第8話:【深淵の代償と鋼の鼓動】
暗闇の中で、鼻を突く血の匂いと、耳を劈く魔物の咆哮が交差した。 高橋翔太が次に目を開けたとき、視界に広がっていたのはカビ臭い天井ではなく、鈍く光る石造りの回廊だった。
「……戻ったのか」
身体を起こそうとして、手の平に伝わる硬い感触で確信した。現実世界のベッドとは違う、冷徹な迷宮の感触だ。だが、目の前の状況は、休息を許すようなものではなかった。
「ひっ……、来ないで……!」
短い悲鳴。 視線を向けると、数メートル先で女魔法使いが泥だらけの杖を構え、震えていた。彼女の前には、先ほどの衝撃波を免れた数体のコボルド・ソルジャーが、獲物を仕留める隙を伺って低く唸り声を上げている。
彼女は、気絶した高橋を置いたまま逃げることはしなかった。 魔力も尽きかけ、指先一つ動かすのも恐ろしいはずの状況で、得体の知れない「動く脂身」と呼ばれた男を必死に守り続けていたのだ。
高橋の胸の奥で、ドロリとした熱い感情が渦巻いた。 他人のために自分を犠牲にする愚かさ。そして、それを見捨てられない自分自身の性質。かつて裏庭で幼なじみを守った時と同じ、理屈を超えた義憤が、彼の血管を駆け巡る。
[身体同期、完了。] [宿主:高橋翔太(Lv.4)] [現実世界でのエネルギー摂取を確認。魔力回路の出力を安定させます。]
高橋が立ち上がった。 その瞬間、周囲の空気が重く沈み込んだ。
魔物たちが本能的な恐怖に喉を鳴らす。高橋は一歩を踏み出した。現実世界で感じたあの軽やかさは、この世界では暴力的なまでの推進力へと変わっていた。
「……どけ」
高橋が手を払う。 それだけで、重力の不可視の刃が空を裂いた。襲いかかろうとしたコボルドたちが、石床に叩きつけられると同時に、その身体をくの字に折り曲げて絶命した。
「あ……。お、起きた……んですか……?」
女魔法使いが、安堵と恐怖の混じった表情で崩れ落ちた。 高橋は彼女の元へ歩み寄り、その小さな肩を支えた。現実世界の112キロの肉体は、この世界では鋼のような密度に変換されている。
「悪かったな。……次は、俺が守る」
高橋の言葉に、彼女はただ黙って頷いた。 出口を求めて進む二人の前には、王女たちが残した死の罠と、迷宮の悪意そのもののような魔物たちが立ち塞がった。
[警告:敵対個体群を確認。] [『弱者の逆襲』を開始します。]
眼前の闇から、無数の紅い瞳が浮かび上がる。 だが、高橋の視界には、それらすべてを屠るための最短ルートが青い光跡として見えていた。
地を蹴る。爆音と共に石床が砕け、高橋の巨躯が弾丸と化した。 拳が魔物の頭部を粉砕し、振り抜いた腕が空気の壁を切り裂く。 一撃。また一撃。
[レベルが上がりました。] [レベルが上がりました。]
頭の中で響く無機質なシステム音。 その音と共に、高橋の身体から凄まじい熱気が吹き出した。 不要な脂肪が魔力の炎に焼かれ、圧縮され、超高密度の筋繊維へと作り変えられていく。 骨が軋み、肉が躍動する。
背後で杖を握りしめる女魔法使いは、その光景に言葉を失っていた。 そこにいるのは、かつて皆に蔑まれた「脂の塊」ではない。 暗闇の中、青白いシステムウィンドウの光に照らされたその背中は、どんな絶望をも撥ね退ける「最強の戦士」のそれだった。
高橋はこの地獄の中で、自らの魂を削りながら戦い続けた。 一歩進むたびに、新たな苦難が彼を襲う。それは単なる戦闘ではない。泥濘に沈む身体を引き上げ、空腹に耐え、絶望を飲み込み、他人を守るために自らを盾にする過酷な道程だった。
その一つ一つの苦難を乗り越えるたび、高橋の内側で何かが弾けた。 己という人間の枠組みを一度叩き壊し、より強靭な形へと鋳直すための脱皮。 脂肪は魔力の炎に焼かれ、筋肉は鋼の密度を増し、視界はかつてないほど鋭く澄み渡っていく。
[身体の最適化を継続。レベルが上昇:Lv.4 → Lv.8]
レベルが一つ上がるたびに、現実世界で眠る高橋の肉体も変貌を遂げていく。 現実の彼はもはや、醜悪なデブというレッテルでは括れない異質の戦士へと新生しつつあった。




