高橋は何も言わず、ただ重く頷いた。 目の前の光り輝く出口へと足を踏み入れた瞬間、システムの無機質な声が脳内に響き渡る。
[迷宮の脱出を確認。] [一時的な身体同期を終了し、現実世界への変換を実行します。] [お疲れ様でした、宿主。]
意識が急激に遠のき、世界が白く反転していく。
次に高橋翔太が目を開けたとき、鼻を突いたのはカビの臭いではなく、自室の古びたカーテン越しに差し込む、安っぽい朝日の匂いだった。
「……あ、あぁ……」
声を出そうとして、自分の喉から漏れた低い残響に驚いた。 身体が、重い。 だが、それは以前のような「脂肪の重み」ではなかった。 一本一本の繊維が鋼で編み込まれたような、圧倒的な密度の重力だ。
高橋はゆっくりと上体を起こした。 その瞬間、バキッという嫌な音がして、長年愛用していたベッドのフレームが、彼の重みに耐えかねて悲鳴を上げた。
「なんだ、これ……」
視線を下に向けると、そこには信じられない光景があった。 着ていたはずのだらしないサイズのTシャツは、盛り上がった胸筋と広背筋に耐えきれず、至る所が裂けている。 112キロあったはずの腹部は、彫刻のように鋭く窪み、強靭な腹筋が浮き出していた。
彼は震える足で立ち上がり、姿見の前に立った。
鏡の中にいたのは、二度見しなければ自分だと分からない「怪物」だった。 頬の肉は削げ落ち、鋭い顎のラインが強調されている。 何より、その瞳だ。 かつて卑屈に周囲を伺っていた濁った瞳は消え、内側から青白い光が漏れ出すような、獲物を狙う猛禽類のような鋭利な光を宿している。
[身体の最適化、第一段階完了。] [現在:Lv.8] [現実世界での筋力、敏捷、感覚が大幅に上昇しました。]
高橋は自分の拳をじっと見つめた。 異世界での死闘は、夢ではなかった。 あの迷宮で削り出した魂と肉体は、今、確実にこの現実へと持ち帰られている。
「……守るって、言ったからな」




